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一室、ふたつの布団、交差する沈黙
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旅館の帳場で名前を告げたとき、少し困ったような笑顔を見せた仲居が「実はですね……」と切り出した瞬間、凪の予感は的中していた。
部屋割り表と実際の部屋数に齟齬があったらしい。三人部屋がふたつあるはずが、手違いで一室が二人部屋になっていると説明され、男子グループのうち、ひと組だけを二人一部屋にせざるを得なくなったのだという。
「結翔くんと凪くんなら、別に問題ないですよね?」
後ろからそう声が飛んだのは、まゆだった。あまりに自然な言い方に、返事をする間もなかった。
すかさず御堂筋も「あのふたりはどこにいても対になるので」と静かに付け加えた。
その場の空気が、“異論を挟む方が不自然”という温度に傾いたのを、凪は肌で感じ取った。
だからこそ、自分もただ小さく頷いて済ませた。
「まあ、別に」と。
隣で結翔も、同じように短く頷いた。
けれど、どちらの声にも、日中のような余裕は感じられなかった。
案内されたのは、廊下の突き当たりにある六畳間の和室だった。
襖を開けた瞬間、香のほのかな香りと、畳の乾いた匂いが鼻をかすめた。
窓際には広縁と障子戸があり、外の庭がぼんやりと見える。
室内にはすでに二組の布団が並べられており、白い掛け布団が対になるように敷かれていた。
誰がどう見ても「ふたりだけの空間」だった。
部屋に入ったふたりは、言葉を交わさず、手早く荷物を置いた。
会話の代わりに、微細な所作が音を作った。
ファスナーを開ける音、浴衣を取り出す音、水の入ったペットボトルの蓋を開ける音。
そのひとつひとつが、普段より少しだけ大きく響いているように感じた。
先に結翔が浴室へ向かった。
凪はその背中を見送りながら、畳の上に膝をついた。
冷静なつもりだったが、背中にうっすらと汗が滲んでいた。
今日一日を通して、距離が近すぎた。
だからこそ、この密閉された一室にいることが、呼吸を浅くさせる。
十数分後、結翔が髪を乾かして出てきた。
手にしたタオルを肩にかけ、動きに無駄がない。
浴衣の襟元はきちんと合わさっていて、帯も緩みがない。
無造作に見えて、きちんと計算されている。
けれどその横顔の耳たぶだけが、わずかに赤く染まっていた。
まるでその一点だけが、感情を隠しきれなかったかのように。
「先、どうぞ」
結翔が視線を合わせないままそう言った。
凪は短く「うん」と返して立ち上がる。
風呂上がり、いくぶんゆるめに浴衣をまとう。
鏡を見ると、わずかに頬に赤みがさしていた。
洗面所で水を何度か口に含み、喉の渇きを誤魔化す。
帰ってきて座敷に足を踏み入れると、結翔はすでに布団の縁に腰かけて、スマホを見ていた。
画面は眺めているだけで、操作はしていない。
その目は、どこかぼんやりと遠くを見ていた。
凪も隣の布団に腰を下ろした。
障子越しに外の虫の声が響いていた。
寝るにはまだ早い時間だが、話すこともなかった。
だから、ふたりとも自然と照明を落とし、布団に入った。
掛け布団の下で、指先がひんやりとした綿に触れる。
背中合わせに眠る構図。
息遣いが、静かすぎる空間の中でほんのわずかに重なっていた。
凪は天井を見つめたまま、心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。
言おうか、言わないか。
沈黙が何かを守っているようにも感じたが、壊してしまいたい気持ちの方が強かった。
「……ねえ」
掛け布団越しの声が、静寂に落ちた。
結翔の方から、反応はない。
けれど、聞こえているのは間違いなかった。
「俺さ……たぶん、君に“負けてもいい”って、思いかけてる」
凪の声は低く、けれどどこか震えていた。
誰かに聞かせるためではない。
目の前にいる、このひとりのためだけの告白だった。
それは“勝ち負け”のゲームに、ずっとこだわってきたふたりにとって、ルールを逸脱する言葉だった。
一拍置いて、布団の向こうで、結翔がわずかに身を起こしかけた気配があった。
けれど、そのまま動きは止まり、何も言わずに沈黙が落ちた。
言葉の代わりに、重くて長い呼吸の音だけが重なった。
凪は目を閉じた。
まぶたの裏に、結翔の顔が浮かぶ。
その耳の先の赤さまで、鮮明に思い出せる。
