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彼は両親の勧めと父方の祖父母の地元であるという理由から、県外の高校へ進学することになった。
その学校がある町はとても暖かみに満ちていて、時がゆっくり流れているような感覚を味わえる場所だった。
そんな柔らかな雰囲気が漂っているのは、紛れもなくそこの住民の生まれ持った気質のおかげなのだろう。
彼はあまり知らない土地であるにも関わらず、瞬く間に溶け込んでいき、自分らしさを存分に発揮できる環境を手に入れることができた。
そこには自分の両親を悪く言う者は疎か、いきなり喧嘩を吹っ掛けてくる者さえいない。
その事実が、彼も気づかないままに失いかけていた起源を再起させるきっかけとなったのだ。
そしてそれは――私の存在意義を大きく揺るがす事象でもあった。
彼が人の優しさに触れれば触れるほど、私が必要ではなくなっていく。
どんなに彼の心のバランスを保とうが、所詮は偽の存在。
本物が返り咲けば、偽物は廃れていくのみ。
だから私は、誰に看取られるわけでもなくお役御免になる――そのはずだった。
突然――私はあたかも彼が隣にいるように感じたのだ。今まで主観的にしか見てこなかった彼の表情や身体を客観的に見ることができてしまった。
彼の潜在意識の中にいることは覆っていない。私が彼に関与できないことも変わらない。
しかし私は自分自身で感情を生み出せるようになったのだ。
もちろん最初から使いこなせたわけではない。
私は感情を表す言葉は聞いたことがあっても、それを理解していなかった。
なぜなら「感覚」「知覚」「認知」はそれぞれ別物であるからだ。
何かしらの刺激を受容器で感じ取るのが「感覚」。その感覚を自覚して刺激の種類に意味付けするのが「知覚」。その知覚された刺激が何であるかを過去の経験などに基づき判断・理解するのが「認知」。
そうして初めて人は物体あるいは状態を把握することができるのだ。
それが目には見えない感情であれば、なおさら至難の業となる。
私の場合「認知」の過程が欠落していた。全ての経験は彼のものであって私のものではない。ある物体を「丸い」「固い」と意味付けできても、認知できなければそれが何なのか分からないように、彼を通して「嬉しい」という言葉を聞いたところで、その感情が何を示しているのか、何故そう感じるのかが全く理解できないのだ。
そのため暫くは自分の抱いた感情の正体がまったく掴めずにいた。
それでも様々な私自身の経験を通して、徐々に感情を汲み取り、表出することが出来るようになっていった。
私は「優しさ」を知ったことで、彼の起源に触れることができるようになる。
それはずっと手を繋いでくれているような安心感と温もりで満ち溢れていた。
甘くて、蕩けて、一頻り余韻を味わうことができる。まるでチョコレートみたいだ。
そして私が優しさで形成されていたことに気づかせてくれると共に、偽りと感じてしまうほど自分が果てしなく小さく感じた。
並みに努力する凡人が並みに努力する天才には敵わないように、私では到底歯が立たないものなのだ。
そんなある日、私は自分の感情に違和感を覚えるようになった。
まだ一度も感じたことのない不安定な心の蟠り。
未知なものには不安が伴うように、経験していないからこそ途轍もなくそれを過大視してしまう。
胸につかえるような感覚を解消するために、彼の記憶を漁った。
彼の経験を辿れば、もしかしたら解決の糸口が見えるかもしれないと思ったからだ。
両親が大切に保存してくれていたアルバムを見るように、何度も何度もページを捲った。
そして、あるページに辿り着いたとき――失神しかけるほどの痛みに襲われた。
痛い、痛い、痛い……。
たとえ偽りであっても、優しさとして生まれた私はこんな苦痛とは無縁だった。
苦しい、苦しい、苦しい……。
このままでは自分を失ってしまいそうだ。
辛い、辛い、辛い……。
あまりに耐え難いその感覚に、私は何とかアルバムを閉じて紐で固く縛ろうとした。
まるで興味なんかないと言わんばかりに。そうやって見ないふりをしていればきっと治まってくれると思った。
――でもそれは、臆病者の選択でしかなかった。
しらを切るほど、胸に突き刺さる痛みは強まる一方で止まることを知らない。
私は押さえようのない疼きを前に観念した。
もう――認めざるを得ない。
本当は気づいていたんだ、痛みの原因なんて。
でも、本来ならば見蕩れるほどの美しさで包まれているはずのそれが、こんなにも醜い部分があるなんて信じたくなかった。
経験のない私の中では、穢れのない清廉なままであって欲しかった。
でも……それももう終わり。
知ってしまった真理はなかなか覆せないように、甘みと苦み両方を認知した私は今さらそれを否定できない。
私は他の誰でもなく自分に向けて違和感の正体を告げる。
『誰かを好きになるって、こんなにも目が眩むのに目には見えないんだね』
