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濡れた街、乾いた声
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店を出たときには、すでに雨は上がっていた。
濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射していて、通りを行き交う人々の足元だけが、やけに静かだった。空には雲がまだ重たく残っていて、ところどころに切れ間が覗いている。濡れた風がビルの隙間を抜けて、シャツの襟元を冷やしていく。
芳樹は、スマートフォンに届いた短いメッセージをもう一度見下ろした。
「このあと、少しだけ、時間もらえますか」
それだけだった。絵文字も、句読点もなかった。
だが、その端正すぎる文字列の並びには、どこか緊張感のようなものが滲んでいた。
約束の喫茶店は、オフィス街の裏通りにある小さな店だった。控えめな照明と、しっとりしたジャズが流れている、平日夜には似つかわしくない落ち着いた空間。芳樹がガラス扉を押して中に入ると、すでに楷が奥の席に座っていた。
視線が自然と、その横顔に引き寄せられる。
グラスの水を指先で転がすように弄びながら、楷はじっとその透明な面を見つめていた。顔を上げるでもなく、何かを待っているそぶりでもない。ただ、そこにいることに集中しているように見えた。まるで、そこに自分を溶け込ませようとしているかのように。
「…こんばんは」
芳樹の声に、楷は静かに目を上げた。
その表情には、驚きも喜びもなかったが、不思議と拒絶もなかった。むしろ、来ることをわかっていたというような、微かな安堵がその目に浮かんでいた。
「お疲れさまです」
それだけを言って、楷は目の前のグラスに視線を戻す。
芳樹は向かいに腰を下ろし、軽くネクタイを引いて緩めた。スーツの肩が少しだけ落ち、ようやく今日の業務が終わったのだという実感が肩に滲んだ。ウェイトレスがメニューを持ってきたが、芳樹は「アイスコーヒーで」とだけ告げて返す。
テーブルの上には、交わされない言葉の余白があった。
だが、それが息苦しいわけではなかった。むしろその沈黙のなかに、何かが流れているように感じられた。
この人はいつも完璧なのに、こうして何も語らないときほど、何かが見えてしまう気がする――
そう思いながら、芳樹は視線を楷に向けた。
濡れたような睫毛の影が、頬に淡く落ちている。指先は細く、爪の形すら整っているのに、その動きにはどこか癖のような迷いがあった。目の前の水を、触れているだけのように見せて、何かから気を逸らそうとしているようだった。
「どうかしましたか?」
あえてそう訊ねることはしなかった。
その代わり、軽く椅子にもたれながら、楷の仕草をただ目に留めていた。沈黙のなかにも、かすかな呼吸のずれや、視線の揺れがあって、それが何より楷の“いま”を語っているようだった。
アイスコーヒーが運ばれてきた。芳樹がグラスに口をつけると、氷の音が静かに鳴った。その音に反応するように、楷がふいに視線をこちらに戻した。
「…ちょっとだけ、うち、寄っていきませんか」
それは唐突だった。
しかし、あくまで自然に差し出されたその言葉の響きに、芳樹は一瞬、目を細めた。
声の調子も、言葉選びも、完璧な“仮面”のように整っていた。
けれど、その奥に、どこかかすかに“決めていた”ような気配があった。
今夜、こうやって時間をもらって、ここで待ち合わせて、そして部屋へ誘う。
それが楷にとって偶然ではなかったことを、芳樹はすぐに察した。
だからといって、それを責める気にはならなかった。
むしろ、それほどまでに“今日”を選んだ理由が、どこかにあるのだと感じた。
「…いいのか?」
芳樹がそう言うと、楷はほんのわずかに目を伏せ、グラスを持ち上げた。
水の中で氷が微かに揺れて、音を立てた。
「無理にとは言いません。ただ……、少しだけ、話さなくてもいい時間が、欲しかっただけなので」
その言い方に、どこか傷つくことへの予防線のようなものを感じた。
断られてもいいように。期待しないように。
それでも、自分の“欲しさ”を認めてしまった楷の言葉だった。
芳樹は頷いた。
理由は要らなかった。ただ、今夜、この人が“誰かと過ごすこと”を自分に選んだ。
それだけで、十分だった。
会計を済ませ、二人は外に出た。
雨は止んでいたが、地面にはまだ雨粒の名残が濃く残っていた。
ビルの窓に街灯がぼんやりと反射して、歩道の縁に小さな水たまりが点在している。夜の風が、湿り気を帯びたまま吹き抜け、背中をそっと押してきた。
楷は数歩前を歩きながら、ややゆっくりとした足取りで、芳樹のペースに合わせているようだった。
その背中を見つめながら、芳樹は胸の奥に、うっすらと熱を覚えていた。
寒さではない、湿度でもない。
その温度は、たしかに、楷という人間が差し出した“何か”から生まれていた。
