転生腐女子、筆一本で大正ロマンを征く!〜美少年よ、吾が筆に舞え〜

中岡 始

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第4章 これは、ひとりのための物語ではない〜読者の眼差しと、筆の覚悟

どこまで描ける?の葛藤

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行灯の灯りが、机の上に落ちる影を揺らしていた。  
夜の風が障子のすき間から微かに吹き込み、ひかるの袖口をかすめていく。  
筆を持つ手が止まり、墨の香りだけが、部屋の中にゆっくりと広がっていた。

目の前には、途中まで書かれた原稿用紙の束。  
物語の流れは見えている。  
榊原が長い旅から戻り、蒼と再会する場面。  
そこで、ひかるは――ふたりの間に、“触れる”という行為を入れようとしていた。

手が、触れる。  
ほんの一瞬、指先が重なる。  
ただそれだけ。  
言葉ではない、約束でもない、けれど、あまりに大きな意味を持つ“接触”。

その一文を書きかけて、筆が止まった。

触れさせてしまっていいのだろうか。  
このふたりに、その行為は許されるのだろうか。  
それとも、自分が欲望を先走らせて、ふたりの“静けさ”を乱してしまうのではないか。

ひかるはゆっくりと筆を置き、原稿用紙を見つめた。  
ただの紙。  
けれどその上には、今や自分の中で生きている登場人物たちの時間が流れている。  
蒼の目線、榊原の沈黙、それぞれの温度。

そこに、“触れる”という描写が加わったとき、何かが壊れる気がしていた。

境界。  
ふたりの間にある、目には見えない透明な膜。  
その膜があるからこそ、互いが互いを大切にしようとしてきたのではなかったか。

しかし、近ごろ届いた読者たちの投書や私信を思い出す。  
あの三条という名の読者が書いた、“目をそらしてしまう人の眼差し”という表現。  
それは、物語の核心を突いていた。  
彼は、いや、彼女かもしれないが、とにかくその読者は、ふたりの間にある“触れられなさ”に、何かを見ていた。

だが、それは「永遠に触れないままでいてほしい」という願いではなかったはずだ。  
おそらくは、その一歩の逡巡と、それを越える勇気に、読者は揺さぶられていたのだ。

ひかるは、妄想ノートを開いた。  
紙の端には、すでにいくつもの図解や関係性のメモが書き込まれている。  
その空白の一角に、筆で小さく書きつけた。

境界を越える描写をした瞬間に、  
この物語の“静けさ”が壊れる気がする。  
でも、ふたりは――  
本当は触れたいと思っているのかもしれない。

書いた直後、しばらくその言葉を見つめた。  
筆跡は淡い。けれど、その一文が、まるで自分自身への問いのように響いていた。

自分が書いているのは、“BL”なのだろうか。  
あるいは、“BL”という言葉で語るには、あまりに複雑な何か。

ひかるにとって、この物語は“愛”でも、“恋”でもない。  
けれど、“情”と呼ぶには未完成で、“信頼”と呼ぶには切実すぎる。

そういう関係を、自分は描いていた。

そして、いま、自分はその関係に“触れさせよう”としている。  
それが、ふたりにとって自然な一歩なのか、書き手の欲なのか。  
その問いが、心の中で何度も反響した。

ふと、蒼の後ろ姿を描いたスケッチが、机の隅に置かれていることに気づいた。  
うつむきがちで、けれど背筋はまっすぐで、肩がほんの少しだけ揺れている。  
その背中を、榊原が見つめている。

そのとき、ひかるの中に、ひとつの答えが浮かんだ。

触れたいのは、自分ではなく、彼らなのだ。

彼らが互いに、触れたいと思っている。  
でも、長い間、理由があってそれをしなかった。  
言葉より先に、そっと指先で想いを伝えたい。  
それは、自然な願いではないか。

ひかるは再び筆を取り、原稿の続きを書き始めた。

指が、そっと袖をかすめる。  
それだけで、世界のすべてが震える。  
声にしなくても伝わるものが、確かにそこにある。

描写は簡潔に、わずか数行。  
けれど、その数行のために、どれだけ迷い、ためらい、考えたか。  
それを知っているのは、自分だけだった。

書き終えたあと、ひかるは深く息をついた。  
胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。

物語の静けさは、壊れていなかった。  
むしろ、その一瞬の“触れあい”によって、  
静けさはより深く、より重く、空気のように物語全体を包んでいた。

これは、恋愛ではない。  
けれど、ひとつの関係性のかたちとして、ひかるはその描写にたどり着いた。

自分が書いているのは、“BL”という枠組みに収まるものかもしれない。  
けれど、それ以上に、“人と人との関係の物語”なのだと、いま強く思った。

妄想ではない。  
理屈でもない。  
ただそこに存在している“ふたり”を、自分は筆で描き続けていく。

それが、今のひかるにできる、唯一の誠実だった。
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