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愛と筋肉に、限界はない
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ロウソクの炎が揺らめく、重厚な装飾に囲まれた公爵家の主寝室。そこには、今しがた政略結婚の誓いを終えたばかりの二人が立っていました。
「冷血公」の異名を持ち、氷のような美貌を誇るギルベルト公爵は、手袋を脱ぎ捨てながら、氷点下の眼差しを新妻に向けます。
「……いいか、エルゼ。あらかじめ言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
それは、数多の令嬢を絶望させてきた残酷な宣告。
ギルベルトは、新妻がショックで顔を伏せるか、あるいは縋り付いてくるのを待っていました。
しかし。
「――あ、本当ですか!? よかったぁぁぁ……!」
エルゼは絶望するどころか、天を仰いで深く安堵の吐息をもらしたのです。
「……何?」
「いえ、実はこちらも、どう切り出そうか胃が痛かったんです。閣下のようなお忙しい方が、私のような地味な女に構う暇なんてないですよね。安心しました!」
エルゼは、絹の夜着の裾を翻してベッドへ歩み寄ると、驚くほど手慣れた動作でシーツの感触を確かめ始めました。
「おい、待て。私が言ったのは、これは白い結婚で……夫婦としての情愛は一切持たないということだ。この寝室に来るのも、今日が最初で最後――」
「願ったり叶ったりです! 実は私、国境警備隊に幼馴染の恋人がいまして。この結婚が決まった時、二人で『体は売っても心は売らない』って涙ながらに誓い合ったんです。閣下が愛してくださらないなら、私の貞操も守られます! ありがとうございます、公爵閣下!」
「……こいびと?」
ギルベルトの眉間に、かつてないほど深い皺が刻まれました。
目の前の女は、今、この国の最高権力者の一人である自分に向かって「別の男がいる」と堂々と言い放ったのか?
「ええ! とっても素敵な人なんですよ。筋肉がすごくて。あ、閣下も騎士団長ですものね、筋肉は負けてないかもしれませんけど。でも彼は、閣下みたいにそんな怖い顔で睨んだりしませんから」
「……」
「というわけで、合意は済みましたね。私は左側で寝ます。あ、この枕、最高ですね。さすが公爵家!」
エルゼはもぞもぞと掛け布団に潜り込むと、一瞬で芋虫のような形になりました。
「ちょっと待て、エルゼ。話はまだ終わって――」
「閣下、夜更かしは美容の大敵ですよ? 明日は朝からお披露目の挨拶回りがあるって執事さんが言ってました。五分で寝ないと間に合いません。あ、消灯お願いしまーす!」
「……私に命じるのか? この私に、明かりを消せと?」
「あ、届きませんか? よいしょ」
エルゼは布団からむくっと起き上がると、ギルベルトが口を挟む隙も与えず、枕元のランプを「フッ!」と勢いよく吹き消しました。
一瞬で静寂と闇に包まれる寝室。
「…………」
暗闇の中、ギルベルトは立ち尽くしました。
自分が冷酷に突き放し、彼女が泣き崩れる。そんな「予定調和」のシナリオは、開始数分でゴミ箱に放り込まれました。
「……おい。エルゼ。起きろ」
返事はありません。
聞こえてくるのは、あまりにも規則正しく、あまりにも健やかな、新妻の寝息だけ。
「スヤァ……」
戦場では冷静沈着を貫いてきたギルベルトでしたが、この夜ばかりは自分の立ち位置を見失い、月明かりの下で呆然とする羽目になったのでした。
◆
翌朝、公爵家の食堂には、真冬のような冷気と焼きたての香ばしいパンの匂いが混在していました。
ギルベルトは一睡もできていませんでした。
「冷血公」としてのプライドが、昨夜の屈辱――というか、完全なるスルーを許さなかったのです。彼は朝食の席で、エルゼが席に着くのを待ち構えていました。
「……おはよう、エルゼ。昨夜はよく眠れたようだな?」
ギルベルトは極上の冷笑を浮かべ、ナイフを硬めのベーコンに突き刺しました。しかし、現れたエルゼは、驚くほどスッキリとした顔で着席します。
「おはようございます、閣下! はい、おかげさまで。あんなに寝心地の良いベッドは初めてです。実家のベッドは藁が半分混じっていましたから、まるで雲の上で寝ているような気分でした!」