そして、自分はもう、それを無視できる段階には、いなかった。
濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射していて、通りを行き交う人々の足元だけが、やけに静かだった。空には雲がまだ重たく残っていて、ところどころに切れ間が覗いている。濡れた風がビルの隙間を抜けて、シャツの襟元を冷やしていく。
芳樹は、スマートフォンに届いた短いメッセージをもう一度見下ろした。
「このあと、少しだけ、時間もらえますか」
それだけだった。絵文字も、句読点もなかった。
だが、その端正すぎる文字列の並びには、どこか緊張感のようなものが滲んでいた。
約束の喫茶店は、オフィス街の裏通りにある小さな店だった。控えめな照明と、しっとりしたジャズが流れている、平日夜には似つかわしくない落ち着いた空間。芳樹がガラス扉を押して中に入ると、すでに楷が奥の席に座っていた。
視線が自然と、その横顔に引き寄せられる。
グラスの水を指先で転がすように弄びながら、楷はじっとその透明な面を見つめていた。顔を上げるでもなく、何かを待っているそぶりでもない。ただ、そこにいることに集中しているように見えた。まるで、そこに自分を溶け込ませようとしているかのように。
「…こんばんは」
芳樹の声に、楷は静かに目を上げた。
その表情には、驚きも喜びもなかったが、不思議と拒絶もなかった。むしろ、来ることをわかっていたというような、微かな安堵がその目に浮かんでいた。
「お疲れさまです」
それだけを言って、楷は目の前のグラスに視線を戻す。
芳樹は向かいに腰を下ろし、軽くネクタイを引いて緩めた。スーツの肩が少しだけ落ち、ようやく今日の業務が終わったのだという実感が肩に滲んだ。ウェイトレスがメニューを持ってきたが、芳樹は「アイスコーヒーで」とだけ告げて返す。
テーブルの上には、交わされない言葉の余白があった。
だが、それが息苦しいわけではなかった。むしろその沈黙のなかに、何かが流れているように感じられた。
この人はいつも完璧なのに、こうして何も語らないときほど、何かが見えてしまう気がする――
そう思いながら、芳樹は視線を楷に向けた。
濡れたような睫毛の影が、頬に淡く落ちている。指先は細く、爪の形すら整っているのに、その動きにはどこか癖のような迷いがあった。目の前の水を、触れているだけのように見せて、何かから気を逸らそうとしているようだった。
「どうかしましたか?」
あえてそう訊ねることはしなかった。
その代わり、軽く椅子にもたれながら、楷の仕草をただ目に留めていた。沈黙のなかにも、かすかな呼吸のずれや、視線の揺れがあって、それが何より楷の“いま”を語っているようだった。
アイスコーヒーが運ばれてきた。芳樹がグラスに口をつけると、氷の音が静かに鳴った。その音に反応するように、楷がふいに視線をこちらに戻した。
「…ちょっとだけ、うち、寄っていきませんか」
それは唐突だった。
しかし、あくまで自然に差し出されたその言葉の響きに、芳樹は一瞬、目を細めた。
声の調子も、言葉選びも、完璧な“仮面”のように整っていた。
けれど、その奥に、どこかかすかに“決めていた”ような気配があった。
今夜、こうやって時間をもらって、ここで待ち合わせて、そして部屋へ誘う。
それが楷にとって偶然ではなかったことを、芳樹はすぐに察した。
だからといって、それを責める気にはならなかった。
むしろ、それほどまでに“今日”を選んだ理由が、どこかにあるのだと感じた。
「…いいのか?」
芳樹がそう言うと、楷はほんのわずかに目を伏せ、グラスを持ち上げた。
水の中で氷が微かに揺れて、音を立てた。
「無理にとは言いません。ただ……、少しだけ、話さなくてもいい時間が、欲しかっただけなので」
その言い方に、どこか傷つくことへの予防線のようなものを感じた。
断られてもいいように。期待しないように。
それでも、自分の“欲しさ”を認めてしまった楷の言葉だった。
芳樹は頷いた。
理由は要らなかった。ただ、今夜、この人が“誰かと過ごすこと”を自分に選んだ。
それだけで、十分だった。
会計を済ませ、二人は外に出た。
雨は止んでいたが、地面にはまだ雨粒の名残が濃く残っていた。
ビルの窓に街灯がぼんやりと反射して、歩道の縁に小さな水たまりが点在している。夜の風が、湿り気を帯びたまま吹き抜け、背中をそっと押してきた。
楷は数歩前を歩きながら、ややゆっくりとした足取りで、芳樹のペースに合わせているようだった。
その背中を見つめながら、芳樹は胸の奥に、うっすらと熱を覚えていた。
寒さではない、湿度でもない。
その温度は、たしかに、楷という人間が差し出した“何か”から生まれていた。
そして、自分はもう、それを無視できる段階には、いなかった。
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