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1巻
1-2
しおりを挟むあー、なんか今日一日だけで随分色んなことがあったなぁ……
フカフカのベッドの上にゴロンと寝転びながら、そんなことを考える。
乙女ゲームの寝取られ役に転生したかと思えば、いきなり攻略キャラと結婚することになるなんて。しかもこれ、たった一日で起きた出来事で、展開が早すぎて頭が付いていかない。
ゴロリと体勢を変えた私の脳裏に、転生時に入ってきた記憶が浮かぶ。
そう、転生前の彼女の記憶だ。
エステルは『能無し』として家族から蔑まれてきた。両親は揃って妹ばかり可愛がり、いつも彼女は存在しない者として扱われてきたのだ。たくさんのおもちゃも、綺麗な服も、両親の愛も、それらは妹だけがもらえるもので、エステルはおこぼれを恵んでもらっていた。
食事だって、家族が終わった後に残った物を食べるのが常だった。教育も妹には家庭教師が付いたが、エステルにはなかった。でも、妹との境遇の差を哀れに思った家庭教師がこっそりと読み書きやマナーを教えてくれたおかげで、エステルにはある程度の知識はある。
また、エステルは地頭が良いようで文字の理解が早く、まるで辛い現実から目を背けるかのように、ひたすら書物庫に籠もっては本を読んで過ごす日々を送っていた。
うんうん……よく頑張ったね、辛かったね。
彼女の境遇に同情してしまい、思わずよしよしと頭を撫でる。まぁ、自分の頭なんだけど。
それに比べて、今の環境はまるで天国だ。フカフカのベッドと美味しい食事が用意され、一人の人間として扱ってもらえる。夫となるクロード様は『紅の閣下』なんて異名を持つ怖い方だと噂されているけれども、そんな風には全然見えないし。
……まぁ、まだ初日だし、今後どう扱われるかは分からないけど。
しかし、孤独や家族からの虐げに耐え抜いたし、前世の私もウン十年間社会人として世の荒波に揉まれつつも生活してきた。
そう、今のエステルはちょっとやそっとのことで崩れるようなメンタルなどしてないのだ!
寝取られ役だし、今後クロード様がどう行動するかは分からない。でも、せっかく毒家族とおさらば出来たのだ。ここはランブルグ辺境伯夫人の立場を存分に堪能しつつ、いざ寝取られた後の生活基盤を整えておこう。
それにはまず、妻としてこの家のことを把握しておく必要がある。そのためにも、まずは使用人達と仲良くしておいた方が良さそうだ。
ああ、布団が気持ち良くて、だんだん眠くなってきちゃったな。明日に備えて少し休もうかしら。
私は肌触りの良い布団を被り直し、そのまま意識を手放した。
寝心地の良いベッドで迎えた翌朝。ゆっくり眠ったおかげで身体が軽い気がする。
シャッと重厚なカーテンを開けると、窓からは陽の光が差し込む。
んーー、いい天気!
