誰と寝ても、俺はいなかったー性のどこにも属せなかった俺が、たった一人にだけ愛された夜

中岡 始

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消すんじゃなくて、終わらせたかった

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楷は、ゆっくりと手を伸ばした。
ベッドの脇に置いていたスマートフォンに指をかける。
まだ手のひらの内側に、芳樹の温度がわずかに残っていた。
それを振り払うように、あるいはその余韻を守るように、画面を開いた。

小さな電子音もバイブレーションも鳴らさず、
指は迷いのない速度でホーム画面を開いていく。
並ぶアイコンのなかに、それはあった。
白地に淡い赤と青のグラデーション、よくあるマッチングアプリのロゴ。
日常に溶け込むような無機質な色彩が、いまだけ妙に目を引いた。

指先が、そのアイコンの上で止まる。
画面のなかの光は、楷の顔を静かに照らしていた。
真夜中、薄明かりのベッドルームのなかで、スマートフォンの光だけが彼の表情を照らす。
その頬の輪郭に影が落ち、睫毛の影がわずかに揺れていた。

長押しすると、アイコンがわずかに震える。
画面の上部に、「アプリを削除しますか?」と表示される。

その瞬間、楷は少しだけ目を伏せた。
指はまだ動かない。
決意が揺らいだわけではない。
ただ、その問いかけが思いのほか“やさしい”のが、少しだけ苦しかった。

「……誰かとつながるために使ってたものなのに」

声に出した言葉は、思ったよりも小さかった。
だが隣にいる芳樹には、はっきりと届いていた。

楷は続ける。

「いちばん、孤独を感じてたのは……そのあとでした」

画面の文字が薄れ、やがて“アプリを削除しました”という通知が浮かびあがる。
短い動作だった。
たった数秒で消えるものだった。
それでも、それは長い時間の象徴のようだった。

ベッドの脇で、芳樹は何も言わなかった。
ただ、楷の手の動きを見つめていた。
受け止めるでも、見守るでもない、
“共有する”という静かな態度だった。

楷は、次に通話履歴の画面を開いた。
最近かけた番号の一覧が並んでいる。
その多くは、名前が登録されていない。
単なる数字の羅列と、通話の長さ、発信・着信の区別。

一つ一つを確認するたび、記憶の断片がよみがえりそうになる。
だが、楷の目はほとんどその詳細を見ていなかった。
手の動きは淡々としていた。
機械的とも言えるその指先に、ただひとつ宿っていたのは“終わらせる”という静かな意志だった。

番号をひとつ選んで、削除。
確認画面が出て、再び“削除”。
次の番号へ。
再び削除。
その繰り返しのなかで、まるで何かの儀式のように、時間が積み重なっていく。

画面の中で履歴が消えていくたび、
心の奥では、あの日々が小さく解凍されては、また静かに閉じられていった。

 過去を消したいわけじゃない
 ただ、もう、選び直したいだけだった

あのとき必要だったつながりも、
あの夜にしか癒せなかった寂しさも、
すべてを否定はしない。

それがあったから、今日この部屋に来る勇気を持てたのかもしれない。
誰かに触れたかったことも、
触れても触れられなかった虚しさも、
全部が、今の自分をここに連れてきた。

でも、それはもう終わらせる。
いま、この隣にある手のぬくもりだけが、
これからの夜を選び直す理由になる。

スマートフォンを伏せて置いたとき、
その光が消えて、部屋は再び雨音と呼吸だけに満たされた。

楷は、何も言わず、ゆっくりと身体を横たえた。
布団のなかで、芳樹の手を再び探す。
少しひんやりとしたその手が、自分の手にぴたりと重なる。

「……終わった?」

芳樹の声は、低く、かすかだった。

楷は、短くうなずいた。
「うん」

そのひとことのなかに、削除という動作では語りきれない思いのすべてが込められていた。

もう過去を否定しない。
でも、いま目の前にある関係を、誰かと比べなくていい。
名付ける必要も、証明する必要もない。

楷は、目を閉じた。
ただ、ふたりの呼吸が揃っていく音だけが、
静かに夜のなかへと溶けていった。
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