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すれ違った視線にだけ、何かが引っかかる
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朝の通勤電車は、いつものように無機質な混雑で満たされていた。満員の車内、身体と身体が擦れ合うたび、楷は呼吸を浅くした。吊り革に手をかけた腕が誰かの背中に触れ、衣服の感触越しに相手のぬくもりを感じたとしても、それが不快でも快でもなかった。ただ、反応が薄い自分の皮膚を、誰かの温度が一方的になぞっていくだけだった。
スマートフォンの画面に視線を落とすふりをしながら、楷は虚ろにニュースの見出しを追った。睡眠不足と、曖昧に残った夜の記憶のせいか、目の奥がじんと痛んだ。車内には、他人の香水と汗が混ざった空気が漂い、わずかに湿った吐息が肩口にかかるたび、楷は自分の存在の輪郭をぼやかすように意識を外へと向けていた。
朝の光はすでに強く、電車の窓から差し込む日差しが頬に触れる。昨日の雨が嘘のように晴れた空が、外には広がっていた。だが、楷にとってそれはどうでもいいことだった。晴れでも雨でも、気温が高くても低くても、外の世界と自分との間には、透明な壁が一枚、確実に存在していた。
会社の最寄り駅に着くと、人々は雪崩のようにホームへと押し出され、エスカレーターへと流れていった。楷もその一部として、足音を揃えて歩いた。靴音、アナウンス、誰かの小声。全てが雑音となり、頭の奥で遠ざかっていく。時折吹き抜けるビル風にシャツが揺れ、ネクタイが軽く踊る。そのたびに楷は手を伸ばし、胸元を整える仕草をした。
ビルの入り口を抜け、カードキーでゲートを通過する。受付を過ぎた先、いつもと変わらないロビーの空気が、今日だけはほんの少しだけ重たく感じられた。疲労のせいか、それともまだ昨夜の皮膚の記憶が残っているせいか。理由を考えるまでもなく、楷は無表情のまま足を止めた。
エレベーターの前に立ち、ボタンを押した。その瞬間だった。反対側から近づいてきた一人の男が、同じようにエレベーターを待っていた。小阪芳樹。同期の営業社員で、楷にとっては、会社の中で最も距離を測りかねる存在だった。
彼はこちらに気づいた様子だったが、表情は変えなかった。だが、ほんの一瞬、目が合った。その短い間に、なぜか楷の中で何かがざわついた。視線はぶつかっただけで、言葉も交わしていない。それなのに、胸の奥のどこかに、ごくわずかな振動が生まれた。
「おはよう」
芳樹の声は、いつものように低く落ち着いていた。過剰な明るさも、特別な感情もなく、ただ挨拶としての最低限の音量と抑揚がそこにあった。それだけなのに、楷は一拍だけ間を置いてしまった。
「…おはようございます」
返した自分の声が、ほんのわずかに硬かったことを、楷自身が一番よく分かっていた。口角を僅かに上げて笑みを添えたつもりだったが、その仕草がどこかぎこちなかったのも自覚している。芳樹はそれに気づいたかどうか、特に何も言わず、ボタンを押して開いたエレベーターに背を向けた。
その後ろ姿を見送ったとき、楷の胸には奇妙な違和感が残っていた。数えきれないほどの挨拶をこれまで交わしてきたはずだった。会社の同僚として、ビジネスの顔として、何でもない日常の中で。けれど、今朝だけは何かが違った。いや、違ったのではない。こちらが、違うように感じてしまったのだ。
何だろう、この人の目だけが…少しだけ、“通っていた”気がした。
そう思ったとき、自分でも驚くほどに喉が渇いていることに気づいた。唇を舌でなぞり、無意識に背筋を伸ばす。たった一言の挨拶で、こんなふうに身体が反応してしまうとは思っていなかった。
通り過ぎていった芳樹の姿は、すでに人混みの向こうに溶けていた。追いかける必要も、声をかける理由もない。ただ、その視線の余韻だけが、静かに胸に残っていた。目が合った瞬間、あの目の奥には、たしかに何かがあった。けれど、それが何かは、うまく言葉にできなかった。
気のせいかもしれない。それだけのことかもしれない。だけど、昨夜、何も残らなかったはずの心の中に、その一瞬の視線だけが引っかかっている。それがどうしてなのか、今の楷にはまだ分からなかった。
そのまま足を進め、自分のフロアへと向かう。廊下を歩きながら、楷はもう一度だけ、芳樹の目を思い出そうとした。けれど、思い出せるのは輪郭ではなく、そのとき胸の奥に走った“ざわめき”のような感触だけだった。
それは、ほかの誰かと交わったあとにも、どんな甘い言葉をかけられたときにも、感じたことのない種類のものだった。
