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第3章 同志求ム、ここに在り〜少女文藝帳と、はじめての読者
封筒の中身は、推しの世界
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夜、風籠荘の障子を閉めた室内には、行灯の淡い灯りだけが揺れていた。
虫の音が遠くから響き、すべての音がゆるやかに沈んでいくような静寂。
ひかりは、文机の前に座り、膝の上に置かれた原稿用紙の束をじっと見つめていた。
何度読み返しても、心がざわつく。
綴ったのは、蒼と榊原の物語。
名は明かしていない。
関係を明言しているわけでもない。
けれど、そこに流れている感情は――誰がどう読んでも、きっと伝わってしまう。
“主と従者の間にある、名付けられない想い”
それは恋ではないと自分では思っている。
でも、読む人によっては、そう見えるかもしれない。
それが、怖かった。
ひかりは原稿を一枚一枚めくりながら、自分が書いた文字のひとつひとつを見つめた。
そこには、他の誰でもない、ひかり自身の感情が、まぎれもなく刻まれていた。
蒼の横顔、榊原の沈黙、交わされぬ視線の温度。
それを目撃し、心を打たれ、夜を徹して書き綴った。
その文章を、誰かに読まれる。
それが、こんなにも怖いことだとは、思っていなかった。
(もし、これを読んだ誰かに、笑われたら?
気持ち悪いと、思われたら?
大正の世の中で、こんな話を書いた女がいるなんて…)
筆名は“桃野ひかり”とした。
仮の名。けれど、確かに自分の一部だ。
そこに嘘は書けなかった。
ため息がひとつ漏れ、ひかりは原稿を抱きしめるようにして俯いた。
すでに封筒も用意していた。
投稿先の宛名も、文藝帳の誌面の最後に記されていた通りに書いてある。
けれど、最後の一歩がどうしても踏み出せない。
指先が震えて、封をすることができない。
そのまま、原稿用紙の束を乱雑に机に置いた。
いや、置いたのではなく、たたきつけるように落とした。
「やっぱり…無理かもしれない」
小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
自信がないわけではない。
ただ、この想いを言葉にすることが、こんなにも怖いとは思っていなかった。
数分、そうしていた。
机の上の原稿は、少し端がよれている。
手汗が紙を湿らせていたのかもしれない。
そのとき、ふと視界の端に、妄想ノートが目に入った。
榊原と蒼の関係図、細かな観察メモ、夜中に描いたスケッチ、
ページの端に走り書きした「これは物語になる」という言葉。
ひかりは、手を伸ばしてノートを開いた。
その一行一行に、あのときの自分の鼓動が刻まれているような気がした。
(私はこのふたりのことを、誰よりも知っている)
(そして、誰よりも、彼らのことを誰かに伝えたいと思っている)
原稿を破ろうとした手を止めた。
しばらく沈黙のなかで、自分の鼓動の音だけが聞こえていた。
やがて、そっと原稿を拾い上げ、一枚一枚を丁寧に揃え直す。
曲がった角を指で押さえ、しわを伸ばす。
そして、封筒を手に取る。
そこに、一枚ずつ原稿を入れていく。
紙の重なりが、何かを積み重ねるような、静かな儀式に思えた。
封をする前に、深く息を吸い、こう心の中でつぶやく。
(これは妄想かもしれない。でも、私にとっては真実だった)
(それを、誰かがわかってくれるなら)
(きっと、私は書いてよかったと思える)
そして、しっかりと封をする。
その音が、やけに大きく響いた。
封筒を胸元に抱えたまま、ひかりは布団にもぐり込んだ。
眠れない夜だった。
夢も見なかった。
翌朝、桜の並木道を歩くひかりの手には、あの封筒があった。
風はまだ冷たく、日差しは春の初めの淡さを帯びている。
通りすがる人々の声が、遠くに感じられる。
世界の音が、少しだけ小さくなったようだった。
道の先に、赤い郵便箱が見える。
木の下に、ぽつんと立つそれは、まるで時間から取り残されたように見えた。
近づくにつれ、ひかりの足取りがゆっくりになる。
封筒を取り出す。
指が、また少しだけ震えていた。
立ち止まって、もう一度、封筒の宛名を見る。
「少女文藝帳編集部 御中」
たったそれだけの文字。
けれど、その奥に、自分のすべてが詰まっている気がした。
投函口に、そっと封筒を差し込む。
そのまま、静かに手を離す。
紙が落ちる音は聞こえなかった。
けれど、何かが確かに、自分の手から離れていった。
ひかりは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
郵便箱の影が地面に落ち、風が髪をかすめていく。
心の中で、もう一度つぶやく。
(これが、ただの妄想じゃないって、
誰かが言ってくれるかもしれないから)
そう思った瞬間、胸の奥にあった迷いが、少しだけ和らいだ気がした。
誰かに届くかどうかは、もう自分の手を離れた。
けれど、その誰かを信じるだけの強さを、今のひかりは持っていた。
虫の音が遠くから響き、すべての音がゆるやかに沈んでいくような静寂。
ひかりは、文机の前に座り、膝の上に置かれた原稿用紙の束をじっと見つめていた。
何度読み返しても、心がざわつく。
綴ったのは、蒼と榊原の物語。
名は明かしていない。
関係を明言しているわけでもない。
けれど、そこに流れている感情は――誰がどう読んでも、きっと伝わってしまう。
“主と従者の間にある、名付けられない想い”
それは恋ではないと自分では思っている。
でも、読む人によっては、そう見えるかもしれない。
それが、怖かった。
ひかりは原稿を一枚一枚めくりながら、自分が書いた文字のひとつひとつを見つめた。
そこには、他の誰でもない、ひかり自身の感情が、まぎれもなく刻まれていた。
蒼の横顔、榊原の沈黙、交わされぬ視線の温度。
それを目撃し、心を打たれ、夜を徹して書き綴った。
その文章を、誰かに読まれる。
それが、こんなにも怖いことだとは、思っていなかった。
(もし、これを読んだ誰かに、笑われたら?