「……そうか。だが、忘れてはいないだろうな。君は私に『恋人』がいると言った。隠れて不貞を働くことは許されないぞ」
「もちろんです! 彼とは文通だけで我慢すると決めていますから。あ、このオムレツ、ふわふわですね! 閣下、一口いかがですか?」
「いらん。……それより、その男は誰だ。国境の警備隊と言っていたな」
ギルベルトは、さりげなさを装いながら尋ねました。彼の中の「軍人としての情報収集癖」が、得体の知れないライバルの存在を特定せよと命じていたのです。
「はい! マックスという名前なんです。熊を素手で倒したこともある、村の英雄なんですよ。閣下のような洗練された美形ではありませんが、笑顔が太陽みたいに眩しくて……ああ、今頃彼は、私のいない村で寂しくプロテインでも飲んでいるのかしら……」
「……プロテイン?」
「ええ、筋肉を育てる魔法の粉です。あ、閣下、そのベーコン食べないなら頂いてもいいですか? 育ち盛りなもので」
エルゼは、ギルベルトが怒りで震えさせている皿の上のベーコンを、ヒョイと自分の皿へ移しました。
「……君は、公爵夫人としての自覚が足りないのではないか? 夫である私を差し置いて、初日の朝から別の男の筋肉の話を……」
「えっ? でも閣下、『お前を愛するつもりはない』っておっしゃいましたよね? 愛していない女が誰の筋肉を褒めようが、閣下の高貴なプライドには傷がつかないはずでは……? あ、このパン、おかわりお願いします!」
エルゼは爽やかな笑顔で、控えていた執事にバスケットを差し出しました。
「…………」
ギルベルトは絶句しました。
論理的、あまりにも論理的。ぐうの音も出ない正論です。
冷酷に突き放したはずの自分が、なぜか今、浮気を疑う嫉妬深い夫のような惨めな気分に陥っている。
「閣下、顔色が悪いですよ? もしかして、夜更かしされました? 私はぐっすりだったので、今日はこれからお庭の散策に行ってきますね! 閣下はお仕事頑張ってください!」
「……待て、エルゼ。私はまだ――」
「あ、そうだ。マックスへの手紙、公爵家の公用便で出してもいいですか? ……ダメですか。公私混同ですもんね。自分で切手買います! では、失礼します!」
エルゼは嵐のように朝食を平らげると、優雅に、しかし音速で食堂を後にしました。
残されたのは、完璧に磨き上げられた銀食器と、自分の皿からベーコンが消えていることに今さら気づいた、孤独な公爵だけでした。
「……おい、執事。今すぐ国境警備隊の『マックス』という男を調べろ。それと、プロテインとやらも至急取り寄せろ」
「……畏まりました、閣下」
こうして、冷血公による「愛するつもりない妻」への、全く無自覚な空回り追跡劇が幕を開けたのでした。
◆
数日後、公爵邸の庭園には、およそ貴族の屋敷には似つかわしくない光景が広がっていました。
ギルベルトは執務室の窓から、庭の隅でせっせと土を掘り返しているエルゼを苦々しく見下ろしていました。彼女は豪華なドレスの袖をまくり上げ、なぜかスコップを振るっています。
「……何をしているんだ、彼女は」
「はっ。奥様は『マックスとの思い出のジャガイモを育てたい』とおっしゃり、庭師から一画を借り受けたようです」
執事の報告に、ギルベルトの手の中のペンがミキッと嫌な音を立てました。
「ジャガイモだと? 観賞用のバラを抜いて、根菜を植えたというのか。……いや、それよりマックスだ。例の男の調査はどうなった」
「……それが。国境警備隊に『マックス』という名の男は三十二名おりまして。そのうち、熊を倒した経験がある、あるいは自称している男は十二名にのぼります」
「……多すぎるだろう、マックス」
ギルベルトは苛立ちを隠さず、デスクに置かれたプロテインの袋を睨みつけました。昨日、わざわざ隣国の商人から高値で取り寄せた、最高級の筋肉増強剤です。
その日の午後。
ギルベルトは重い腰を上げ、庭にいるエルゼに「偶然を装って」近づきました。
手には、なぜかこれ見よがしに「プロテイン入りのシェイカー」を持っています。
「……ふん。エルゼ、精が出るな。そんな泥遊びよりも、私と茶でもどうだ?」
「あ! 閣下! 見てください、この土! 最高に栄養が詰まってますよ。マックスが言ってたんです、『土の良し悪しは、舐めた時の甘みでわかる』って!」
「土を舐めるな! 頼むから公爵夫人のプライドを持ってくれ!! ……それより、見ろ。これが例の『魔法の粉』だ。私が持っているものは、そのマックスとかいう男が飲んでいる安物とは格が違う」
