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名前のない帰り道
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部屋のドアを開けた瞬間、湿った空気のなかに柔らかな香りが混じっていた。
生姜か、にんにくか、あるいはその両方か。
何かが煮えている香りが、ごく薄く漂っていて、芳樹はその匂いに、ふと肩の力が抜けるのを感じた。
「ただいま」
玄関で声をかけながら、買い物袋をそっと床に置く。
足元で小さく軋んだフローリングの音に反応するように、奥のキッチンから人の気配が動いた。
「おかえりなさい」
振り返った楷の声は、いつもよりほんの少しだけ明るかった。
けれどその笑顔には、どこか遠慮のような揺らぎが混じっている。
口角はきちんと上がっているのに、目元がすこし不安定だった。
Tシャツの上から着けたエプロンの腰紐を、きゅっと引き直す楷の手つきが、どこかぎこちない。
その仕草を見ているだけで、芳樹の胸の奥に小さな温度が灯った。
いつの間にか、それが“日常”になっていた。
約束をしているわけでもない。
同棲しているわけでもない。
それでも、こうして鍵を開けた先に、楷がいるということ。
そのこと自体が、何より確かなものになりつつあった。
「ただ“今日もここにいてくれた”
それだけで、なんでこんなに安心するんだろう」
靴を脱ぎながら、ふとそんな言葉が胸の中に浮かぶ。
いつからだろう。
楷がこの部屋で待っていてくれることに、こんなにも安堵を覚えるようになったのは。
「買ってきたよ。野菜、ちょっと足りなさそうだったから」
袋の中からじゃがいもとブロッコリーを取り出しながら言うと、楷は小さく頷いて、手を拭きながら近づいてきた。
「助かります。味噌汁の具、ちょうど何にしようか迷ってたんです」
「じゃがいも、合う?」
「もちろん。ちょっと多めに作って、明日の分まで取っておきます」
その応答のテンポが、まるで何度も繰り返してきたやりとりのようで、芳樹は思わず頬が緩んだ。
楷は冷蔵庫を開けて野菜をしまいながら、ふとエプロンの端を指でつまむようにして、再び腰紐を結び直す。
その姿が、どこか所在なさげで、けれど懸命にも見える。
台所の照明に照らされて、楷の髪の毛先がうっすらと光っていた。
濡れてはいないけれど、洗いざらしのまま乾いたような質感で、肩のあたりに自然に落ちている。
少しだけカールした毛先が、動くたびにリズムを描いて揺れた。
それを見ながら、芳樹はレジ袋の取っ手を指先でくるくると巻いた。
落ち着いたようで、ほんの少しだけ胸がざわめいていた。
この光景が、いずれ終わるものかもしれないという予感が、ふと影のように浮かぶ。
「……ねえ、楷」
声をかけると、楷は少し肩をすくめるようにして振り向いた。
その動きに、芳樹は無意識のうちに、これ以上を言うことを一度止めた。
聞かないほうがいいことがある。
尋ねないほうが、ちゃんと続いていく関係がある。
そう思わせるくらい、楷の表情はやさしくて、でもどこか壊れやすいものをはらんでいた。
だから、代わりに言葉を変える。
「今日も、いてくれてありがとう」
楷の目が、わずかに見開かれる。
返事はなかった。
けれど、次の瞬間、彼の口元がふっと緩んだ。
それは、芳樹が見たことのない笑い方だった。
遠慮があって、けれど拒絶ではなく、
どこか「そうしてもいいのかな」と迷いながら笑っているような顔。
「……ありがとうございます」
返ってきた言葉は、敬語だった。
どこか楷らしい、絶妙な距離の保ち方だったが、
そこには少しだけ照れのようなぬくもりが混じっていた。
芳樹は、食卓に並べていたカトラリーを揃えながら思う。
恋人とか、そういう関係ではないのかもしれない。
でも、今ここにいて、一緒に夕飯を作って、帰ってきたら「おかえり」と言われる。
それだけのことが、なぜこれほど心に沁みるのか。
湯気の立つ鍋から、味噌の香りが立ちのぼる。
楷がじゃがいもを切りながら、そっと鼻を近づけて香りを確かめている。
「名前がないままでも、
こんなふうに安心できるって、あるんだな」
そう呟きながら、芳樹はキッチンの隅でコップに水を注ぐ。
その何気ない音さえ、日常の一部として心地よく響いていた。
