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それでも、朝は始まる
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フロアの空調が動き出す音が、静かに室内を満たしていた。朝一番の時間帯、まだ出社していない社員も多く、オフィスは乾いた気配に包まれていた。楷は無言のままデスクに向かい、カバンを置くと手慣れた動作でノートパソコンを開いた。
ディスプレイが立ち上がるまでの数秒間に、首元のネクタイを指先で整える。ネクタイピンの位置も、シャツの襟の形も、微細な乱れひとつ許さない。そうやって作り上げた“整った楷”は、今日も会社の中で不備なく存在するための仮面だった。
背筋を伸ばし、椅子の背もたれに軽く触れる程度に身体を預ける。表情は落ち着いていて、目元に疲れを滲ませながらも、相手の感情を刺激しない程度の無表情を保っていた。声をかけられても、驚かず、乱れず、返す言葉は礼儀正しく、適切に。それが、ここでの楷の在り方だった。
ディスプレイに反射した自分の顔を見て、ふと目を細める。ぼんやりとした光の中に映る輪郭は、今朝シャワーを浴び、鏡の前で仕上げたとおりの顔だ。中性的な眉の形も、ほのかに色を乗せた唇も、何一つ狂いがない。けれど、その完璧さがむしろ不気味に思えた。
顔の中に“生”を感じなかった。皮膚の下で心臓が動いていることも、今ここに自分がいるという確かな実感も、どこか遠くにあるようだった。
誰と寝ても、俺はいなかった。
心の中でそう繰り返すと、胸の奥にひどく空虚な感触が残った。昨夜、激しく触れられ、達した身体には快感がたしかにあった。呼吸は荒れ、吐息は漏れ、身体は震えた。それでも、そのどこにも“自分”はいなかった。ただ、機能として反応する肉体がそこにあっただけだった。
感情は、触れられた皮膚とは別の場所に置き去りにされていた。誰かの腕の中で感じたはずの心地よさも、朝になれば砂のように崩れて消える。そうやって過ごした夜は、もう何度も繰り返してきた。
パソコンが立ち上がり、業務用のシステムが読み込まれていく。メールの通知が並び、カレンダーには今日の予定が整然と記されている。スケジュールの色分けも完璧で、隙のない作業がそこにはあった。
けれど、画面の隅に反射した自分の視線だけが、どうしても落ち着かなかった。気のせいにできるほど軽い感覚ではなかった。胸のどこかに小さな異物のように残っていたそれは、先ほどエレベーター前ですれ違った芳樹の視線だった。
……なのに、あの視線だけが、やけに残ってる。
挨拶の声は短く、言葉に特別な意味はなかったはずだった。なのに、目の奥にあったあの“何か”が、楷の心を不意にかすめていった。それが理解不能なほどに自然で、逆に不安になった。
今まで、他人の視線には慣れていた。賞賛、欲望、興味、優越感、あるいは警戒心。自分の存在が、それらを引き寄せることにはずっと慣れていた。だからこそ、期待される表情や立ち居振る舞いも自然と身についたし、誰よりも早く場の空気を読む術も得た。
だが、芳樹の目は、それらとは違っていた。何かを見ようとする目ではなかったし、何かを押し付けようとする目でもなかった。むしろ、ただ“そこにあった”のだ。
目が合った瞬間、自分の輪郭が微かに浮き上がったような気がした。誰かに見られている、という感覚ではなく、“見られていないことに慣れきった自分が、ふいに視線の中に存在した”という感触。それは、はっきりとした言葉にはならなかったが、心のどこかが確かにそれを覚えていた。
ディスプレイに視線を戻しながら、楷は深く呼吸を整えた。空調の音が一定のリズムで鳴り、隣の席の椅子が引かれる音が、朝の始まりを告げる。会社という装置が、今日も正確に動き出しているのが分かる。
背筋を伸ばしたまま、楷は目を閉じそうになった。眠気ではない。ほんの少しだけ、心が重たかったのだ。言葉にできない重みが胸の奥に横たわっていて、それがずっと眠っていた感覚を呼び覚まそうとしていた。