ギルベルトは、まるで最新兵器を披露するかのようなドヤ顔でシェイカーを振ってみせました。
「ええっ! 閣下、それ……わざわざ買ってくださったんですか!? もしかして、私のために……?」
エルゼが瞳を輝かせて駆け寄ります。
ギルベルトは内心「ふっ、やはり私の方が財力も配慮も上だと気づいたか」と口角を上げました。
「……まあ、君がどうしてもと言うなら、分けてやらんことも――」
「ありがとうございます! これ、肥料に混ぜたらジャガイモがすっごく大きく育ちそうですね! さすが閣下、お目が高い!」
「…………は?」
「マックスも言っていました、『筋肉にいいものは野菜にもいい』って。これで冬にはマックスに立派なジャガイモを送ってあげられます! さあ、閣下、早くその粉を土に!」
「断る!! これは私が……いや、人間が飲むものだ! 誰がジャガイモの肥料にすると言った!」
ギルベルトの叫びが庭園に虚しく響き渡りました。
愛するつもりはないと宣言したはずの妻に、なぜか「ジャガイモの肥料を買ってきた夫」として認識され始めた公爵。
「閣下、そんなに怒らなくても……。あ、もしかして閣下もジャガイモ、食べたかったんですか? 案外可愛いところがあるんですね」
「……違う! 私は、君が、その……っ!」
「愛さない」と宣言してしまった手前、「私を見てくれ」とは死んでも言えないギルベルト。
そんな彼の苦悩を知ってか知らずか、エルゼは鼻歌交じりに、公爵が取り寄せた最高級プロテインを、惜しげもなくジャガイモの畑にぶちまけるのでした。
◆
数ヶ月後、公爵邸の裏庭には、もはや植物学の常識を軽々と越え、物理法則すら危うくさせる「怪異」が鎮座していました。
「……おい。これは何だ。説明しろ、エルゼ」
ギルベルトは、震える指先でその「物体」を指さしました。
そこには、一般的なジャガイモの概念を根底から覆す、岩石のごときゴツゴツとした巨大な塊が。しかも、皮の表面にはまるで鍛え上げられた大胸筋のような凹凸が浮かび上がり、土を突き破って猛々しく主張しています。
「見てください閣下! プロテイン・ポテト、通称『プロポテ』の収穫です! 閣下の高級粉末を毎日たっぷり注いだら、こんなに逞しく育ちました!」
エルゼは、丸太のように太くなったジャガイモの茎(もはや木)を愛おしそうに撫でながら、満面の笑みを浮かべています。
「逞しすぎるだろう……。ジャガイモに血管のような筋が浮き出ているのを初めて見たぞ。……というか、なぜこれほどまでに巨大化したんだ」
「マックスが言ってたんです。『愛と栄養を与えれば、芋は応えてくれる』って。ほら、見てください、この圧倒的なバルク! 今にも『サイドチェスト!』って叫び出しそうじゃないですか?」
「喋るわけがないだろう、芋だぞ!?」
ギルベルトは頭を抱えました。
この数ヶ月、彼は「愛するつもりのない妻」の気を引こうと、最高級の肥料(プロテイン)や、最新の農耕器具を買い与えてきました。すべては、彼女の口から「マックスより閣下の方が凄いです!」という言葉を引き出すため。
しかし、結果として誕生したのは、「夫の財力でマックスへの愛を具現化した究極の筋肉芋」でした。
「さあ閣下! 今夜は収穫祭です! このムキムキポテトをマッシュして、たっぷり召し上がってください。閣下もこれでお体に厚みが出ますよ!」
「断る。私は自分の妻が、別の男の面影を重ねた不気味な筋肉芋を食うほど落ちぶれてはいない」
「えーっ。あ、もしかして閣下、この芋の大きさに嫉妬してるんですか? 大丈夫ですよ、閣下の腹筋もこの芋の凹凸に負けないくらい立派ですから。自信を持ってください!」
「比較対象が芋になった時点で私の負けだろうが!!」
ギルベルトの叫びが響き渡る中、エルゼは「よいしょー!」という掛け声と共に、成人男性でも持ち上げるのが困難なサイズのジャガイモを、軽々と抱え上げました。
「とりあえず、一個はマックスに送りますね! 『閣下のおかげで、あなたのような立派な芋が育ちました』って手紙を添えて!」
「やめろ! そんな呪いのような手紙を国境に送るな!! 公爵家の名誉に関わる!!!」
追いすがるギルベルトをよそに、エルゼは意気揚々とキッチンへ向かっていきます。
冷酷無比だったはずの公爵は、今や「妻の心」ではなく「ジャガイモの規格外な成長」に翻弄される日々。
