誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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壊さないための“距離”だった

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曇り空が、部屋の壁に灰色の輪郭を落としていた。
窓の向こうには、もう雨の気配はない。
けれど、湿気だけが残っていて、空気はまだどこか、抜けきらない重さを抱えていた。

芳樹はマグカップを持ったまま、リビングのソファに深く身を沈めた。
目の前のテレビは点けられていない。
音のない部屋は、思考の奥に沈んだ記憶を、静かに浮かび上がらせる。

──あの夜。
出張先のホテル、チェックイン時の手配ミスで、急きょツインの一室に泊まることになったあの日。
「平気です」と、楷は何でもない顔で言った。
いつもの営業スマイルでもなければ、緊張の気配もなかった。
ただ、そこに“いる”だけのような静かな声だった。

スーツを脱いで、シャワーを浴びて、隣のベッドに横になるまでの間、
芳樹はずっと、心のどこかで“何か”が起きることを警戒していた。
それは、楷から何かされるかもしれない、という恐れではなかった。
むしろ逆だった。

“自分が何かをしてしまうのではないか”という、曖昧な焦燥。
隣で髪を乾かす楷の姿は、どこか現実味がなかった。
濡れた髪が首筋に貼りついて、ホテルのルームウェアの襟から鎖骨が見えていた。
芳樹は目を逸らした。
見たくなかったからではない。
目を逸らさなければ、もっと“見てしまいそう”だったから。

あの夜、何もしなかった。
楷が眠りにつくまで、背を向けて、ひたすら静かに呼吸を数えていた。
布団の向こうから伝わる気配が、妙に近くて、それでも遠かった。

今思えば、あれは「距離を保つことでしか守れない」と思い込んでいたからだ。
壊したくなかった。
自分が、楷という存在を、どこかで特別に感じ始めていたからこそ──
だから、触れたら壊れる気がした。

近づきたいのに、近づけなかった。
触れたいのに、触れてはいけない気がした。
何より、自分の感情に触れてしまうことが、いちばん怖かった。

そのとき、自分のなかには答えなどなかった。
正解も不正解も分からないまま、ただ“しなかった”。
選ばなかった。
それが最善だと思い込んでいた。

けれど、時が経って振り返ってみると、
あれはただ「動けなかっただけ」だった気がする。
“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。

目を閉じると、あのときの楷の寝息が蘇る。
静かだった。
背を向けていたから、表情は見えなかった。
けれど、なぜか“目を開けていた気配”だけは、今でも脳裏に残っている。

自分が眠るまで、楷は目を閉じなかったのではないか。
そう思うだけで、胸の内に小さな波が立った。
あの夜、もし背を向けずにいられたなら。
目を合わせていられたなら。
触れなかったことは、正しさだったのか。
それとも、臆病さだったのか。

芳樹は、カップをテーブルに置いた。
コーヒーはもう冷めていた。
指先に残る熱は、もう、昨夜のものではなかった。

ただ、楷のあの静けさだけは、鮮明に記憶の中に残っていた。

「ただ、楷の隣にいることが、正しさだと思っていた。……でも、それだけじゃないかもしれない」

その独白は、誰にも届かない場所で、確かに心の奥に沈んだ。
黙って寄り添うこと。
距離を置くこと。
触れないこと。
それらすべてが、優しさの仮面をした“回避”だったのではないか。

もしも、楷が触れてほしいと願っていたとしたら。
もしも、自分の中にわずかでも“応えたい”気持ちがあったとしたら──
あの夜、何も起こさなかったことは、本当に「守る」ことだったのだろうか。

答えはまだ出ない。
けれど、昨夜の楷の静かな表情が、心の中で何度も繰り返される。
“終わっても、目を閉じなかった”楷の、あのまっすぐな視線。

それは、決して自分を責めていなかった。
ただ、信じていた。
そこに、確かにいた。

そして、その視線の重さに気づいたとき、自分の中で何かが確かに揺れていた。

芳樹はソファから立ち上がり、窓の外を見た。
少しだけ、空が明るくなっていた。
雲の切れ間から、やわらかな光が差していた。
そんな光の下でなら、今度は少し違う選択ができるかもしれない──
そんな予感が、胸の奥に、かすかに残ったまま、消えずにいた。
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