それが何なのか、まだ分からない。ただ、明確に言えるのは、“なにも残らなかったはずの朝”に、たった一つ、何かが刻まれてしまったということだった。
どうして、あんなふうに、俺を見たんだろう…
ディスプレイが立ち上がるまでの数秒間に、首元のネクタイを指先で整える。ネクタイピンの位置も、シャツの襟の形も、微細な乱れひとつ許さない。そうやって作り上げた“整った楷”は、今日も会社の中で不備なく存在するための仮面だった。
背筋を伸ばし、椅子の背もたれに軽く触れる程度に身体を預ける。表情は落ち着いていて、目元に疲れを滲ませながらも、相手の感情を刺激しない程度の無表情を保っていた。声をかけられても、驚かず、乱れず、返す言葉は礼儀正しく、適切に。それが、ここでの楷の在り方だった。
ディスプレイに反射した自分の顔を見て、ふと目を細める。ぼんやりとした光の中に映る輪郭は、今朝シャワーを浴び、鏡の前で仕上げたとおりの顔だ。中性的な眉の形も、ほのかに色を乗せた唇も、何一つ狂いがない。けれど、その完璧さがむしろ不気味に思えた。
顔の中に“生”を感じなかった。皮膚の下で心臓が動いていることも、今ここに自分がいるという確かな実感も、どこか遠くにあるようだった。
誰と寝ても、俺はいなかった。
心の中でそう繰り返すと、胸の奥にひどく空虚な感触が残った。昨夜、激しく触れられ、達した身体には快感がたしかにあった。呼吸は荒れ、吐息は漏れ、身体は震えた。それでも、そのどこにも“自分”はいなかった。ただ、機能として反応する肉体がそこにあっただけだった。
感情は、触れられた皮膚とは別の場所に置き去りにされていた。誰かの腕の中で感じたはずの心地よさも、朝になれば砂のように崩れて消える。そうやって過ごした夜は、もう何度も繰り返してきた。
パソコンが立ち上がり、業務用のシステムが読み込まれていく。メールの通知が並び、カレンダーには今日の予定が整然と記されている。スケジュールの色分けも完璧で、隙のない作業がそこにはあった。
けれど、画面の隅に反射した自分の視線だけが、どうしても落ち着かなかった。気のせいにできるほど軽い感覚ではなかった。胸のどこかに小さな異物のように残っていたそれは、先ほどエレベーター前ですれ違った芳樹の視線だった。
……なのに、あの視線だけが、やけに残ってる。
挨拶の声は短く、言葉に特別な意味はなかったはずだった。なのに、目の奥にあったあの“何か”が、楷の心を不意にかすめていった。それが理解不能なほどに自然で、逆に不安になった。
今まで、他人の視線には慣れていた。賞賛、欲望、興味、優越感、あるいは警戒心。自分の存在が、それらを引き寄せることにはずっと慣れていた。だからこそ、期待される表情や立ち居振る舞いも自然と身についたし、誰よりも早く場の空気を読む術も得た。
だが、芳樹の目は、それらとは違っていた。何かを見ようとする目ではなかったし、何かを押し付けようとする目でもなかった。むしろ、ただ“そこにあった”のだ。
目が合った瞬間、自分の輪郭が微かに浮き上がったような気がした。誰かに見られている、という感覚ではなく、“見られていないことに慣れきった自分が、ふいに視線の中に存在した”という感触。それは、はっきりとした言葉にはならなかったが、心のどこかが確かにそれを覚えていた。
ディスプレイに視線を戻しながら、楷は深く呼吸を整えた。空調の音が一定のリズムで鳴り、隣の席の椅子が引かれる音が、朝の始まりを告げる。会社という装置が、今日も正確に動き出しているのが分かる。
背筋を伸ばしたまま、楷は目を閉じそうになった。眠気ではない。ほんの少しだけ、心が重たかったのだ。言葉にできない重みが胸の奥に横たわっていて、それがずっと眠っていた感覚を呼び覚まそうとしていた。
それが何なのか、まだ分からない。ただ、明確に言えるのは、“なにも残らなかったはずの朝”に、たった一つ、何かが刻まれてしまったということだった。
どうして、あんなふうに、俺を見たんだろう…
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