この夜が、ただの夜で終わるのか。
それとも、何かを変える始まりになるのか。
その答えは、まだどちらにも転がっていなかった。
部屋割り表と実際の部屋数に齟齬があったらしい。三人部屋がふたつあるはずが、手違いで一室が二人部屋になっていると説明され、男子グループのうち、ひと組だけを二人一部屋にせざるを得なくなったのだという。
「結翔くんと凪くんなら、別に問題ないですよね?」
後ろからそう声が飛んだのは、まゆだった。あまりに自然な言い方に、返事をする間もなかった。
すかさず御堂筋も「あのふたりはどこにいても対になるので」と静かに付け加えた。
その場の空気が、“異論を挟む方が不自然”という温度に傾いたのを、凪は肌で感じ取った。
だからこそ、自分もただ小さく頷いて済ませた。
「まあ、別に」と。
隣で結翔も、同じように短く頷いた。
けれど、どちらの声にも、日中のような余裕は感じられなかった。
案内されたのは、廊下の突き当たりにある六畳間の和室だった。
襖を開けた瞬間、香のほのかな香りと、畳の乾いた匂いが鼻をかすめた。
窓際には広縁と障子戸があり、外の庭がぼんやりと見える。
室内にはすでに二組の布団が並べられており、白い掛け布団が対になるように敷かれていた。
誰がどう見ても「ふたりだけの空間」だった。
部屋に入ったふたりは、言葉を交わさず、手早く荷物を置いた。
会話の代わりに、微細な所作が音を作った。
ファスナーを開ける音、浴衣を取り出す音、水の入ったペットボトルの蓋を開ける音。
そのひとつひとつが、普段より少しだけ大きく響いているように感じた。
先に結翔が浴室へ向かった。
凪はその背中を見送りながら、畳の上に膝をついた。
冷静なつもりだったが、背中にうっすらと汗が滲んでいた。
今日一日を通して、距離が近すぎた。
だからこそ、この密閉された一室にいることが、呼吸を浅くさせる。
十数分後、結翔が髪を乾かして出てきた。
手にしたタオルを肩にかけ、動きに無駄がない。
浴衣の襟元はきちんと合わさっていて、帯も緩みがない。
無造作に見えて、きちんと計算されている。
けれどその横顔の耳たぶだけが、わずかに赤く染まっていた。
まるでその一点だけが、感情を隠しきれなかったかのように。
「先、どうぞ」
結翔が視線を合わせないままそう言った。
凪は短く「うん」と返して立ち上がる。
風呂上がり、いくぶんゆるめに浴衣をまとう。
鏡を見ると、わずかに頬に赤みがさしていた。
洗面所で水を何度か口に含み、喉の渇きを誤魔化す。
帰ってきて座敷に足を踏み入れると、結翔はすでに布団の縁に腰かけて、スマホを見ていた。
画面は眺めているだけで、操作はしていない。
その目は、どこかぼんやりと遠くを見ていた。
凪も隣の布団に腰を下ろした。
障子越しに外の虫の声が響いていた。
寝るにはまだ早い時間だが、話すこともなかった。
だから、ふたりとも自然と照明を落とし、布団に入った。
掛け布団の下で、指先がひんやりとした綿に触れる。
背中合わせに眠る構図。
息遣いが、静かすぎる空間の中でほんのわずかに重なっていた。
凪は天井を見つめたまま、心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。
言おうか、言わないか。
沈黙が何かを守っているようにも感じたが、壊してしまいたい気持ちの方が強かった。
「……ねえ」
掛け布団越しの声が、静寂に落ちた。
結翔の方から、反応はない。
けれど、聞こえているのは間違いなかった。
「俺さ……たぶん、君に“負けてもいい”って、思いかけてる」
凪の声は低く、けれどどこか震えていた。
誰かに聞かせるためではない。
目の前にいる、このひとりのためだけの告白だった。
それは“勝ち負け”のゲームに、ずっとこだわってきたふたりにとって、ルールを逸脱する言葉だった。
一拍置いて、布団の向こうで、結翔がわずかに身を起こしかけた気配があった。
けれど、そのまま動きは止まり、何も言わずに沈黙が落ちた。
言葉の代わりに、重くて長い呼吸の音だけが重なった。
凪は目を閉じた。
まぶたの裏に、結翔の顔が浮かぶ。
その耳の先の赤さまで、鮮明に思い出せる。
この夜が、ただの夜で終わるのか。
それとも、何かを変える始まりになるのか。
その答えは、まだどちらにも転がっていなかった。
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