その日の晩餐。
テーブルに並んだのは、明らかに密度がおかしい「超高タンパク・マッシュポテト」でした。
一口食べたギルベルトは、あまりの弾力に「……マッシュなのに、噛み応えがステーキ以上とはどういうことだ……?」と絶望の淵で呟くのでした。
◆
翌朝、ギルベルトは鏡の前で凍り付いていました。
「……なんだ、この……この『圧』は」
昨夜、エルゼが作った「超高タンパク・マッシュポテト(プロポテ仕様)」を一口食べただけ。
それなのに、鏡に映る自分の体は、かつてないほどの輝きを放っていました。
シャツのボタンを留めようとすれば「パチンッ!」と弾け飛び、ただ腕を組んだだけで袖が悲鳴を上げます。
「閣下! おはようございます!……って、わあ! 筋肉のキレが昨日より三割増しじゃないですか!」
部屋に入ってきたエルゼが、目をキラキラさせて拍手しました。
「エルゼ……君はあの芋に一体何を混ぜた? 私は騎士団長として日々鍛錬しているが、一晩で大胸筋が語りかけてくるような経験は初めてだぞ」
「ふふ、それだけ閣下のポテンシャルが高かったんですよ! ああ、今の閣下なら、マックスと並んでも見劣りしません。むしろ『バルク』だけなら勝ってるかも!」
「比べるなと言っているだろう!……くっ、このままでは執務服が着られん。……おい、執事! 今すぐ予備の、それも二回り大きい服を持ってこい!」
その日の午後、ついに恐れていた事態が起こりました。
国境守備隊から、一通の分厚い封筒が届いたのです。差出人は――「マックス」
ギルベルトは公務を放り出して、エルゼと共にその手紙を開封しました。
「……何だ、この手紙は。文字より『絵』の方が多いぞ……?」
手紙には、文章らしきものは数行しかなく、代わりに「最新の効率的なスクワットのフォーム」や「森で捕まえた猪とのスパーリング図」が、緻密なデッサン(血痕付き)で描かれていました。
『親愛なるエルゼへ。
元気か? 筋肉は裏切っていないか?
俺は先日、上官から「素手で殴って国境の壁を壊すな」と怒られた。
それより、お前が嫁いだ公爵という男は、しっかりプロテインを飲んでいるか?
そいつがもし、ヒョロヒョロの軟弱野郎だったら、いつでも俺のところへ帰ってこい。
追伸:同封したのは、俺の背筋を型取りした人拓だ。寂しくなったらこれを壁に貼ってくれ。』
「…………」
ギルベルトの脳内で、何かが音を立てて切れました。
彼は無言で、手紙に同封されていた「背筋の人拓」を暖炉に叩き込みました。
「閣下!? マックスの背中が! 暖炉のレンガが壊れちゃうくらい硬い背中が!」
「うるさい! エルゼ、今すぐ返事を書け。内容は私が指示する。いいか、こう書くんだ!」
『貴殿の心配は無用だ。我が夫は、貴殿が素殴りで壊した壁を、指一本で破壊するほどの筋肉を、昨日マッシュポテトで手に入れた。人拓など不要、本物の大理石のような肉体がここにある』とな!」
「閣下、それ、ちょっと何言ってるか分からないです……」
「いいから書け! 宛名は『国境の猪野郎』だ!」
冷血公としての威厳はどこへやら。
ギルベルトは今や、会ったこともない「マックス」という概念に勝つため、自らプロテインシェイカーを振り、エルゼの畑にさらに高価な栄養剤を撒く決意を固めていました。
愛するつもりはないと誓ったはずの新妻を、実在の、そしてあまりに脳筋なライバルから守るため、ギルベルトは図らずも「最強の筋肉公爵」への道へと突き進んでいくのでした。
◆
数週間後、公爵邸の門前に、地響きのような足音が響き渡りました。
「エルゼー! 約束通り、休暇を取って迎えに来たぞー!」
門を突き破らんばかりの勢いで現れたのは、丸太のような腕に熊の毛皮を羽織った、太陽のように眩しい笑顔の男――マックスでした。
「マックス! 本当に来てくれたのね!」
庭で「プロポテ・二期作」の土壌改良に励んでいたエルゼが、泥だらけの手を振って駆け寄ります。しかし、その二人の間に、一閃の雷鳴のごとく一人の男が割り込みました。
「待て。不法侵入だぞ、国境の猪野郎」
そこにいたのは、サイズアップした特注の執務服をはち切れんばかりの大胸筋で着こなした、ギルベルト公爵でした。その佇まいは、もはや「冷血公」というより「鋼鉄の要塞」。
「あん? なんだお前、ひょろひょろ公爵様か? エルゼを返してもらうぜ、お前みたいな軟弱者に彼女の愛は支えきれ――……あ?」
