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第3章 同志求ム、ここに在り〜少女文藝帳と、はじめての読者
書店の棚の下、世界の入り口
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町の本通りを歩いていると、午後の陽射しが緩やかに首筋を撫でていった。
ひかりは日傘も持たずに、風に背を押されるまま、なんとなく歩いていた。
文具を買うつもりで出てきたはずだったが、気づけばいつもの書店の前に立っていた。
明治時代から続くというその書店は、重々しい看板に反して、店内は小ぢんまりとしていた。
棚の高さは低く、床はわずかに軋む。けれど、それが落ち着く。
本の匂いと木の香りが混じり合い、時の流れが少しだけゆっくりになるような空間だった。
ひかりはそっと暖簾をくぐり、静かに足を踏み入れる。
昼下がりの店内には、客の姿は少なかった。
それでも、誰かの気配があった。
店の一角、背表紙の並ぶ文芸書棚の前に、見覚えのある背中が立っていた。
すらりと伸びた背筋、きちんと折られた袴のすそ、手にした本を丁寧に読み進める様子。
蒼だった。
その姿を認識した瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
思わず立ち止まってしまう。
蒼は相変わらず、静かに本の世界に没頭しているようだった。
だが、すぐ近くに、少年店員が声をかけてきた。
「村瀬さん、それ、昨日の続きですか?」
蒼は顔を上げて、わずかに口元をほころばせた。
それは珍しい光景だった。
「ええ。文語訳が思ったより丁寧で、面白くて」
「僕も少し読みました。あの、主の台詞、なんというか…胸に残りますよね」
蒼は頷いたが、それ以上言葉を続けることはなかった。
少年店員もそれに慣れているようで、そっとレジへと戻っていった。
ひかりは、柱の陰からその一部始終を見ていた。
それはもう、観察というより、ほとんど祈りだった。
(なに今の会話…何その静かな信頼関係…)
脳内では数行の妄想がすでに走り出していた。
蒼が誰かと、わずかな言葉を交わし、それが“共読”であるというだけで、彼女の中の何かが尊さで軋んでいた。
そのまま書棚を遠巻きに一周するふりをして、文具売り場のある奥へと向かう。
胸の高鳴りが収まらず、視界が少しぼやけている気さえした。
文具棚の下段、封筒や葉書の束が並ぶ隅で、ふと目に留まったものがあった。
それは数冊の薄い冊子だった。
紙の端が少しよれていて、誰かが何度か手に取ったことがあるのだとわかる。
装丁は簡素。けれど、手触りには独特の温かさがあった。
ひかりは一冊をそっと引き抜いた。
表紙には、木版のような刷りが施されており、芍薬の花が淡く描かれていた。
その上に、金色のインクで小さく書かれた文字。
「少女文藝帳 第十六号」
思わず、手の中でページをめくる。
中には、端正な文字で書かれた短編小説や詩、随筆が並んでいた。
投稿者の名前の横には、それぞれの学校名が添えられている。
桜蔭女学校、雙葉高女、本郷女学館――
どれも、ひかりにとっては少し遠い世界の名前だった。
けれど、その文の一つ一つが、どこか切実で、優しくて、真剣だった。
恋について。
友情について。
家族について。
言葉にすることが照れくさいような気持ちを、それでも伝えたいという筆致が、そこにはあった。
ふと、巻末に差しかかると、小さな囲みが目に入った。
四角い罫線の中に、丸みを帯びた字体が踊っている。
「貴女の書いたひとしずくのことばが、
どこかの誰かの水鏡になりますように。
少女文藝帳では、貴女の一篇をお待ちしております」
それは、声にならない声で語りかけてくるような文だった。
ひかりは、胸の奥で何かが揺れるのを感じた。
今まで、物語はひとりで書くものだった。
心に湧き上がる想い、推しの仕草、萌えの供養。
どれもが、自分の中だけで完結するための営みだった。
けれど――この小さな冊子は、
「ひとりで書いていい」と言いながら、
「誰かに届けてもいい」とも言ってくれている気がした。
そしてその“誰か”とは、きっと、自分と似た何かを持っている人。
同じように語れぬ感情を抱え、
それでも何かを言葉にせずにはいられなかった人。
ページの端をなぞる指が、わずかに震える。
(わたしも……ここに?)