手を上げてググッと背中を伸ばす。少し喉が渇いたと思い、部屋をぐるりと見回すと、テーブルに水差しとコップが置かれていることに気付く。
ごくごくと勢い良く水を飲んだあと、鏡台前で寝ぐせを軽く整えていると、コンコンと扉を叩く音がした。返事をすると侍女らしき女性が部屋に入ってくる。
「奥様、おはようございます」
もう「奥様」呼びをされるのか……違和感が強いのだけど、徐々に慣れていくものなのかな。
「おはようございます」
「昨晩はよく眠れましたか」
「はい、ベッドの寝心地が良かったのでゆっくり休めました」
「それは良かったです。あっ、申し遅れました。本日から奥様の侍女を務めさせていただく『ルネ』と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
私とそう歳が変わらないと思われるキビキビした侍女は、にこりと笑みを浮かべながらお辞儀をする。
「あ、ええと、こちらこそよろしくお願いします」
慣れないシチュエーションにしどろもどろになっていると、ルネさんは「では早速身支度のお手伝いをさせていただきます」と慣れた様子で髪を梳く。
人に身支度を手伝ってもらうことがないため、どうしたらいいのか分からず大人しく座っていると、寝起きのボサボサ髪があっという間に綺麗な纏め髪になった。しかも化粧も丁寧に施される。
「次はお着替えを用意しましたので、こちらへ」
クローゼットに通され、彼女の選んだドレスに身を包むと令嬢らしい姿に様変わりする。
「本日はお出掛けのご予定がなかったので、邸宅用のドレスに致しました」
薄水色を基調としたくるぶし丈のドレスはAラインで、よく見ると裾に刺繍が施されており、職人の手が掛かっている。生地にシルクを使用しているのか、上品な光沢と滑らかな肌触りが特徴的で、身体のラインに優しくフィットするため、見た目よりも軽やかで動きやすい。
「わぁ。上品なのに動きやすくていいですね」
エステルが着ていたドレスはお下がりだったこともあり、裾に取り切れない汚れやほつれが多かった。素材が麻のようにゴワゴワしていたので保管時に付いた皺があちこちに残っていて、裾が変な方向へ広がっていた。
それに鮮やかなオレンジ色は目を引くが、妹より華奢な体格にはサイズが合わず、肩からドレスがずり落ちないように気を付けていたこともあり、非常に動きにくかった。妹はよくこんな不自由な物を好んで着ているな、とある意味感心していたのだが、それは単に物が良くなかっただけらしい。ランブルグ家のドレスは邸宅用なのに、圧倒的な格差を見せつけられた気がする。
「奥様の雰囲気に合わせて、落ち着いた色味のものにしてみました。これから朝食のお時間になりますので、食堂までご案内致します」
ルネさんの後に付いて食堂に着くと、ちょうどクロード様が扉を開けるところだった。
「クロード様、おはようございます」
「エステル、おはよう。昨晩はよく眠れたか」
「はい、おかげ様でよく眠れました」
「そうか、良かった。さて、立ち話もなんだから中に入ろう」
クロード様に促されて中に入ると、食事の美味しそうな匂いが部屋を満たしていた。
広いテーブルの端同士に座った途端、次々に料理が運ばれてくる。一品ずつの量は多くないものの、品数の多さに驚きを隠せない。ハムの盛り合わせ、様々な種類の焼き立てパン、卵料理、茹で野菜に数々の果物達……って、高級ホテルのバイキングかここは。
豪華すぎる朝食に呆気に取られていると、「君の好みがまだ分からないので、いつもより品数を多めに用意させた。好きな物を食べるといい」とクロード様は言う。
「お気遣いありがとうございます」
「お礼など必要ない。それに、これから長く過ごす家なのだから快適に過ごしてもらいたいと思っていてね。遠慮せずに要望があれば言ってほしい」
いきなり結婚を決めたことから強引な性格なのかと思っていたけど、色々と気遣ってくれているようだし、思っていた人物像とちょっと違うのかもしれない。
でも、朝からこんなにたくさんの料理はいらないかも。気遣い方がちょっとズレているあたり、まるで無骨な武人が見せる優しさのようで、彼の人となりが垣間見えた気がする。