マックスの言葉が止まりました。
彼は、ギルベルトの首筋から上腕にかけて浮き出た、あまりにも美しい「筋肉のキレ」を凝視しました。
「……ほう。その三角筋……ただのお貴族様じゃないな。何を食えばそうなる?」
「ふん、我が家の特製『プロポテ』だ。貴様が野山で齧っている泥付きの芋とは、含有タンパク質の次元が違う」
ギルベルトは無造作にシャツの袖をまくり上げ、完膚なきまでに仕上がった上腕二頭筋を誇示しました。
「なっ……なんだと……!? そのバルク、そのカット……! まさか、俺の人拓を見てビビって逃げ出すどころか、対抗してパンプアップしてきたというのか!?」
「逃げる? 私の辞書にその言葉はない。エルゼ、言え。どちらの筋肉が、公爵夫人の夫として相応しいかを!!!」
突然の「筋肉オーディション」の開催に、使用人たちは遠巻きに震えています。しかし、エルゼは二人の間に割って入ると、両方の腕を交互にペタペタと触り始めました。
「うーん、マックスのは野生の躍動感があるし、閣下のは機能美と高級感が溢れてるし……。決められません! よし、それなら『公爵邸・第一回マッスル収穫祭』で決着をつけましょう!」
「「マッスル収穫祭……!?」」
「はい! この庭に埋まっている巨大プロポテを、より多く、より速く、素手で引き抜いた方が勝ちです! 優勝者には、私が心を込めて練り上げた『特製プロテイン大福』を差し上げます!」
「……面白い。国境の壁を壊した男の実力、見せてもらおう」
「望むところだ! 公爵、お前のその『お上品な筋肉』を後悔させてやるぜ!」
冷血公と国境の英雄。
一人の女性を巡る戦いは、なぜか「どちらがより効率的に根菜を収穫できるか」という、前代未聞の収穫祭へと変貌を遂げたのでした。
◆
「よーい、始め!!」
エルゼの掛け声と共に、「公爵邸・第一回マッスル収穫祭」の火蓋が切って落とされました。
ギルベルトとマックスは、庭の隅に埋まる、岩のように育った「プロポテ」の畝に向かって一直線に駆け寄ります。
「ぬんんんんんんっ!!」
マックスは、持ち前の野性と膂力で、土を蹴散らし、腕の血管を浮き上がらせながら、巨大なプロポテの茎を両手で掴みました。
そして雄叫びを上げながら、力任せに引き抜こうとします。しかし、プロポテは地面に根を張った大岩のように微動だにしません。
「ふん、小手先だな。プロテインの力を見せてやる」
ギルベルトは冷笑しながら、マックスとは対照的に、まずプロポテの周囲の土壌を丹念に観察しました。そして、完璧に計算された角度で、手袋を外した素手で土を掘り起こし始めます。その指先は、まるで鋭い剣のようでありながら、岩をも砕く鋼鉄の硬度を秘めていました。
「ッッッ!! くそっ、硬ぇなこの芋!」
マックスが汗を飛び散らせながら呻く中、ギルベルトは静かに、しかし確実にプロポテの根元を露出させていきます。そして、最後に残った一本の太い根を、まるで千切るように「パキンッ!」と音を立てて引き抜くと――。
ズドドドドドド……ッ!
地響きと共に、巨大なプロポテが土中から姿を現しました。そのサイズは、もはやジャガイモというより漬物石。
「なっ……なんだと!? お前、まさか筋力コントロールの魔術師か!?」
マックスが驚愕に目を見開く中、ギルベルトは涼しい顔で、泥の付いたプロポテを片手で軽々と持ち上げました。
「これは基礎だ。貴様のような猪突猛進の男には理解できまい。筋力は、やみくもな暴力ではない。緻密な計画と、徹底されたプロテイン摂取、そして何より――」
ギルベルトは一瞬、エルゼの方を見ました。エルゼは目を輝かせながら、二人の戦いをオペラ鑑賞でもするかのように見守っています。
「――『愛』だ」
「愛ィィィ!?」
マックスだけでなく、遠巻きに見ていた公爵家使用人たちも、ギルベルトのまさかの言葉にざわめきました。
しかし、ギルベルトは動じません。
「私がこのプロポテに注いだのは、貴様のような野蛮な暴力ではない。エルゼが喜ぶ顔が見たいという、純粋な……ッッ、『愛』だ。それがこのバルクを生み出した……!」
「くっ……! 言葉で言いくるめようとするな! 俺は筋力で語る男だ!」
マックスは再び、別のプロポテの茎に飛びつき、今度は上半身を捻るように、まさに猪のような力技で引き抜きにかかります。
「うおおおおおおおおおおお!!」
メキメキメキ……ッ!!