気持ち悪いと、思われたら?
大正の世の中で、こんな話を書いた女がいるなんて…)
筆名は“桃野ひかり”とした。
仮の名。けれど、確かに自分の一部だ。
そこに嘘は書けなかった。
ため息がひとつ漏れ、ひかりは原稿を抱きしめるようにして俯いた。
すでに封筒も用意していた。
投稿先の宛名も、文藝帳の誌面の最後に記されていた通りに書いてある。
けれど、最後の一歩がどうしても踏み出せない。
指先が震えて、封をすることができない。
そのまま、原稿用紙の束を乱雑に机に置いた。
いや、置いたのではなく、たたきつけるように落とした。
「やっぱり…無理かもしれない」
小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
自信がないわけではない。
ただ、この想いを言葉にすることが、こんなにも怖いとは思っていなかった。
数分、そうしていた。
机の上の原稿は、少し端がよれている。
手汗が紙を湿らせていたのかもしれない。
そのとき、ふと視界の端に、妄想ノートが目に入った。
榊原と蒼の関係図、細かな観察メモ、夜中に描いたスケッチ、
ページの端に走り書きした「これは物語になる」という言葉。
ひかりは、手を伸ばしてノートを開いた。
その一行一行に、あのときの自分の鼓動が刻まれているような気がした。
(私はこのふたりのことを、誰よりも知っている)
(そして、誰よりも、彼らのことを誰かに伝えたいと思っている)
原稿を破ろうとした手を止めた。
しばらく沈黙のなかで、自分の鼓動の音だけが聞こえていた。
やがて、そっと原稿を拾い上げ、一枚一枚を丁寧に揃え直す。
曲がった角を指で押さえ、しわを伸ばす。
そして、封筒を手に取る。
そこに、一枚ずつ原稿を入れていく。
紙の重なりが、何かを積み重ねるような、静かな儀式に思えた。
封をする前に、深く息を吸い、こう心の中でつぶやく。
(これは妄想かもしれない。でも、私にとっては真実だった)
(それを、誰かがわかってくれるなら)
(きっと、私は書いてよかったと思える)
そして、しっかりと封をする。
その音が、やけに大きく響いた。
封筒を胸元に抱えたまま、ひかりは布団にもぐり込んだ。
眠れない夜だった。
夢も見なかった。
翌朝、桜の並木道を歩くひかりの手には、あの封筒があった。
風はまだ冷たく、日差しは春の初めの淡さを帯びている。
通りすがる人々の声が、遠くに感じられる。
世界の音が、少しだけ小さくなったようだった。
道の先に、赤い郵便箱が見える。
木の下に、ぽつんと立つそれは、まるで時間から取り残されたように見えた。
近づくにつれ、ひかりの足取りがゆっくりになる。
封筒を取り出す。
指が、また少しだけ震えていた。
立ち止まって、もう一度、封筒の宛名を見る。
「少女文藝帳編集部 御中」
たったそれだけの文字。
けれど、その奥に、自分のすべてが詰まっている気がした。
投函口に、そっと封筒を差し込む。
そのまま、静かに手を離す。
紙が落ちる音は聞こえなかった。
けれど、何かが確かに、自分の手から離れていった。
ひかりは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
郵便箱の影が地面に落ち、風が髪をかすめていく。
心の中で、もう一度つぶやく。
(これが、ただの妄想じゃないって、
誰かが言ってくれるかもしれないから)
そう思った瞬間、胸の奥にあった迷いが、少しだけ和らいだ気がした。
誰かに届くかどうかは、もう自分の手を離れた。
けれど、その誰かを信じるだけの強さを、今のひかりは持っていた。
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