「はい、分かりました」
彼の気持ちを素直に受け取ることにした私は、早速目の前にあった果物を手に取る。
これは木苺かしら? そう思いながら口に含むと甘酸っぱい味が広がる。
朝の乾いた身体に瑞々しい果汁が染みわたる。ああ、美味しい。
だんだん食欲が湧いてきたので、籠いっぱいの焼き立てパンを手に取り、何も付けずに食べてみる。んん、小麦の味もしっかりしているし、香ばしくて美味しいわ。
昨日の料理も素材の味がしっかり生かされていて美味しかったし。ここの料理人は腕がいいのだろう。
「んーー、おいひい」
あ、つい思ったことが口に出てしまった。
慌てて口を手で押さえて咀嚼していると、クロード様が小さく笑う。
「口に合ったようで何よりだ。それに、私も焼き立てのパンは何も付けずに食べるのが好きでな。昨日の酒の時も思ったが、もしかしたら君とは食の好みが近いのかもしれない」
「まぁ、そうなのですね」
ちょっとした共通点が見つかったことで親近感が湧く。
お互いに言葉数は多くないものの、和やかな空気で朝食を楽しんでいると、ふと思い出したようにクロード様が口を開く。
「そういえば昨日受け取った婚姻届けだが、これから神殿に提出してこようと思う。ついでに領地の治安も確認してくるので、結婚早々すまないが数日家を空けることになった」
「私に気を遣っていただかなくても大丈夫ですわ。それよりお仕事が忙しそうですね。どうぞ道中は気を付けて行って来てください」
「ああ、そうするよ」
彼は食事を済ませると、「私はこのまま出るから、君はゆっくり食事してくれ」と言い残し出て行ってしまった。
さて、この後はどうしようかしら。
旦那様は出掛けてしまったし、朝食を食べ終えた後は暇になってしまう。
手持ち無沙汰の私は、近くにいた使用人に何かすることはないかと話し掛けてみたのだが……
「エステル様は奥方になられたばかりですから、まずはこちらの生活に馴染んでいただければ幸いでございます」
とやんわり手伝いを断られた。やることがなくなった私は、一旦自室に戻ることにした。
どうしようかとソファにぼんやり座っていると、ルネさんに声を掛けられる。
「奥様、今日はお天気も良いので、お庭の散策などいかがですか」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。庭師が丹精込めて手入れした庭は素晴らしいですし、気分転換になると思いますよ」
「そうなんですね、ではお言葉に甘えてもいいですか」
「はい、是非。わたくしがご案内します」
ルネさんの先導で屋敷から出ると、柔らかな日差しと心地いい風が頬を撫でる。
「んー、今日は本当にいいお天気ですね。外に出ているだけで気持ちいいです」
「それは良かったです。実は、まだ奥様も嫁がれたばかりで緊張なさっているかと思い、ご提案させていただきました。喜んでいただけたようで何よりです」
談笑をしながら庭散策なんて、一流貴族の妻っぽいなぁ。……って、私は昨日からクロード様の妻になったんだっけ。
心の中で一人ツッコミをしつつ散策を続ける。
スターク家はお金がなかったから庭は見える部分だけしか綺麗にしていなかったが、ここの庭園は隅々まできちんと手入れが行き届いているようだ。どこを見ても雑草がボーボーに茂っているところはないし、小枝やゴミが散乱しているような場所も見当たらない。
綺麗に咲く花々を愛でていると、装飾用の石の上に動く何かがいることに気付いた。
お、こんなところにてんとう虫が。
私はそれを手に乗せてみた。実は前世で園芸を嗜んでいたこともあり、虫に対して苦手意識がないのだ。てんとう虫の種類によるが、赤地に大き目の黒点を持つナナホシテントウは植物につくアブラムシを食べてくれる益虫と言われている。見た目も可愛いので、植物にこれが付いていると勝手に名前を付けて可愛がっていたこともある。
「まぁ奥様! いけません、手が汚れてしまいますわ」
「大丈夫ですよ。洗えばいいだけのことですから」
慌てるルネさんに笑顔で返事をしていると、木の影に庭師のような格好をした初老の男性がしゃがんでいるのが見えた。何をしているのかしら?