土が軋み、ついにマックスも巨大なプロポテを引き抜きました。そのジャガイモは、ギルベルトのものとほぼ同サイズ。しかし、引き抜かれた土壌には、無数の根が引きちぎられた跡が痛々しく残されています。
「どうだ、公爵! 数で勝負だ! 俺は野性の力で、もっとたくさん引き抜いてやる!」
マックスが続けざまに他のプロポテに挑もうとした、その時でした。
「二人とも、ここまで!」
エルゼが笑顔でストップをかけました。
「は、速すぎる……!?」
ギルベルトもマックスも、呆然とエルゼを見つめます。
「はい! 十分です! お二人とも、とっても素敵でした! 力強いマックスと、クレバーなギルベルト様! 最高の友情が芽生えましたね!」
「「友情!?」」
二人の筋肉男の叫びが庭園に響き渡ります。
エルゼはそんな二人を尻目に、勝ち誇ったような笑顔で、バスケットいっぱいの巨大プロポテを抱え上げました。
「さて、とれたてのお芋で、今夜はポテトパーティーですね! そして優勝者への賞品は……えーと……あっ、これです!」
エルゼが取り出したのは、公爵家の厨房でエルゼが特別に練り上げた、顔サイズの巨大な大福でした。その大福からは、なぜか甘い香りに混じって、わずかにホエイプロテイン独特の乳清の匂いが漂っています。
「閣下もマックスも、お疲れ様でした! 友情の証として、半分こしてくださいね!」
そう言って、エルゼはプロテイン大福を手刀で真っ二つに引き裂きました。その正確で鋭い切れ味に、ギルベルトとマックスは、初めて畏敬の念を抱くのでした。
「「……お、お前も……『そっち側』だったのか……!?」」
こうして、公爵邸に新たな「筋肉の伝説」が誕生した夜。
ギルベルトとマックスは、エルゼの底知れないポテンシャルに畏れおののきながら、友情(?)の証として、甘くもプロテイン風味の大福を分け合うのでした。
◆
翌朝、公爵邸の門前には、マックスが旅装を整え、分厚いプロテイン入り水筒を肩に提げて立っていました。その隣では、エルゼが寂しそうに顔を伏せています。
「それじゃあ、エルゼ。またな」
マックスは、名残惜しそうにエルゼの頭をくしゃくしゃと撫でました。その手は、昨日収穫したばかりのプロポテのように、たくましく温かいものでした。
「うん……マックスも、体に気をつけてね」
「おう! 公爵様にも、プロテインを飲んで体を大切にするよう伝えとけよ! まあ、お前がそばにいるなら、俺が何も言わなくても筋肉は育つか!」
マックスはギルベルトの方を一瞥し、ニヤリと笑いました。ギルベルトは柱の陰から、不機嫌そうな顔で二人のやり取りを見守っています。
「なあ、エルゼ。……もし嫌になったら、いつでも国境に帰ってこい。俺の隣には、いつでもお前の場所があるからな」
マックスの言葉に、エルゼは顔を上げました。彼の真剣な眼差しに、一瞬、心が揺れるのが自分でも分かりました。しかし、彼女の視線は無意識のうちに、柱の陰に立つギルベルトの方へと向かいます。
その一瞬の躊躇を、マックスは見逃しませんでした。
「……そっか。まあ、元気でな!」
マックスは、エルゼの迷いに気づくと、それ以上は何も言いませんでした。ただ、寂しげな笑みを浮かべ、片手を上げるだけでした。
「俺は、エルゼが幸せならそれでいい。嫌になったらいつでも帰ってこいよ。国境の筋肉は、お前をいつでも歓迎するぜ!」
マックスはそう言い残し、背を向けました。そして、来た時と同じく地響きを立てながら、去っていくのでした。
エルゼは、遠ざかるマックスの背中が見えなくなるまで、ずっと手を振っていました。
マックスの姿が完全に消え去った後、公爵邸の庭園には静寂が戻りました。ギルベルトは柱の陰から出てくると、無言でエルゼの前に立ちました。
「……行ったな」
ギルベルトの呟きに、エルゼは小さく頷きました。
「……すまなかった」
突然の謝罪に、エルゼは驚いてギルベルトを見上げました。その声はかつての冷徹な「冷血公」のものとは思えないほど、か細く震えています。
「新婚初夜の……あの時の言葉だ。君を愛するつもりはないと、一方的に突き放したこと。あれは……私の傲慢だった。……謝って済むことではないが、謝罪させてくれ」
ギルベルトは視線を落としました。
「私は今まで、誰のことも愛するつもりがなかった。……私の周りに集まる女たちは皆、私の『公爵』という身分や、容姿、あるいは私の持つ『権力』しか見ていなかったからだ」
彼は一歩、エルゼに歩み寄ります。
