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目を逸らす理由
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終業時刻を少し過ぎたころ、社内の空気は緩やかに解放へと向かっていた。
それまで埋め尽くされていた電話の音も、上司の声も、もうどこか遠くの出来事のように静まっている。
芳樹はパソコンをシャットダウンし、書類を鞄に収めた。手早く準備を整えるのは、日常的な習慣だった。
オフィスを出る前に軽く首を回し、固まった肩を動かす。今日も一日、特に変わったことはなかったはずだった。
そう思いながら、彼はエレベーターへと続く廊下へ歩き出す。
廊下は人影もまばらで、機械的に明滅する蛍光灯が白く床を照らしていた。
どこかで紙のめくれる音がして、コピー機のリズムが遠くから響く。
そのなかに、ひとつの足音が重なるのが分かった。
前から歩いてくる気配。
姿を見るよりも早く、芳樹は誰かが近づいてくるのを感じ取っていた。
視線を少し上げると、すぐに分かった。
阿倍野楷だった。
淡い色のスラックスに、シャツの裾はまっすぐ整っていて、ネクタイも乱れていない。
どこかの雑誌から抜け出したような完成されたシルエット。
夕方の光を背負って歩いてくる姿は、まるで時間の外側を歩いているように静かだった。
芳樹は思わず、視線を楷の顔に向けた。
一瞬だけ目が合う。
それは、意図していたわけではなく、むしろ避けようとしていたのに起きてしまった瞬間だった。
楷の目は、穏やかで、深くて、けれどどこか透明すぎた。
空っぽだった。
そう、あの目の奥には何もなかった。
けれど、なぜだろう。
空っぽだと分かっているはずなのに、その空白に惹きつけられる感覚があった。
芳樹の心臓が、小さく跳ねた。
ただ目が合っただけ。それだけのことに、身体が反応している。
理屈ではない。言葉にもできない。
ただ、そこに何かがあった。あるいは、無いことが逆に引っかかったのかもしれなかった。
目を逸らさなければ、なにかが割れてしまいそうだった。
だから芳樹は、ほんのわずかに視線をずらした。
楷の視線が、どこまでも平坦だったことが、怖かったのかもしれない。
それとも、自分の視線がそこに意味を与えようとしてしまったことが、怖かったのかもしれなかった。
挨拶は交わさなかった。
すれ違うその瞬間、楷の口元が一瞬だけ動いたように見えたが、それが笑顔だったのか、単なる無言の反応だったのかは分からなかった。
香水ではない、ごくわずかな石鹸の香りが、通り過ぎたあとにだけ残っていた。
知りたいわけじゃない。
ただ、何かが引っかかる。
芳樹は立ち止まることも、振り返ることもせず、足を止めずにエレベーター前にたどり着いた。
ボタンを押す指に、わずかな汗がにじんでいた。
後ろから人の気配はない。楷はそのまま、別方向の廊下へと曲がっていったのだろう。
それでも、背中に何かが張りついたような感覚が残っていた。
あの目の奥にあった“無”が、逆に何かを語っていたように思えてならなかった。
自分は、何を感じていたのだろう。
ただ見ただけ。それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
けれど、それだけで心臓が跳ねる理由が、自分には説明できなかった。
エレベーターの扉が開き、芳樹は中へ足を踏み入れる。
蛍光灯の照り返しが、無機質な内壁を照らしている。
扉が閉まる、その直前。
彼はもう一度だけ、廊下の先を見た。
誰もいなかった。
静寂だけが、そこに残っていた。
視線を逸らしたまま、扉が静かに閉まり、エレベーターが下降を始めた。
音もなく、感情もなく、
けれど確かに、あの視線は芳樹の中に爪を立てていた。
それまで埋め尽くされていた電話の音も、上司の声も、もうどこか遠くの出来事のように静まっている。
芳樹はパソコンをシャットダウンし、書類を鞄に収めた。手早く準備を整えるのは、日常的な習慣だった。
オフィスを出る前に軽く首を回し、固まった肩を動かす。今日も一日、特に変わったことはなかったはずだった。
そう思いながら、彼はエレベーターへと続く廊下へ歩き出す。
廊下は人影もまばらで、機械的に明滅する蛍光灯が白く床を照らしていた。
どこかで紙のめくれる音がして、コピー機のリズムが遠くから響く。
そのなかに、ひとつの足音が重なるのが分かった。
前から歩いてくる気配。
姿を見るよりも早く、芳樹は誰かが近づいてくるのを感じ取っていた。
視線を少し上げると、すぐに分かった。
阿倍野楷だった。
淡い色のスラックスに、シャツの裾はまっすぐ整っていて、ネクタイも乱れていない。
どこかの雑誌から抜け出したような完成されたシルエット。
夕方の光を背負って歩いてくる姿は、まるで時間の外側を歩いているように静かだった。
芳樹は思わず、視線を楷の顔に向けた。
一瞬だけ目が合う。
それは、意図していたわけではなく、むしろ避けようとしていたのに起きてしまった瞬間だった。
楷の目は、穏やかで、深くて、けれどどこか透明すぎた。
空っぽだった。
そう、あの目の奥には何もなかった。
けれど、なぜだろう。
空っぽだと分かっているはずなのに、その空白に惹きつけられる感覚があった。
芳樹の心臓が、小さく跳ねた。
ただ目が合っただけ。それだけのことに、身体が反応している。
理屈ではない。言葉にもできない。
ただ、そこに何かがあった。あるいは、無いことが逆に引っかかったのかもしれなかった。
目を逸らさなければ、なにかが割れてしまいそうだった。
だから芳樹は、ほんのわずかに視線をずらした。
楷の視線が、どこまでも平坦だったことが、怖かったのかもしれない。
それとも、自分の視線がそこに意味を与えようとしてしまったことが、怖かったのかもしれなかった。
挨拶は交わさなかった。
すれ違うその瞬間、楷の口元が一瞬だけ動いたように見えたが、それが笑顔だったのか、単なる無言の反応だったのかは分からなかった。
香水ではない、ごくわずかな石鹸の香りが、通り過ぎたあとにだけ残っていた。
知りたいわけじゃない。
ただ、何かが引っかかる。
芳樹は立ち止まることも、振り返ることもせず、足を止めずにエレベーター前にたどり着いた。
ボタンを押す指に、わずかな汗がにじんでいた。
後ろから人の気配はない。楷はそのまま、別方向の廊下へと曲がっていったのだろう。
それでも、背中に何かが張りついたような感覚が残っていた。
あの目の奥にあった“無”が、逆に何かを語っていたように思えてならなかった。
自分は、何を感じていたのだろう。
ただ見ただけ。それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
けれど、それだけで心臓が跳ねる理由が、自分には説明できなかった。
エレベーターの扉が開き、芳樹は中へ足を踏み入れる。
蛍光灯の照り返しが、無機質な内壁を照らしている。
扉が閉まる、その直前。
彼はもう一度だけ、廊下の先を見た。
誰もいなかった。
静寂だけが、そこに残っていた。
視線を逸らしたまま、扉が静かに閉まり、エレベーターが下降を始めた。
音もなく、感情もなく、
けれど確かに、あの視線は芳樹の中に爪を立てていた。
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