私の想いは、誰かに届くことも気づかれることもなく、どこまでも続く空へと飛んで行った――。
その学校がある町はとても暖かみに満ちていて、時がゆっくり流れているような感覚を味わえる場所だった。
そんな柔らかな雰囲気が漂っているのは、紛れもなくそこの住民の生まれ持った気質のおかげなのだろう。
彼はあまり知らない土地であるにも関わらず、瞬く間に溶け込んでいき、自分らしさを存分に発揮できる環境を手に入れることができた。
そこには自分の両親を悪く言う者は疎か、いきなり喧嘩を吹っ掛けてくる者さえいない。
その事実が、彼も気づかないままに失いかけていた起源を再起させるきっかけとなったのだ。
そしてそれは――私の存在意義を大きく揺るがす事象でもあった。
彼が人の優しさに触れれば触れるほど、私が必要ではなくなっていく。
どんなに彼の心のバランスを保とうが、所詮は偽の存在。
本物が返り咲けば、偽物は廃れていくのみ。
だから私は、誰に看取られるわけでもなくお役御免になる――そのはずだった。
突然――私はあたかも彼が隣にいるように感じたのだ。今まで主観的にしか見てこなかった彼の表情や身体を客観的に見ることができてしまった。
彼の潜在意識の中にいることは覆っていない。私が彼に関与できないことも変わらない。
しかし私は自分自身で感情を生み出せるようになったのだ。
もちろん最初から使いこなせたわけではない。
私は感情を表す言葉は聞いたことがあっても、それを理解していなかった。
なぜなら「感覚」「知覚」「認知」はそれぞれ別物であるからだ。
何かしらの刺激を受容器で感じ取るのが「感覚」。その感覚を自覚して刺激の種類に意味付けするのが「知覚」。その知覚された刺激が何であるかを過去の経験などに基づき判断・理解するのが「認知」。
そうして初めて人は物体あるいは状態を把握することができるのだ。
それが目には見えない感情であれば、なおさら至難の業となる。
私の場合「認知」の過程が欠落していた。全ての経験は彼のものであって私のものではない。ある物体を「丸い」「固い」と意味付けできても、認知できなければそれが何なのか分からないように、彼を通して「嬉しい」という言葉を聞いたところで、その感情が何を示しているのか、何故そう感じるのかが全く理解できないのだ。
そのため暫くは自分の抱いた感情の正体がまったく掴めずにいた。
それでも様々な私自身の経験を通して、徐々に感情を汲み取り、表出することが出来るようになっていった。
私は「優しさ」を知ったことで、彼の起源に触れることができるようになる。
それはずっと手を繋いでくれているような安心感と温もりで満ち溢れていた。
甘くて、蕩けて、一頻り余韻を味わうことができる。まるでチョコレートみたいだ。
そして私が優しさで形成されていたことに気づかせてくれると共に、偽りと感じてしまうほど自分が果てしなく小さく感じた。
並みに努力する凡人が並みに努力する天才には敵わないように、私では到底歯が立たないものなのだ。
そんなある日、私は自分の感情に違和感を覚えるようになった。
まだ一度も感じたことのない不安定な心の蟠り。
未知なものには不安が伴うように、経験していないからこそ途轍もなくそれを過大視してしまう。
胸につかえるような感覚を解消するために、彼の記憶を漁った。
彼の経験を辿れば、もしかしたら解決の糸口が見えるかもしれないと思ったからだ。
両親が大切に保存してくれていたアルバムを見るように、何度も何度もページを捲った。
そして、あるページに辿り着いたとき――失神しかけるほどの痛みに襲われた。
痛い、痛い、痛い……。
たとえ偽りであっても、優しさとして生まれた私はこんな苦痛とは無縁だった。
苦しい、苦しい、苦しい……。
このままでは自分を失ってしまいそうだ。
辛い、辛い、辛い……。
あまりに耐え難いその感覚に、私は何とかアルバムを閉じて紐で固く縛ろうとした。
まるで興味なんかないと言わんばかりに。そうやって見ないふりをしていればきっと治まってくれると思った。
――でもそれは、臆病者の選択でしかなかった。
しらを切るほど、胸に突き刺さる痛みは強まる一方で止まることを知らない。
私は押さえようのない疼きを前に観念した。
もう――認めざるを得ない。
本当は気づいていたんだ、痛みの原因なんて。
でも、本来ならば見蕩れるほどの美しさで包まれているはずのそれが、こんなにも醜い部分があるなんて信じたくなかった。
経験のない私の中では、穢れのない清廉なままであって欲しかった。
でも……それももう終わり。
知ってしまった真理はなかなか覆せないように、甘みと苦み両方を認知した私は今さらそれを否定できない。
私は他の誰でもなく自分に向けて違和感の正体を告げる。
『誰かを好きになるって、こんなにも目が眩むのに目には見えないんだね』
私の想いは、誰かに届くことも気づかれることもなく、どこまでも続く空へと飛んで行った――。
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