「彼女たちにとって、私は自分を飾り立てるための高価なアクセサリーか、あるいは、自分の意に沿わない相手を成敗させるための都合の良い道具に過ぎなかった。……そんな人間に囲まれて過ごすうちに、私は心を閉ざすのが当たり前になっていたんだ。どうせ君も同じだろう、と……」
ギルベルトはエルゼの手を、初めて触れる宝物のように、自身の大きな手で包み込みました。
「だが、君は違った。君がこの屋敷に来てから、私に見せたのは野心でも媚びでもない。……あふれんばかりの『ジャガイモへの情熱』と、私を道具と思わない『真っ直ぐな心』だった」
「……閣下」
「私は君に救われたんだ。初めて一人の人間として、対等に……いや、ジャガイモと同じように向き合ってもらえた」
ギルベルトは少しだけ頬を染め、ふっと柔らかく微笑みました。
「……エルゼ、愛している……これからは君を私の唯一無二の妻として、心から大切にしたい。もし、君にまだ、私を受け入れてくれる気持ちがあるなら……今度こそ夫婦として共に歩んでほしい。……そして、願わくば、私の隣でまた新たな種類の『プロテイン野菜』を育ててくれないか」
「……はい」
ギルベルトの言葉に、エルゼは顔を赤らめました。いつも氷のように冷たかった公爵の、まさかの告白。
「さあ、行こうか。君の愛するジャガイモたちが、キッチンでマッシュされるのを待っているんだろう?」
ギルベルトは、エルゼの手を引いて歩き出しました。
愛するつもりはないと宣言した冷血公と、他に恋人がいると言い放った新妻。二人の奇妙な結婚生活は、今、本物の「夫婦」としての第一歩を、力強い筋肉の足取りで踏み出したのでした。
◆
数年後、ギルベルト公爵領は、近隣諸国から「鋼鉄(マッスル)の楽園」あるいは「豊穣の筋肉領」と呼ばれ、畏怖と羨望の対象となっていました。
かつて冷徹だった公爵邸の門をくぐれば、そこには驚愕の光景が広がっています。
領民たちは、エルゼが普及させた「プロポテ」を主食にしたことで、老若男女問わず驚異的なバイタリティを手に入れていました。
市場では、重さ100kgを超える巨大カボチャ(プロテイン入り)を片手で運ぶおばあちゃんや、荷馬車が泥にハマれば馬を気遣って自ら車体を持ち上げる商人の姿が日常茶飯事です。
「さあさあ、とれたてのプロポテだよ! これを食べれば、明日の開墾も軽々だ!」
活気に満ちた領民たちの笑顔は、かつての貧困や閉塞感を微塵も感じさせません。
領地の一等地には、巨大な「国立筋肉農学研究所」が設立され、エルゼが名誉所長を務めていました。
彼女は今や、ドレスの代わりに機能美を追求した作業服を身に纏い、日々新種の「マッスル・ベジタブル」の開発に勤しんでいます。
「エルゼ、あまり根を詰めすぎないでくれ。君に何かあったら、私はこの国を沈めかねん」
そこへ現れるのは、今や「溺愛公」として名高いギルベルトです。
彼の執務服は、もはや特注のさらに特注。歩くたびに、鍛え抜かれた肉体が放つ威圧感……ではなく、「愛する妻を守るための包容力」が溢れ出しています。
「まあ閣下、大げさですよ。ほら、見てください! ついに『腹筋のように割れるトマト』が完成したんです!」
「……素晴らしい。だが、それよりも今は私を見てくれないか。君のために、『マックス直伝・最新スクワット』を1000回こなしてきたところだ。パンプアップ具合はどうだろうか」
「素敵ですわ、閣下! やっぱり閣下の大腿四頭筋は世界一です!」
エルゼが瞳を輝かせてギルベルトの腕にしがみつくと、公爵はとろけるような甘い微笑みを浮かべ、彼女の額に優しくキスを落とします。かつて「君を愛するつもりはない」と言い放った冷血漢の面影は、プロテインの気泡と共に消え去っていました。
そこへ、一通の手紙が届きました。
差出人は、今や国境警備隊の名誉最高顧問となったマックス。
『親愛なるエルゼ、そして筋肉公爵殿。
そちらのプロポテのおかげで、我が隊の兵士は全員、鎧を着なくても矢を跳ね返せるようになった。
近々、休暇を取ってそっちへ行く。
今度は「デッドリフト収穫祭」で勝負だ。負けた方が、次の冬の種芋植えを全裸……いや、正装で手伝うってのはどうだ?』
手紙を読み上げたギルベルトは、鼻で笑いながらも、その瞳には好戦的な色が宿っていました。
「……ふん、猪野郎め。返事を書いてくれないか、エルゼ。『挑戦は受ける。ちなみに優勝賞品は、私の愛する妻の手作りプロテインケーキだ』とな」
「はい、閣下! 腕が鳴りますね!」
◆
エメラルドのように輝く広大なジャガイモ畑を見下ろしながら、二人は寄り添います。