てんとう虫を手に乗せたまま近付くと、私の姿に気付いたおじいさんは慌てた様子で立ち上がった。
「おっと失礼、お客様ですかな。作業に夢中になっていて気付かずに失礼しました」
庭師のおじいさんに、ルネさんは呆れた様子で話し掛けた。
「まぁ、ドンさん。奥様にお客様なんて失礼ですわ!」
「奥様!? まさか、昨日皆がしていた噂は本当じゃったのか!」
「ドンさん、当主様が嘘を吐くわけないでしょう!」
「た、確かにそうじゃが……まさか本当に奥様を迎えるなんて。そうか、そうか、ダンブルグ家も賑やかになるな!」
「もう、ドンさん!!」
ふふ、どうやらこの家は使用人同士の仲が良いみたいね。
まるで親戚同士のような二人の掛け合いを微笑ましく見ていると、ドンさんと呼ばれるおじいさんが再び慌てた様子で私を見る。
「そうじゃ、奥様にご挨拶を忘れておったわ! 奥様、ワシは庭師のドンと申します。この通り老いぼれのジジイですが、何卒よろしくお願いいたします」
深いお辞儀と共に自己紹介をするドンさん。
最初は気難しい職人っぽい雰囲気で少々近寄り難いのかなと思ったけど、こうして丁寧に接してくれる姿を見ると印象が変わる。
「スターク男爵家から嫁いで来ました、エステルと申します。ドンさん、これからよろしくお願いします」
手の平に虫を乗せたままだったので軽くお辞儀をすると、その不自然な動作が気になったのだろう、ドンさんの視線が手に向けられる。
「それはてんとう虫ですかな?」
「ええ、そうですわ。石の上にいたので、葉に乗せてあげようと思っていたところでしたの」
「ほほぉ、貴族のお嬢様が虫を触れるとは」
令嬢が虫に触れることは一般的ではないのかしら。でも、スターク家の書物庫だって蜘蛛や蟻とかの虫は出ていたし、本人も特段気にせず過ごしていたようだけど。
「他の方はどうか分かりませんが、あまり虫に抵抗感がない方なのです。過去に趣味で園芸を嗜んでいたこともあり、てんとう虫が懐かしくて」
「なるほど、それなら虫にも慣れていらっしゃるのも理解出来ましたわい。ちなみにどういった植物を育てていらっしゃったので?」
「ええっと、トマトとかナスとか」
「とまと? なす?」
げ、そうだった! トマトもナスも前世に近い物はあるけど、呼び方は全く違うんだった。
「や、野菜を育てていましたの」
「ほほぉ! 野菜は簡単なようで奥が深いですからのぅ。ご令嬢が野菜の栽培をしているとは聞いたことがないですが、なかなか面白い趣味ですな」
「そ、そうでしょうか。おほほほ」
令嬢は園芸で野菜を育てないの? エステルの生活環境が普通じゃなかったから、貴族がどんな生活を送っているのか分からないのよね。
「ちなみに、野菜を自分で育てようと思った理由はあるのですかな?」
「そうですね……植物を育てるのは大変ですが、丹精込めて育てた野菜を食べることで、植物の持つ生命力を身近に感じることが出来る気がするのです。その感覚が好きで、気付いたら趣味になっていた、という感じでしょうか」
「ほうほう、奥様は本当に植物がお好きなのですな。そうじゃ、裏庭に菜園がありましてな。よろしければ見て行かれますか」
「ええ、是非!」
ドンさんはプロの庭師だし、どんな野菜を育てているのか気になる。
ドンさんとの会話が弾んでいると、ルネさんは呆れた様子で口を挟む。
「奥様、そのままではお召し物が汚れてしまいますわ」
うぐっ、確かにこのドレスはクロード様が買った物だし、汚して後で何か言われたら困る。
「確かにそうじゃな。土のある場所なぞに誘ってしまって申し訳ないです」
ああ、せっかくドンさんと仲良くなれそうだったのに。このままでは使用人達と仲良くするきっかけを失ってしまうわ。
「ドンさん、謝らないでください。あ! そうですわ。明日は私が持ち込んだ服装で来ますから、その時にドンさんの育てている食物を見せていただけませんか」
「は、はぁ。ワシは構いませんが」
「私物ですし、汚れようが捨てようが自由に使えるはずですわ。ね、ルネさん?」
私の気迫に押されたのか、ルネさんは何か言いたそうな表情だったが、「え、ええ」と返事をする。よし、言質は取ったぞ。
「ほら、ルネさんもいいと言ってくれたことですし、明日またお庭で会いましょう」
「ほほほ! 侍女を煙に巻くとは、奥様はなかなか肝の据わったお方のようじゃな。さすがは当主様が見初めたお方だけあるわい。では、明日お会いしましょうぞ」
わーい! 明日が楽しみだわ!
