誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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素肌と布の距離

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浴室のドアを開けると、外の空気が思った以上に冷たく感じられた。
髪の先から水滴が落ち、濡れた肌にバスタオルを巻いたまま、芳樹はそっとリビングに戻る。
体内に残る湯気と、部屋の空気の温度差に、思わず腕をさすった。
シャワーを浴びたことで頭は幾分すっきりしたものの、酔いの名残がまだ神経の奥でくすぶっている。

そして、彼の視線は、自然と楷の姿へと向けられた。

楷はすでに部屋着に着替えていた。
淡いグレーのカーディガンを羽織り、その下からは、白のキャミソールが覗いている。
胸元の布地は柔らかく、だが決して女性的というわけではなかった。
シルエットはどこか曖昧で、けれどその肩の張りや首筋のラインからは、しっかりとした“男”の骨格が見て取れた。

一瞬、芳樹は目を逸らした。
その行動は、ほとんど反射に近かった。
視界に飛び込んできた“想定外”の姿に、思考より先に身体が反応してしまったのだ。
だが、ほんの数秒後、彼の目は再び無意識のうちに楷へと戻っていた。

不思議だった。
着替えただけのはずなのに、その姿にはなぜか目を離せない引力があった。
露出が多いわけではない。
だが、キャミソールの薄布を通して肌の色がわずかに透け、
カーディガンの隙間から覗く鎖骨が、呼吸のたびにゆっくりと上下していた。

どこかで、その“素肌”を目にすることが禁じられているような感覚があった。
にもかかわらず、その布の向こうにあるものを、目が探してしまう。
見たいわけではない。
見てはいけないと分かっている。
それなのに、見てしまう。

こんな姿を、誰に見せているんだろう。
この“中途半端”は、何なんだ。

男でもなく、女でもなく。
身体は男の構造をしているのに、纏う衣服や佇まいが、それを否定するようにやわらかい。
そこに意図的な演出があるのか、それとも無自覚なのかも、芳樹には分からなかった。

だが、はっきりしているのは、自分が“見られるべきでないもの”を見てしまったという意識だった。

楷は、芳樹の視線に気づいているのかいないのか、何も言わず、キッチンでカップを用意している。
背を向けたまま、ティーバッグを湯に落とす仕草もまた、どこか丁寧で、静かだった。
その背中が語りかけてくるような感覚が、芳樹の心をざわつかせた。

この人は、いつもこうなのか。
それとも、自分が“特別に見てしまっている”だけなのか。

「…悪い、なんか。勝手に目が…」

そう言いかけたが、言葉にならなかった。
何を謝ればいいのかが分からなかった。
目を逸らしたくせに、再び見てしまったこと。
そこに“意味”を見出そうとしてしまった自分の視線。

楷はカップを芳樹の前に差し出し、少しだけ微笑んだ。

「よく見られますから。気にしないでください」

その声は、やわらかく、しかしどこか距離を含んでいた。
笑みの奥にある影のようなものが、一瞬、芳樹の胸を締めつけた。
“よく見られる”という言葉に、慣れてしまっている口ぶり。
けれど、心の奥で本当にそれを受け入れているのかどうかは、分からなかった。

ありがとう、とだけ返してカップを受け取る。
紅茶の香りが、まだ少し火照った肌に穏やかに沁みていく。
芳樹はソファに腰を落とし、視線をカップに落としたまま黙った。

楷は隣に腰を下ろした。
座るとき、ほんのわずかに足が触れそうになったが、自然と互いに距離を取った。
その“触れない”距離が、妙に意識される。

見てはいけないものを見たわけじゃない。
ただ、目に映ったのは、“知っているはずの人間”の、知らなかった側面だった。
スーツの下、ネクタイの内側、誰にも見せていない、あるいは誰にでも見せている“私”の姿。

芳樹は目を閉じた。
視界を奪われたぶんだけ、あのキャミソールの布越しの質感が、記憶に濃く刻まれていく。

何かを否定しきれなかった自分の感覚に、ただ、静かにうなずくことしかできなかった。
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