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名前をつけないことは、曖昧じゃなかった
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カーテンの隙間から、朝の光がゆっくりと差し込んでくる。
部屋の色が、夜の名残をほんの少しずつ手放しながら、白と金のあいだで輪郭を取り戻していく。
天井に広がる光の筋が、微かに揺れる空気の粒を照らし、
布団の上にいる楷の瞼を、そっとなぞるように撫でていた。
目を閉じたまま、もう一度、深く息を吸う。
その香りは、昨夜までと変わらず、芳樹の枕に染みついた洗剤の匂いと、体温の気配だった。
それは、安心というより、空気のように自然で、もはや理由を持たなくなっている。
気配が動いた。
隣から布団がふわりと持ち上がり、静かに空気が揺れる。
芳樹がベッドを抜け出し、床に足を下ろす音が、
部屋の中にかすかな音として溶けていく。
「……朝ごはん、作るね」
振り返らずに発されたその声は、
問いでも命令でもない、ごく自然な報告のようなものだった。
その曖昧さが、どこまでも心地よかった。
楷は目を開けなかった。
けれど、布団のなかで、動いていくその背中を想像する。
シャツの裾を直して、洗面所へ向かうときの無造作な歩き方。
ドアの前で、一瞬だけ伸びをするように肩を回す癖。
そうしたひとつひとつが、今朝も変わらずそこにあることに、
言葉にはならない安堵が広がっていった。
「恋人でもない
愛とかも、簡単には言えない
でも、この人となら、名前をつけなくても伝わるって思えた」
名前をつけようとすれば、きっとどこかがはみ出してしまう。
「恋人」には足りないものがあるし、
「パートナー」にはおさまりきらない不確かさがある。
「好き」という言葉も、「愛してる」という言葉も、
あまりに多くを含んでいる気がして、いつもうまく選べなかった。
だから、黙っていた。
けれど、この人は、黙っていることを、黙ったまま受け止めてくれた。
何かを確認しようとせず、
関係を定義しようともせず、
ただ、同じ時間を同じように過ごすことで、
「これでいい」と言ってくれていた。
それが、どんなに大きなことだったか。
言葉にした瞬間、その重さが薄れてしまう気がして、
楷は胸の奥で、静かにその事実を握りしめていた。
性別のことを、はっきりと説明したことはなかった。
身体のことも、過去のことも、完全には話していない。
けれど、それを知らないままでいようとしてくれることが、
どれほどありがたかったか、今はもう知っている。
「性自認に悩み続けてきた過去が、消えるわけではない
けれど、その“不確かさごと”、受け止めてもらえたという確信が
いま、静かに胸に灯っている」
朝の空気は、昨日と同じ匂いがする。
けれど、どこかで少し違っていた。
何が変わったのかは、わからない。
けれど、「今日もこの部屋で目覚めた」というだけで、
心がふっと、少し軽くなるのを感じていた。
シャワーの音が、ドアの向こうから聞こえてくる。
芳樹が鼻歌のように、低く音程のない声を漏らしている。
歌詞のある歌ではない。
生活の中で、何かを続けながら自然に漏れ出す音。
それが、妙に幸せだった。
楷はゆっくりと身を起こす。
まだ乱れたままの布団の中に手を差し入れて、温もりを確かめる。
そこには確かに、誰かがいた痕跡がある。
自分のために残された空間。
隣にいたという事実。
それだけで、十分だった。
どこにも属せなかった自分が、
どこかに居場所を作ってもらえたような気がした。
名前をつけないままでも、
繋がっていると信じられる人がいること。
それを朝の光が、ただ静かに照らしていた。
【完】
部屋の色が、夜の名残をほんの少しずつ手放しながら、白と金のあいだで輪郭を取り戻していく。
天井に広がる光の筋が、微かに揺れる空気の粒を照らし、
布団の上にいる楷の瞼を、そっとなぞるように撫でていた。
目を閉じたまま、もう一度、深く息を吸う。
その香りは、昨夜までと変わらず、芳樹の枕に染みついた洗剤の匂いと、体温の気配だった。
それは、安心というより、空気のように自然で、もはや理由を持たなくなっている。
気配が動いた。
隣から布団がふわりと持ち上がり、静かに空気が揺れる。
芳樹がベッドを抜け出し、床に足を下ろす音が、
部屋の中にかすかな音として溶けていく。
「……朝ごはん、作るね」
振り返らずに発されたその声は、
問いでも命令でもない、ごく自然な報告のようなものだった。
その曖昧さが、どこまでも心地よかった。
楷は目を開けなかった。
けれど、布団のなかで、動いていくその背中を想像する。
シャツの裾を直して、洗面所へ向かうときの無造作な歩き方。
ドアの前で、一瞬だけ伸びをするように肩を回す癖。
そうしたひとつひとつが、今朝も変わらずそこにあることに、
言葉にはならない安堵が広がっていった。
「恋人でもない
愛とかも、簡単には言えない
でも、この人となら、名前をつけなくても伝わるって思えた」
名前をつけようとすれば、きっとどこかがはみ出してしまう。
「恋人」には足りないものがあるし、
「パートナー」にはおさまりきらない不確かさがある。
「好き」という言葉も、「愛してる」という言葉も、
あまりに多くを含んでいる気がして、いつもうまく選べなかった。
だから、黙っていた。
けれど、この人は、黙っていることを、黙ったまま受け止めてくれた。
何かを確認しようとせず、
関係を定義しようともせず、
ただ、同じ時間を同じように過ごすことで、
「これでいい」と言ってくれていた。
それが、どんなに大きなことだったか。
言葉にした瞬間、その重さが薄れてしまう気がして、
楷は胸の奥で、静かにその事実を握りしめていた。
性別のことを、はっきりと説明したことはなかった。
身体のことも、過去のことも、完全には話していない。
けれど、それを知らないままでいようとしてくれることが、
どれほどありがたかったか、今はもう知っている。
「性自認に悩み続けてきた過去が、消えるわけではない
けれど、その“不確かさごと”、受け止めてもらえたという確信が
いま、静かに胸に灯っている」
朝の空気は、昨日と同じ匂いがする。
けれど、どこかで少し違っていた。
何が変わったのかは、わからない。
けれど、「今日もこの部屋で目覚めた」というだけで、
心がふっと、少し軽くなるのを感じていた。
シャワーの音が、ドアの向こうから聞こえてくる。
芳樹が鼻歌のように、低く音程のない声を漏らしている。
歌詞のある歌ではない。
生活の中で、何かを続けながら自然に漏れ出す音。
それが、妙に幸せだった。
楷はゆっくりと身を起こす。
まだ乱れたままの布団の中に手を差し入れて、温もりを確かめる。
そこには確かに、誰かがいた痕跡がある。
自分のために残された空間。
隣にいたという事実。
それだけで、十分だった。
どこにも属せなかった自分が、
どこかに居場所を作ってもらえたような気がした。
名前をつけないままでも、
繋がっていると信じられる人がいること。
それを朝の光が、ただ静かに照らしていた。
【完】
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