だからこそ、記憶の底に沈めようとしても、きっとまた浮かび上がってくるのだろう。
確認できないまま、そのまま朝は始まってしまった。
何も変わらないはずの一日のなかに、たった一つ、確かに違って見えるものがあった。
それは、すれ違った一秒の視線だった。
スマートフォンの画面に視線を落とすふりをしながら、楷は虚ろにニュースの見出しを追った。睡眠不足と、曖昧に残った夜の記憶のせいか、目の奥がじんと痛んだ。車内には、他人の香水と汗が混ざった空気が漂い、わずかに湿った吐息が肩口にかかるたび、楷は自分の存在の輪郭をぼやかすように意識を外へと向けていた。
朝の光はすでに強く、電車の窓から差し込む日差しが頬に触れる。昨日の雨が嘘のように晴れた空が、外には広がっていた。だが、楷にとってそれはどうでもいいことだった。晴れでも雨でも、気温が高くても低くても、外の世界と自分との間には、透明な壁が一枚、確実に存在していた。
会社の最寄り駅に着くと、人々は雪崩のようにホームへと押し出され、エスカレーターへと流れていった。楷もその一部として、足音を揃えて歩いた。靴音、アナウンス、誰かの小声。全てが雑音となり、頭の奥で遠ざかっていく。時折吹き抜けるビル風にシャツが揺れ、ネクタイが軽く踊る。そのたびに楷は手を伸ばし、胸元を整える仕草をした。
ビルの入り口を抜け、カードキーでゲートを通過する。受付を過ぎた先、いつもと変わらないロビーの空気が、今日だけはほんの少しだけ重たく感じられた。疲労のせいか、それともまだ昨夜の皮膚の記憶が残っているせいか。理由を考えるまでもなく、楷は無表情のまま足を止めた。
エレベーターの前に立ち、ボタンを押した。その瞬間だった。反対側から近づいてきた一人の男が、同じようにエレベーターを待っていた。小阪芳樹。同期の営業社員で、楷にとっては、会社の中で最も距離を測りかねる存在だった。
彼はこちらに気づいた様子だったが、表情は変えなかった。だが、ほんの一瞬、目が合った。その短い間に、なぜか楷の中で何かがざわついた。視線はぶつかっただけで、言葉も交わしていない。それなのに、胸の奥のどこかに、ごくわずかな振動が生まれた。
「おはよう」
芳樹の声は、いつものように低く落ち着いていた。過剰な明るさも、特別な感情もなく、ただ挨拶としての最低限の音量と抑揚がそこにあった。それだけなのに、楷は一拍だけ間を置いてしまった。
「…おはようございます」
返した自分の声が、ほんのわずかに硬かったことを、楷自身が一番よく分かっていた。口角を僅かに上げて笑みを添えたつもりだったが、その仕草がどこかぎこちなかったのも自覚している。芳樹はそれに気づいたかどうか、特に何も言わず、ボタンを押して開いたエレベーターに背を向けた。
その後ろ姿を見送ったとき、楷の胸には奇妙な違和感が残っていた。数えきれないほどの挨拶をこれまで交わしてきたはずだった。会社の同僚として、ビジネスの顔として、何でもない日常の中で。けれど、今朝だけは何かが違った。いや、違ったのではない。こちらが、違うように感じてしまったのだ。
何だろう、この人の目だけが…少しだけ、“通っていた”気がした。
そう思ったとき、自分でも驚くほどに喉が渇いていることに気づいた。唇を舌でなぞり、無意識に背筋を伸ばす。たった一言の挨拶で、こんなふうに身体が反応してしまうとは思っていなかった。
通り過ぎていった芳樹の姿は、すでに人混みの向こうに溶けていた。追いかける必要も、声をかける理由もない。ただ、その視線の余韻だけが、静かに胸に残っていた。目が合った瞬間、あの目の奥には、たしかに何かがあった。けれど、それが何かは、うまく言葉にできなかった。
気のせいかもしれない。それだけのことかもしれない。だけど、昨夜、何も残らなかったはずの心の中に、その一瞬の視線だけが引っかかっている。それがどうしてなのか、今の楷にはまだ分からなかった。
そのまま足を進め、自分のフロアへと向かう。廊下を歩きながら、楷はもう一度だけ、芳樹の目を思い出そうとした。けれど、思い出せるのは輪郭ではなく、そのとき胸の奥に走った“ざわめき”のような感触だけだった。
それは、ほかの誰かと交わったあとにも、どんな甘い言葉をかけられたときにも、感じたことのない種類のものだった。
だからこそ、記憶の底に沈めようとしても、きっとまた浮かび上がってくるのだろう。
確認できないまま、そのまま朝は始まってしまった。
何も変わらないはずの一日のなかに、たった一つ、確かに違って見えるものがあった。
それは、すれ違った一秒の視線だった。
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