誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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“見られた”ことに気づいている

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温かい紅茶の香りが、室内にゆっくりと満ちていた。
カップから立ちのぼる蒸気が揺れ、静かな時間にかすかな音と温度を与える。
芳樹はソファに座ったまま、手にしたマグの縁にそっと唇を寄せた。
浅く一口含むと、さっきまで揺れていた神経がわずかに落ち着くのを感じた。
だが、心の中心にあったものは、依然として沈黙したまま動かずにいた。

視界の端に、楷の姿がある。
カーディガンの袖が、手首の細い骨を覆い、その下にキャミソールの肩紐が覗く。
布の選び方も、着こなしも、何もかもが自然でありながら、日常的な男の部屋着とはどこか違っていた。
それが計算されたものではないと分かっていながらも、芳樹の視線は、意識とは裏腹にそのディテールに引き寄せられていた。

そして、楷はその視線に、気づいていた。

カップを持ち上げて差し出すとき、その手がほんのわずかに揺れた。
不安定ではなかった。けれど、揺れないはずの人の手が揺れるとき、それは何かを受け止めている証拠だった。

自分の目が、何かを触れてしまったのかもしれない。
そう思った瞬間、芳樹の中にうまく言葉にならない苛立ちのような感情が芽生えた。

「…変なもん、見たわけじゃないのにな」

思わず漏れた言葉は、弁明とも言い訳ともつかないものだった。
楷はその言葉に顔を向けず、少しだけ笑った。
口角がゆるやかに持ち上がり、目元には感情がにじまなかった。
それは、仕事中によく見る“営業用の笑顔”に似ていた。
だが、そこにはもうひとつ、別の層があった。

「気にしないでください。よく見られますから」

淡々としたその声に、芳樹は言葉を失った。
その口調には刺すような棘もなければ、怒りや不快の気配もなかった。
それが逆に胸に触れた。
あまりにも慣れたように、まるで呼吸をするかのように出た一言。

“よく見られるから”
それは、事実であり、対処であり、諦めでもあった。

言葉の重さを測りかねていると、楷がようやく視線をこちらに向けた。
その目は穏やかで、何も拒んでいなかった。
けれど、そこに何かを許しているわけでもなかった。
芳樹はふと、自分が“見てしまったもの”が、ただの服装や仕草ではなく、“楷の背負ってきた何か”だったことに気づいた。

よく見られる。
見られてきた。
見られることに、傷ついたのか、慣れたのか、鈍くなったのか。
その答えを、楷は語らない。

そして芳樹もまた、何をどう訊けばよいのか分からなかった。
自分がなぜ動揺したのかも、明確には説明できない。
ただ、確かに、目に焼きついたその姿に、心の奥が反応したのは事実だった。

紅茶の香りが、今さらながらに鼻をかすめる。
芳樹はもう一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
目の前の空間が、ふいに遠く感じられる。
楷はそのまま立ち上がり、キッチンに空のカップを運んでいく。
その後ろ姿に、もう一度だけ目を向けた。

肩甲骨の動き、首筋のライン、カーディガンの布の下にある肌の気配。
それらすべてが、“男のはずなのに、男ではない”と語っているようだった。

芳樹は静かに吐息を漏らす。
心が揺れた理由を、身体が理解してしまっているのに、頭が追いついてこない。
ただの視線、ただの一夜の偶然。
けれど、それにしては、何かが深く染みすぎていた。

ソファの背にもたれかかり、天井を見上げる。
照明の光が柔らかく広がっていて、それが逆に楷の存在の陰影を濃くしていた。

“よく見られますから”

その言葉が、今も耳に残っている。
それは、どうしても誰かに“見られてしまう”顔と、
見せたくなかったものを“見られた”瞬間とが、ひとつに重なった音だった。

芳樹はまぶたを閉じ、静かに息をついた。
言葉を交わさない夜の中に、何かが深く流れ始めていた。
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