「もう、奥様もドンさんも……。当主様にはこのことはナイショですよ」
「ルネさんありがとうございます」
「了解しましたぞ」
ふふ、楽しみが増えたわ。
ドンさんから離れて再び散歩を開始した私は、明日のことが楽しみでつい顔がニマニマと綻んでしまう。そんな様子が気になったのか、隣にいるルネさんが話し掛けてきた。
「奥様は貴族出身ですのに、珍しい趣味をお持ちなのですね」
「そうかしら?」
「私のような平民でしたら理解出来ますが、そういった貴族の方の話はあまり聞かないので」
「ええと、言わないだけで、多彩な趣味をお持ちの方もいらっしゃると思うけれど。おほほ」
なんて言ったらいいか分からないので、とりあえず笑って誤魔化す。
そういえば、先程のドンさんやルネさん達を見て気付いたことだが、ここの使用人は身分や出身に関係なく雇われているようだった。ルネさんは平民出身だと言っていたし、ドンさんの肌の色はこの国では珍しい褐色だ。
スターク家は男爵家だったけど、「貴族たるもの、よそ者などを屋敷には入れてはならぬ」と主張して、外国人の使用人は絶対に雇わなかった。クロード様はそういった偏見のない方なのかもしれない。
実家との違いを再認識していると、手のひらのてんとう虫が元気よく羽ばたいていった。てんとう虫を葉に戻す任務がなくなり手持ち無沙汰になった私は、ルネさんと屋敷に戻ることにした。
慣れない廊下を歩き自室に戻る途中、何やら美味しそうな匂いがしてくる。
外に出ていたから気付かなかったけど、もうお昼時なのかしら。
「ねえ、ルネさん。いい匂いがするけれど、このあたりに厨房でもあるのでしょうか?」
「はい、一階の一番端に厨房がございます」
へぇ、そうなんだ。
エステルは実家で虐げられていて、与えられた食事も残飯を摘むようなものだった。ここでは一応妻のポジションだし、実家と同じ扱いを受けるとは思わないけど、ちょっと心配なので様子だけでも見ておきたい。
「お屋敷探索も兼ねて厨房を覗いてみたいのだけど」
「厨房……ですか? 中まで入らなければ大丈夫だと思いますが」
「どんな料理を作っているのか知りたいだけだから、ちょっと覗くだけです」
ルネさんからの許可を得て厨房前までやって来ると、中からガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。扉を開けようと手を伸ばした瞬間、バァンッと勢い良く扉が開いた。
「きゃっ!?」
「うぉ、びっくりした! こんなところに突っ立ってたら危ないじゃねぇか」
「ご、ごめんなさい」
ああ、びっくりした!
全自動で扉が開いたかと思ったら、ガタイの良い男の人が目の前にいるんだもの。
「まぁ、ジャン! 奥様に向かってなんて口の利き方ですか」
「え、奥様!? 昨日の話は本当だったのか……!? 大変失礼しました!」
大柄な男性は申し訳なさそうに私に頭を下げる。
こげ茶色の髪を後ろで一つ結びにしたその人は、立派な体格と彫りの深い顔立ちから、まるでハリウッド映画に出て来るワイルドな男性俳優のような印象を受ける。
黒い前掛けをしており厨房を出入りしているので、きっとここの料理人なのだろう。
そういえばドンさんも同じ反応をしていたわね。考えてみれば、昨日来たばかりだし、持ち場を離れられない使用人達は私のことを見ていないから、驚くのも当然か。
「ルネさん、私は気にしていませんわ。昨日からクロード様の妻になりました、エステルと申します。よろしくお願いします」
「俺はジャンです。この厨房で料理長を務めています。……で、奥様がなぜこんなところに?」
「皆さんがどんなお料理を作っているのか気になったので、見学に来たのです。仕事の邪魔はしないので、後ろで作業の様子を見ていてもよろしいでしょうか?」
「厨房見学? ははは、貴族のお嬢さんがそんなことを言うなんて面白いな」
「もう、ジャン! 申し訳ありません、奥様」
「ルネさん、大丈夫ですよ。厨房ではジャンさんが一番偉い方なのですし、お屋敷の中では私は一番の新人ですから、色々教えていただきたいですわ。それより、先程からとてもいい匂いがしますわね。どんなお料理を作っているのかしら?」
「ああ、今日は煮込み料理を作っていたんですよ。ただ、仕上げ用の飾り葉を切らしちまったから、ドンじいのとこの菜園で拝借しようと思ってたんです」
「ドンじい」って、さっきお庭でお会いした庭師のドンさんのことかな。
「庭師のドンさんでしたら、先程お庭にいましたよ」
「奥様、ドンじいにお会いしたんですか? ドンじいは偏屈なところがあるけど悪い人じゃないから、どうか気を悪くしないでくださいね」
「え? すごく気さくで優しい方でしたよ?」
あれ、ジャンさんが固まったわ。私、何か変なこと言ったかしら?
