伏物語(フセモノガタリ)

越知 学

文字の大きさ
4 / 5

4話

しおりを挟む
 彼は両親の勧めと父方の祖父母の地元であるという理由から、県外の高校へ進学することになった。
 その学校がある町はとても暖かみに満ちていて、時がゆっくり流れているような感覚を味わえる場所だった。
 そんな柔らかな雰囲気が漂っているのは、紛れもなくそこの住民の生まれ持った気質のおかげなのだろう。
 彼はあまり知らない土地であるにも関わらず、瞬く間に溶け込んでいき、自分らしさを存分に発揮できる環境を手に入れることができた。
 そこには自分の両親を悪く言う者は疎か、いきなり喧嘩を吹っ掛けてくる者さえいない。
 その事実が、彼も気づかないままに失いかけていた起源を再起させるきっかけとなったのだ。
 そしてそれは――私の存在意義を大きく揺るがす事象でもあった。
 彼が人の優しさに触れれば触れるほど、私が必要ではなくなっていく。
 どんなに彼の心のバランスを保とうが、所詮は偽の存在。
 本物が返り咲けば、偽物は廃れていくのみ。
 だから私は、誰に看取られるわけでもなくお役御免になる――そのはずだった。
 突然――私はあたかも彼が隣にいるように感じたのだ。今まで主観的にしか見てこなかった彼の表情や身体を客観的に見ることができてしまった。
 彼の潜在意識の中にいることは覆っていない。私が彼に関与できないことも変わらない。
 しかし私は自分自身で感情を生み出せるようになったのだ。
 もちろん最初から使いこなせたわけではない。
 私は感情を表す言葉は聞いたことがあっても、それを理解していなかった。 
 なぜなら「感覚」「知覚」「認知」はそれぞれ別物であるからだ。
 何かしらの刺激を受容器で感じ取るのが「感覚」。その感覚を自覚して刺激の種類に意味付けするのが「知覚」。その知覚された刺激が何であるかを過去の経験などに基づき判断・理解するのが「認知」。
 そうして初めて人は物体あるいは状態を把握することができるのだ。
 それが目には見えない感情であれば、なおさら至難の業となる。
 私の場合「認知」の過程が欠落していた。全ての経験は彼のものであって私のものではない。ある物体を「丸い」「固い」と意味付けできても、認知できなければそれが何なのか分からないように、彼を通して「嬉しい」という言葉を聞いたところで、その感情が何を示しているのか、何故そう感じるのかが全く理解できないのだ。
 そのため暫くは自分の抱いた感情の正体がまったく掴めずにいた。
 それでも様々な私自身の経験を通して、徐々に感情を汲み取り、表出することが出来るようになっていった。
 私は「優しさ」を知ったことで、彼の起源に触れることができるようになる。
 それはずっと手を繋いでくれているような安心感と温もりで満ち溢れていた。
 甘くて、蕩けて、一頻り余韻を味わうことができる。まるでチョコレートみたいだ。
 そして私が優しさで形成されていたことに気づかせてくれると共に、偽りと感じてしまうほど自分が果てしなく小さく感じた。
 並みに努力する凡人が並みに努力する天才には敵わないように、私では到底歯が立たないものなのだ。
 そんなある日、私は自分の感情に違和感を覚えるようになった。
 まだ一度も感じたことのない不安定な心の蟠り。
 未知なものには不安が伴うように、経験していないからこそ途轍もなくそれを過大視してしまう。
 胸につかえるような感覚を解消するために、彼の記憶を漁った。
 彼の経験を辿れば、もしかしたら解決の糸口が見えるかもしれないと思ったからだ。
 両親が大切に保存してくれていたアルバムを見るように、何度も何度もページを捲った。
 そして、あるページに辿り着いたとき――失神しかけるほどの痛みに襲われた。
 痛い、痛い、痛い……。
 たとえ偽りであっても、優しさとして生まれた私はこんな苦痛とは無縁だった。
 苦しい、苦しい、苦しい……。
 このままでは自分を失ってしまいそうだ。
 辛い、辛い、辛い……。
 あまりに耐え難いその感覚に、私は何とかアルバムを閉じて紐で固く縛ろうとした。
 まるで興味なんかないと言わんばかりに。そうやって見ないふりをしていればきっと治まってくれると思った。
 ――でもそれは、臆病者の選択でしかなかった。
 しらを切るほど、胸に突き刺さる痛みは強まる一方で止まることを知らない。
 私は押さえようのない疼きを前に観念した。
 もう――認めざるを得ない。
 本当は気づいていたんだ、痛みの原因なんて。
 でも、本来ならば見蕩れるほどの美しさで包まれているはずのそれが、こんなにも醜い部分があるなんて信じたくなかった。
 経験のない私の中では、穢れのない清廉なままであって欲しかった。
 でも……それももう終わり。
 知ってしまった真理はなかなか覆せないように、甘みと苦み両方を認知した私は今さらそれを否定できない。
 私は他の誰でもなく自分に向けて違和感の正体を告げる。
『誰かを好きになるって、こんなにも目が眩むのに目には見えないんだね』
 私の想いは、誰かに届くことも気づかれることもなく、どこまでも続く空へと飛んで行った――。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

幸せになれると思っていた

里見知美
恋愛
18歳になったら結婚しよう、と約束をしていたのに。 ある事故から目を覚ますと、誰もが私をいないものとして扱った。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて

ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」 お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。 綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。 今はもう、私に微笑みかける事はありません。 貴方の笑顔は別の方のもの。 私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。 私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。 ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか? ―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。 ※ゆるゆる設定です。 ※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」 ※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

すべてはあなたの為だった~狂愛~

矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。 愛しているのは君だけ…。 大切なのも君だけ…。 『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』 ※設定はゆるいです。 ※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。

処理中です...