この日々が、言葉にされなくても続いていくように。
ただそう願いながら、ふたりは夕飯の支度を続けた。
生姜か、にんにくか、あるいはその両方か。
何かが煮えている香りが、ごく薄く漂っていて、芳樹はその匂いに、ふと肩の力が抜けるのを感じた。
「ただいま」
玄関で声をかけながら、買い物袋をそっと床に置く。
足元で小さく軋んだフローリングの音に反応するように、奥のキッチンから人の気配が動いた。
「おかえりなさい」
振り返った楷の声は、いつもよりほんの少しだけ明るかった。
けれどその笑顔には、どこか遠慮のような揺らぎが混じっている。
口角はきちんと上がっているのに、目元がすこし不安定だった。
Tシャツの上から着けたエプロンの腰紐を、きゅっと引き直す楷の手つきが、どこかぎこちない。
その仕草を見ているだけで、芳樹の胸の奥に小さな温度が灯った。
いつの間にか、それが“日常”になっていた。
約束をしているわけでもない。
同棲しているわけでもない。
それでも、こうして鍵を開けた先に、楷がいるということ。
そのこと自体が、何より確かなものになりつつあった。
「ただ“今日もここにいてくれた”
それだけで、なんでこんなに安心するんだろう」
靴を脱ぎながら、ふとそんな言葉が胸の中に浮かぶ。
いつからだろう。
楷がこの部屋で待っていてくれることに、こんなにも安堵を覚えるようになったのは。
「買ってきたよ。野菜、ちょっと足りなさそうだったから」
袋の中からじゃがいもとブロッコリーを取り出しながら言うと、楷は小さく頷いて、手を拭きながら近づいてきた。
「助かります。味噌汁の具、ちょうど何にしようか迷ってたんです」
「じゃがいも、合う?」
「もちろん。ちょっと多めに作って、明日の分まで取っておきます」
その応答のテンポが、まるで何度も繰り返してきたやりとりのようで、芳樹は思わず頬が緩んだ。
楷は冷蔵庫を開けて野菜をしまいながら、ふとエプロンの端を指でつまむようにして、再び腰紐を結び直す。
その姿が、どこか所在なさげで、けれど懸命にも見える。
台所の照明に照らされて、楷の髪の毛先がうっすらと光っていた。
濡れてはいないけれど、洗いざらしのまま乾いたような質感で、肩のあたりに自然に落ちている。
少しだけカールした毛先が、動くたびにリズムを描いて揺れた。
それを見ながら、芳樹はレジ袋の取っ手を指先でくるくると巻いた。
落ち着いたようで、ほんの少しだけ胸がざわめいていた。
この光景が、いずれ終わるものかもしれないという予感が、ふと影のように浮かぶ。
「……ねえ、楷」
声をかけると、楷は少し肩をすくめるようにして振り向いた。
その動きに、芳樹は無意識のうちに、これ以上を言うことを一度止めた。
聞かないほうがいいことがある。
尋ねないほうが、ちゃんと続いていく関係がある。
そう思わせるくらい、楷の表情はやさしくて、でもどこか壊れやすいものをはらんでいた。
だから、代わりに言葉を変える。
「今日も、いてくれてありがとう」
楷の目が、わずかに見開かれる。
返事はなかった。
けれど、次の瞬間、彼の口元がふっと緩んだ。
それは、芳樹が見たことのない笑い方だった。
遠慮があって、けれど拒絶ではなく、
どこか「そうしてもいいのかな」と迷いながら笑っているような顔。
「……ありがとうございます」
返ってきた言葉は、敬語だった。
どこか楷らしい、絶妙な距離の保ち方だったが、
そこには少しだけ照れのようなぬくもりが混じっていた。
芳樹は、食卓に並べていたカトラリーを揃えながら思う。
恋人とか、そういう関係ではないのかもしれない。
でも、今ここにいて、一緒に夕飯を作って、帰ってきたら「おかえり」と言われる。
それだけのことが、なぜこれほど心に沁みるのか。
湯気の立つ鍋から、味噌の香りが立ちのぼる。
楷がじゃがいもを切りながら、そっと鼻を近づけて香りを確かめている。
「名前がないままでも、
こんなふうに安心できるって、あるんだな」
そう呟きながら、芳樹はキッチンの隅でコップに水を注ぐ。
その何気ない音さえ、日常の一部として心地よく響いていた。
この日々が、言葉にされなくても続いていくように。
ただそう願いながら、ふたりは夕飯の支度を続けた。
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