心の中で、呟くようにそう思った。
すぐに投函しようとは思わなかった。
思ってもいなかった。
けれど、その瞬間から、ひかりの中で何かが変わり始めていた。
萌えはひとりで昇華するものだと信じてきた。
でも、もしかしたら、それを誰かと分かち合うという方法もあるのかもしれない。
この冊子は、たしかにそれを証明していた。
ひかりは冊子を胸に抱え、そっと店を出た。
空は夕暮れに染まり始め、街の輪郭が少しずつ柔らかくなっていた。
足元の影が長く伸びていくのを見ながら、心の奥に灯ったあたたかな火を、彼女はまだ名前もつけられないまま、大事に持ち帰った。
ひかりは日傘も持たずに、風に背を押されるまま、なんとなく歩いていた。
文具を買うつもりで出てきたはずだったが、気づけばいつもの書店の前に立っていた。
明治時代から続くというその書店は、重々しい看板に反して、店内は小ぢんまりとしていた。
棚の高さは低く、床はわずかに軋む。けれど、それが落ち着く。
本の匂いと木の香りが混じり合い、時の流れが少しだけゆっくりになるような空間だった。
ひかりはそっと暖簾をくぐり、静かに足を踏み入れる。
昼下がりの店内には、客の姿は少なかった。
それでも、誰かの気配があった。
店の一角、背表紙の並ぶ文芸書棚の前に、見覚えのある背中が立っていた。
すらりと伸びた背筋、きちんと折られた袴のすそ、手にした本を丁寧に読み進める様子。
蒼だった。
その姿を認識した瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
思わず立ち止まってしまう。
蒼は相変わらず、静かに本の世界に没頭しているようだった。
だが、すぐ近くに、少年店員が声をかけてきた。
「村瀬さん、それ、昨日の続きですか?」
蒼は顔を上げて、わずかに口元をほころばせた。
それは珍しい光景だった。
「ええ。文語訳が思ったより丁寧で、面白くて」
「僕も少し読みました。あの、主の台詞、なんというか…胸に残りますよね」
蒼は頷いたが、それ以上言葉を続けることはなかった。
少年店員もそれに慣れているようで、そっとレジへと戻っていった。
ひかりは、柱の陰からその一部始終を見ていた。
それはもう、観察というより、ほとんど祈りだった。
(なに今の会話…何その静かな信頼関係…)
脳内では数行の妄想がすでに走り出していた。
蒼が誰かと、わずかな言葉を交わし、それが“共読”であるというだけで、彼女の中の何かが尊さで軋んでいた。
そのまま書棚を遠巻きに一周するふりをして、文具売り場のある奥へと向かう。
胸の高鳴りが収まらず、視界が少しぼやけている気さえした。
文具棚の下段、封筒や葉書の束が並ぶ隅で、ふと目に留まったものがあった。
それは数冊の薄い冊子だった。
紙の端が少しよれていて、誰かが何度か手に取ったことがあるのだとわかる。
装丁は簡素。けれど、手触りには独特の温かさがあった。
ひかりは一冊をそっと引き抜いた。
表紙には、木版のような刷りが施されており、芍薬の花が淡く描かれていた。
その上に、金色のインクで小さく書かれた文字。
「少女文藝帳 第十六号」
思わず、手の中でページをめくる。
中には、端正な文字で書かれた短編小説や詩、随筆が並んでいた。
投稿者の名前の横には、それぞれの学校名が添えられている。
桜蔭女学校、雙葉高女、本郷女学館――
どれも、ひかりにとっては少し遠い世界の名前だった。
けれど、その文の一つ一つが、どこか切実で、優しくて、真剣だった。
恋について。
友情について。
家族について。
言葉にすることが照れくさいような気持ちを、それでも伝えたいという筆致が、そこにはあった。
ふと、巻末に差しかかると、小さな囲みが目に入った。
四角い罫線の中に、丸みを帯びた字体が踊っている。
「貴女の書いたひとしずくのことばが、
どこかの誰かの水鏡になりますように。
少女文藝帳では、貴女の一篇をお待ちしております」
それは、声にならない声で語りかけてくるような文だった。
ひかりは、胸の奥で何かが揺れるのを感じた。
今まで、物語はひとりで書くものだった。
心に湧き上がる想い、推しの仕草、萌えの供養。
どれもが、自分の中だけで完結するための営みだった。
けれど――この小さな冊子は、
「ひとりで書いていい」と言いながら、
「誰かに届けてもいい」とも言ってくれている気がした。
そしてその“誰か”とは、きっと、自分と似た何かを持っている人。
同じように語れぬ感情を抱え、
それでも何かを言葉にせずにはいられなかった人。
ページの端をなぞる指が、わずかに震える。
(わたしも……ここに?)
心の中で、呟くようにそう思った。
すぐに投函しようとは思わなかった。
思ってもいなかった。
けれど、その瞬間から、ひかりの中で何かが変わり始めていた。
萌えはひとりで昇華するものだと信じてきた。
でも、もしかしたら、それを誰かと分かち合うという方法もあるのかもしれない。
この冊子は、たしかにそれを証明していた。
ひかりは冊子を胸に抱え、そっと店を出た。
空は夕暮れに染まり始め、街の輪郭が少しずつ柔らかくなっていた。
足元の影が長く伸びていくのを見ながら、心の奥に灯ったあたたかな火を、彼女はまだ名前もつけられないまま、大事に持ち帰った。
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