「あのドンじいが? 奥様、一体ドンじいと何を話したんですか?」
「ええと、園芸の話ですが」
「園芸……。なるほど、それでか」
「どうかされました?」
ジャンさんはしばらく何か考え込んでいたが、私の呼びかけに我に返ったようで、はっと顔を上げた。
「い、いや、何でもありません。それより初日でドンじいに気に入られるとは、きっと奥様の人柄が良いのでしょう」
「ふふ、お世辞は結構ですよ」
「やだなぁ、俺はお世辞なんか言いませんって。厨房は慌ただしい場所ですが、是非中で見学して行ってください」
「ジャンさん、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
私とルネさんは、ジャンさんに促されて厨房の中へ入った。
「皆、奥様が厨房見学にお見えになったぞ! 失礼のないようにな!」
ジャンさんの言葉に反応して、使用人達が一斉にこちらを向く。
う、そんなに注目を集めなくていいのに~、視線が痛いわ。
「さ、こちらに椅子があるので良かったら使ってください。じゃあ俺はドンじいのところへ行ってきます」
「ありがとうございます」
ジャンさんはそう言って厨房を出て行った。ひとまず邪魔にならないよう、隅っこの丸椅子に座っていよう。大人しく椅子に座ってみたものの、使用人達の「お前一体何しに来た」という視線は痛いままだ。
気まずさから思わず視線を逸らすと、厨房の奥で慌ただしく動いている料理人を見つけた。
作業台がここからでは死角になっていて何をしているのかよく見えないが、とても忙しそうだ。手持ち無沙汰だし、お手伝いを申し出てみようかしら。
「奥様、どちらへ?」
「ちょっと、お手伝いをしようかなと」
「え」
「ルネさんも私に付きっきりで大変でしょうし、ここに座って休んでいてください」
「で、ですが奥様――」
何か言いたそうなルネさんを置いて、私は皆の邪魔にならないように壁を伝って歩く。
奥まで行くと、先程の料理人が急いで大量の野菜を切っている最中だった。
「大変そうですね、よろしければ私も手伝いますわ」
「え? は、はぁ」
料理人の男性は突然話し掛けられて驚いたのか、豆鉄砲を食らった鳩のように、ぽかんとしている。手伝いを拒否しているようには見えなかったので、ここは少し強引に話を進めてみることにした。
「手はここで洗っていいかしら? 包丁とまな板は、そこの使っていないものを使用しても?」
「は、はい。それは誰も使っていないので」
「じゃあ、お隣失礼しますね。もし邪魔になるようでしたら遠慮なくおっしゃってください」
「は、はぁ……」
なんとも歯切れの悪い返事だが、なんとか了承してもらう。まずは私も戦力になることをアピールして、足手まといにならないことを示した方が良いかもしれない。
前世では一人暮らし歴が長く、節約も兼ねて毎日自炊していた。それに、趣味の園芸でとれた野菜を美味しく調理することも当時の自分にとっては楽しみの一つだった。
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