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始業前の静けさ
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朝のオフィスビルは、まだ眠っているように静かだった。
ガラス張りの自動扉をくぐると、芳樹は無意識のうちに背筋を正し、革靴の音をできるだけ抑えて歩いた。エントランスからエレベーターへ続く直線的な廊下。床の石材がほんのりと冷たさを含んでいて、春の空気がその上をゆるやかに這っていた。
早朝の空気は、基本的に好きだった。
まだ誰も出社していないフロアに一番乗りし、パソコンを立ち上げるまでの数分間。誰にも邪魔されないその時間には、仕事への切り替えと自分を取り戻すための静けさがあった。誰にも話しかけられず、誰も何も言わない時間。それが芳樹にとって、心を整えるルーティンのようなものだった。
けれど、最近はその静けさのなかに、ひとつの違和感が入り込んでいた。
エレベーターの扉が開く。降りた瞬間、フロアの奥に座るひとつの姿が目に入る。
阿倍野楷。営業部の同期。
自分よりも数分早く出社して、すでに業務用のパソコンに向かっている。
直立に近い姿勢で椅子に座り、淡い光の中でキーボードを打つ手の動きまでが静かだ。背筋に一切の無駄がなく、髪は一本たりとも乱れておらず、白いシャツの袖から見える手首は、女性のように細くて骨ばっている。その横顔は、まるでグラビアか何かから抜け出したように、整いすぎていて現実感が薄かった。
あの人がいると、空気が変わる。
朝一番のこの空気が好きだったはずなのに、この人がいると、なぜか息苦しい。
いや、違う。息苦しいというより…見てしまうから、息が詰まるんだ。
言葉にならない感情が胸の奥をかすめ、芳樹は少しだけ歩く速度を緩めた。楷のほうは、視線をパソコンから逸らさずにいたが、芳樹の足音に気づいたのか、ふと顔を上げる。
「おはようございます」
やわらかい声だった。
感情を含まない、落ち着いたトーン。どこか薄く笑っているようにも見えるが、それが自然なものなのか、営業職としての“仮面”なのか、芳樹には判別がつかなかった。
それでも、その声に一瞬だけ、心が小さく波打った。
返事をしようとして、喉がわずかに詰まる。自分が少し固まっていたことに気づき、芳樹は間を置いてから、「おはよう」とようやく返した。
その声は、いつものように自然ではなかった。
一拍、遅れた挨拶。
まるで、正解のタイミングを見失ってから、慌てて思い出したかのような返しだった。
すれ違いざま、芳樹は楷の横顔を横目で捉えた。真正面から見るには抵抗があった。あの顔を見ていると、自分が“何を見ているか”を問われているような錯覚に陥るからだ。
まっすぐで、曖昧で、浮世離れしているのに、妙に生活感がある。
その矛盾を一度でも意識してしまうと、どうしても目が離せなくなる。
背後で、椅子がわずかに軋む音がした。楷が座り直したのだろうか。それとも、手を止めて、今の挨拶のタイミングをどう感じたのだろうか。芳樹は確かめる術も持たないまま、自分の席に着いた。
鞄を机に置き、パソコンのスリープを解除する。ログイン画面の青い光が顔を照らし、しばしの沈黙が続いた。だが、その間にも意識のどこかでは、先ほどの挨拶が反芻されていた。
“おはようございます”と、“おはよう”。
その二つの言葉のあいだに、どれほどの距離があっただろう。
どちらが形式的で、どちらが個人的だったのか。
そして、どちらが心を閉ざしていたのか。
芳樹は、目を伏せた。
こうしてデスクに向かっている今も、なぜか視界の端に楷の姿が残っていた。正面のモニター越しにさえ、その背筋の整い方や、キーボードを打つ音が浮かんでくる。
五感が記憶してしまう。目に焼き付いた“整いすぎた存在”は、無意識のうちに身体のどこかに爪を立てているようだった。
…見てしまうから、息が詰まるんだ。
今、それを認めてしまったことに、自分でも驚いていた。
視線を逸らし、心を閉ざしていたつもりだったのに、ほんの一言の挨拶が、それを剥がしてしまった。
深く息を吐き、芳樹はマウスに手を添えた。
業務の開始を告げるように、最初のメールをクリックする。
その手のひらに、微かな熱が残っていた。
いつもと変わらないはずの朝。
なのに、たった一言が、今朝の空気をわずかに揺らしていた。
