誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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雨の休日、あの視線から始まっていた

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雨は朝から降っていた。
粒の細かい、けれど絶えることのない雨だった。
気温はそこまで低くなかったはずだが、湿気を含んだ空気がまとわりつくようで、駅前の広場はどこかくぐもった重さに包まれていた。

濡れた舗道が光を反射し、すれ違う傘がちらつくたびに、その輝きが細かく揺れる。
ロータリーを囲むように歩く人々の足元には、光と影が混じり合い、小さな靄がかかったような風景をつくっていた。

芳樹は、その端に立っていた。
傘を右手に持ち、左手でスマートフォンの画面を見つめる。
「ごめん、少し遅れるかも」
数分前に届いたメッセージは、予想通りのものだった。
画面を閉じ、ため息をひとつ吐く。
ポケットにスマートフォンを戻したあと、彼はふと顔を上げ、周囲に視線を走らせた。

革靴の中は湿っていて、傘の持ち手もじんわりと冷たい。
だが、そういった不快感はいつしか意識の外へ押し出されていた。

気づけば、視線がある一点に引き寄せられていた。
信号を一本挟んだ向こう側、人の流れのなかに、その人は立っていた。

白いシャツ。ブルーグレーのワイドパンツ。
背筋を伸ばし、足元に重心を静かに置いて立つ姿。
くるぶしがわずかに覗くその佇まいには、どこか日常から浮いたような気配があった。

ありふれた街並みに、違和感なく溶け込んでいるはずなのに、なぜか目が離せなかった。

最初は、気のせいかと思った。
けれど、顔の輪郭をなぞるうちに、次第に確信に変わっていった。
楷だった。

職場で見慣れたスーツ姿とはまったく違った。
いや、服装のせいではない。
目元にさりげなく入った影。
睫毛のきわをなぞるように引かれたライナー。
やわらかく整えられた唇に乗せられた、自然な血色。
左右の耳には、細いシルバーのピアスが揺れていた。

華美ではなかった。奇抜でもなかった。
ただ、“誰かのため”に見せる装いではないことは、一目でわかった。
それは“自分であるため”の姿だった。

芳樹は、思わず身体の動きを止めた。
距離は信号ひとつ。
けれど、その向こうに立つ楷は、いつもの彼ではなかった。

職場の同僚としての楷ではなく、
社会のなかに身を置く“生活する人”としての、個人の姿だった。

その人に、何を言えばいいのか。
何を見てしまったのか。

言葉が出なかった。
声をかけようと口を開いた瞬間、喉が固まって動かなくなった。

目を逸らせなかった。
罪悪感に似たものが胸を締めつけた。
この人のことを、自分はなにも知らなかったと、
突きつけられたような気がした。

気づけば、信号が変わっていた。
無意識に足を進めていたらしく、いつの間にか楷との距離は五、六歩にまで縮まっていた。
互いの顔が、くっきりと見えるほどの距離だった。

楷は、静かにこちらを見ていた。
驚くことも、目を逸らすこともなく、
ただ穏やかな表情で視線を交わしてくる。

けれど、その“穏やかさ”は、
職場で見せる整った笑顔とはどこか違っていた。
感情を預けることのない、無表情に近い顔だった。
どこかで、すべてを諦めたような、許容するような顔。

芳樹は、それが胸に刺さった。
自分の中に、ざわめきが生まれていた。

「こんにちは」

楷が、いつもの声でそう言った。
営業先でも、昼休みにも聞いたことのある、あの丁寧な声。
だが、その音色が、いまは少し違って聞こえた。

「……ああ、こんにちは」

ようやく返した言葉も、どこかぎこちない。
話したいことは山ほどあった。
なのに、どれも言葉にならなかった。

楷は、それ以上何も言わなかった。
ただ立っていた。
雨粒が傘の縁を滑り落ち、肩に細かく跳ねる。
その音だけが、周囲の喧騒を淡く消していった……

芳樹は、あの日のことを思い出していた。
あの休日の午後、あの立ち姿と、あの目線と、
そして、そのとき心に宿った名のない感情を。

違和感ではなかった。
戸惑いでも、混乱でもない。
むしろ、“惹かれた”という言葉のほうが、近い。

ただ、それは楷の“男としての姿”でも“女に似た雰囲気”でもなかった。
そのどちらにも属さない、そのどちらにも偏らない、
中間にある、揺れのような輪郭だった。

たぶん、あのときから俺は
この人の“中間”にある輪郭ごと、惹かれていたんだ

そして今。
目の前では、涙を浮かべた楷が、
静かにその頬を震わせていた。

その涙に理由を求める必要はなかった。
語られるべき説明もいらなかった。

芳樹は、そっと身体を寄せた。
楷の濡れた睫毛に、頬をやさしく重ねて、
かすかに声を落とす。

「……そのままでいい」

ただ、それだけを伝えるように。
あのとき見た“なにか”が、
今ようやく、輪郭を持って愛しさに変わった瞬間だった。
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