誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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終電に届かない夜

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居酒屋の喧騒は、夜が更けるにつれて徐々に柔らかくなっていった。
個室の木戸を少し開けた先には、廊下の電灯がぼんやりと灯り、すでに席を立った同僚たちの声が遠くで揺れていた。
金曜日の営業終わり、取引先との契約が決まったこともあり、営業チームの面々は皆、酒の進みも会話も軽やかだった。
とはいえ、22時を過ぎた頃には、ひとりまたひとりと立ち上がり、終電や翌朝の用事を理由に帰っていく。
芳樹と楷だけが、最後に残った。

テーブルの上には、飲みかけのグラスと、箸をつけた痕跡が残る小皿がいくつか。
鍋の火はすでに消されており、締めの雑炊すら誰も口にせず、酒だけが無防備に残っていた。
芳樹はロックのグラスを傾け、残りの一口を流し込む。
喉を通った液体が熱く、胃のあたりをじわりと満たすのを感じながら、彼は無言のまま少しだけ目を閉じた。

静かだった。
店内の音が消えていくように思えたのは、酔いが回っていたせいかもしれない。
考えてみれば、ここまで飲んだのは久しぶりだった。
たしかにペースは速くなかったはずだが、空腹と疲労が重なった体には、想像以上に酒が効いていた。

「終電、大丈夫ですか」

ふいに、隣から声がした。
静かで、少しだけ低く抑えられた声。
芳樹は、うっすらとした意識の中で、その声に顔を向けた。

楷だった。
まだグラスを手にしてはいたが、中身にはもうほとんど手をつけていなかった。
座り方も姿勢も変わっていない。
シャツの袖口はきちんと留められたままで、ネクタイの結び目も乱れていない。
酒が入っているはずなのに、その横顔はどこか醒めていて、まるで最初から酔うつもりがなかったように見えた。

芳樹は時計を見ようとして、手元のスマートフォンを探した。
だが、それすら億劫で、代わりに小さくうなずいた。

「やばいかもな。駅、もう間に合わんかも」

言葉が少しだけ舌を滑った。
楷がその様子を見ていたが、特に何も言わずに立ち上がる。
コートを羽織りながら、落ち着いた声で言った。

「ここからなら、うちの方が近いです。泊まっていきますか」

え、という言葉を飲み込んだのは、芳樹が咄嗟に“楷の家”という単語に身体が少し反応したからだった。
泊まる、という言葉に含まれる距離感を、一瞬、間違って受け取ったような気がした。
だが、楷の顔は変わらなかった。
誘っているわけでも、遠ざけようとしているわけでもない。
ただ、理性的に提案しているだけの、いつもの“会社の楷”だった。

芳樹は口を引き結び、ほんの数秒考えた。
タクシーで帰る距離ではないし、ビジネスホテルを探すには遅すぎる。
駅のホームに向かったところで、終電はおそらく出てしまっている。
それに、今の足取りでは、安全に帰れる自信もなかった。

「すまん、助かる」

ようやくそう答えると、楷は少しだけ首を傾けて笑った。
それが本当に笑ったのか、それとも礼儀として微笑んだのかは分からなかった。
だが、その仕草にどこか“人間らしい温度”を感じた自分に気づき、芳樹は胸の内で小さく息を吐いた。

会計を済ませて外に出ると、夜風が肌に心地よかった。
街の明かりは穏やかで、週末の繁華街からは少しだけ外れた通りは、人もまばらだった。
楷が先に歩き、芳樹はそのあとに続いた。
足元がややふらつき、革靴の音が少し遅れて響く。

「歩けますか」

振り返らずにそう問う楷の声に、芳樹は「大丈夫」と返した。
けれど、心の中では、自分がどう見えているのかが気になって仕方なかった。
普段は見せない顔を、楷の前で見せてしまっている。
それが恥ずかしいのか、安心しているのか、自分でも判別できなかった。

楷の背中はまっすぐで、スーツの生地が夜風にふわりと揺れていた。
その下に、どんな“私的な時間”が隠れているのか、芳樹はまだ知らなかった。
けれど今夜、ほんの少しだけその奥に触れることになるのだとしたら、
そこに何があるのかを、自分はなぜか知っておきたいと思っていた。
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