その揺らぎが、気のせいだと信じるには、もう少し時間がかかりそうだった。
ガラス張りの自動扉をくぐると、芳樹は無意識のうちに背筋を正し、革靴の音をできるだけ抑えて歩いた。エントランスからエレベーターへ続く直線的な廊下。床の石材がほんのりと冷たさを含んでいて、春の空気がその上をゆるやかに這っていた。
早朝の空気は、基本的に好きだった。
まだ誰も出社していないフロアに一番乗りし、パソコンを立ち上げるまでの数分間。誰にも邪魔されないその時間には、仕事への切り替えと自分を取り戻すための静けさがあった。誰にも話しかけられず、誰も何も言わない時間。それが芳樹にとって、心を整えるルーティンのようなものだった。
けれど、最近はその静けさのなかに、ひとつの違和感が入り込んでいた。
エレベーターの扉が開く。降りた瞬間、フロアの奥に座るひとつの姿が目に入る。
阿倍野楷。営業部の同期。
自分よりも数分早く出社して、すでに業務用のパソコンに向かっている。
直立に近い姿勢で椅子に座り、淡い光の中でキーボードを打つ手の動きまでが静かだ。背筋に一切の無駄がなく、髪は一本たりとも乱れておらず、白いシャツの袖から見える手首は、女性のように細くて骨ばっている。その横顔は、まるでグラビアか何かから抜け出したように、整いすぎていて現実感が薄かった。
あの人がいると、空気が変わる。
朝一番のこの空気が好きだったはずなのに、この人がいると、なぜか息苦しい。
いや、違う。息苦しいというより…見てしまうから、息が詰まるんだ。
言葉にならない感情が胸の奥をかすめ、芳樹は少しだけ歩く速度を緩めた。楷のほうは、視線をパソコンから逸らさずにいたが、芳樹の足音に気づいたのか、ふと顔を上げる。
「おはようございます」
やわらかい声だった。
感情を含まない、落ち着いたトーン。どこか薄く笑っているようにも見えるが、それが自然なものなのか、営業職としての“仮面”なのか、芳樹には判別がつかなかった。
それでも、その声に一瞬だけ、心が小さく波打った。
返事をしようとして、喉がわずかに詰まる。自分が少し固まっていたことに気づき、芳樹は間を置いてから、「おはよう」とようやく返した。
その声は、いつものように自然ではなかった。
一拍、遅れた挨拶。
まるで、正解のタイミングを見失ってから、慌てて思い出したかのような返しだった。
すれ違いざま、芳樹は楷の横顔を横目で捉えた。真正面から見るには抵抗があった。あの顔を見ていると、自分が“何を見ているか”を問われているような錯覚に陥るからだ。
まっすぐで、曖昧で、浮世離れしているのに、妙に生活感がある。
その矛盾を一度でも意識してしまうと、どうしても目が離せなくなる。
背後で、椅子がわずかに軋む音がした。楷が座り直したのだろうか。それとも、手を止めて、今の挨拶のタイミングをどう感じたのだろうか。芳樹は確かめる術も持たないまま、自分の席に着いた。
鞄を机に置き、パソコンのスリープを解除する。ログイン画面の青い光が顔を照らし、しばしの沈黙が続いた。だが、その間にも意識のどこかでは、先ほどの挨拶が反芻されていた。
“おはようございます”と、“おはよう”。
その二つの言葉のあいだに、どれほどの距離があっただろう。
どちらが形式的で、どちらが個人的だったのか。
そして、どちらが心を閉ざしていたのか。
芳樹は、目を伏せた。
こうしてデスクに向かっている今も、なぜか視界の端に楷の姿が残っていた。正面のモニター越しにさえ、その背筋の整い方や、キーボードを打つ音が浮かんでくる。
五感が記憶してしまう。目に焼き付いた“整いすぎた存在”は、無意識のうちに身体のどこかに爪を立てているようだった。
…見てしまうから、息が詰まるんだ。
今、それを認めてしまったことに、自分でも驚いていた。
視線を逸らし、心を閉ざしていたつもりだったのに、ほんの一言の挨拶が、それを剥がしてしまった。
深く息を吐き、芳樹はマウスに手を添えた。
業務の開始を告げるように、最初のメールをクリックする。
その手のひらに、微かな熱が残っていた。
いつもと変わらないはずの朝。
なのに、たった一言が、今朝の空気をわずかに揺らしていた。
その揺らぎが、気のせいだと信じるには、もう少し時間がかかりそうだった。
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