かつて冷え切っていた契約結婚は、筋肉と土、そしてプロテインという名のスパイスによって、国中を熱狂させるほどの熱い愛へと昇華したのでした。
今日も公爵領には、農具を振るう力強い掛け声と幸せそうな夫婦の笑い声が、筋肉の鼓動と共に響き渡っています。
めでたしめでたし。
末長くナイスバルク!なのでした。
「冷血公」の異名を持ち、氷のような美貌を誇るギルベルト公爵は、手袋を脱ぎ捨てながら、氷点下の眼差しを新妻に向けます。
「……いいか、エルゼ。あらかじめ言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
それは、数多の令嬢を絶望させてきた残酷な宣告。
ギルベルトは、新妻がショックで顔を伏せるか、あるいは縋り付いてくるのを待っていました。
しかし。
「――あ、本当ですか!? よかったぁぁぁ……!」
エルゼは絶望するどころか、天を仰いで深く安堵の吐息をもらしたのです。
「……何?」
「いえ、実はこちらも、どう切り出そうか胃が痛かったんです。閣下のようなお忙しい方が、私のような地味な女に構う暇なんてないですよね。安心しました!」
エルゼは、絹の夜着の裾を翻してベッドへ歩み寄ると、驚くほど手慣れた動作でシーツの感触を確かめ始めました。
「おい、待て。私が言ったのは、これは白い結婚で……夫婦としての情愛は一切持たないということだ。この寝室に来るのも、今日が最初で最後――」
「願ったり叶ったりです! 実は私、国境警備隊に幼馴染の恋人がいまして。この結婚が決まった時、二人で『体は売っても心は売らない』って涙ながらに誓い合ったんです。閣下が愛してくださらないなら、私の貞操も守られます! ありがとうございます、公爵閣下!」
「……こいびと?」
ギルベルトの眉間に、かつてないほど深い皺が刻まれました。
目の前の女は、今、この国の最高権力者の一人である自分に向かって「別の男がいる」と堂々と言い放ったのか?
「ええ! とっても素敵な人なんですよ。筋肉がすごくて。あ、閣下も騎士団長ですものね、筋肉は負けてないかもしれませんけど。でも彼は、閣下みたいにそんな怖い顔で睨んだりしませんから」
「……」
「というわけで、合意は済みましたね。私は左側で寝ます。あ、この枕、最高ですね。さすが公爵家!」
エルゼはもぞもぞと掛け布団に潜り込むと、一瞬で芋虫のような形になりました。
「ちょっと待て、エルゼ。話はまだ終わって――」
「閣下、夜更かしは美容の大敵ですよ? 明日は朝からお披露目の挨拶回りがあるって執事さんが言ってました。五分で寝ないと間に合いません。あ、消灯お願いしまーす!」
「……私に命じるのか? この私に、明かりを消せと?」
「あ、届きませんか? よいしょ」
エルゼは布団からむくっと起き上がると、ギルベルトが口を挟む隙も与えず、枕元のランプを「フッ!」と勢いよく吹き消しました。
一瞬で静寂と闇に包まれる寝室。
「…………」
暗闇の中、ギルベルトは立ち尽くしました。
自分が冷酷に突き放し、彼女が泣き崩れる。そんな「予定調和」のシナリオは、開始数分でゴミ箱に放り込まれました。
「……おい。エルゼ。起きろ」
返事はありません。
聞こえてくるのは、あまりにも規則正しく、あまりにも健やかな、新妻の寝息だけ。
「スヤァ……」
戦場では冷静沈着を貫いてきたギルベルトでしたが、この夜ばかりは自分の立ち位置を見失い、月明かりの下で呆然とする羽目になったのでした。
◆
翌朝、公爵家の食堂には、真冬のような冷気と焼きたての香ばしいパンの匂いが混在していました。
ギルベルトは一睡もできていませんでした。
「冷血公」としてのプライドが、昨夜の屈辱――というか、完全なるスルーを許さなかったのです。彼は朝食の席で、エルゼが席に着くのを待ち構えていました。
「……おはよう、エルゼ。昨夜はよく眠れたようだな?」
ギルベルトは極上の冷笑を浮かべ、ナイフを硬めのベーコンに突き刺しました。しかし、現れたエルゼは、驚くほどスッキリとした顔で着席します。
「おはようございます、閣下! はい、おかげさまで。あんなに寝心地の良いベッドは初めてです。実家のベッドは藁が半分混じっていましたから、まるで雲の上で寝ているような気分でした!」
「……そうか。だが、忘れてはいないだろうな。君は私に『恋人』がいると言った。隠れて不貞を働くことは許されないぞ」
「もちろんです! 彼とは文通だけで我慢すると決めていますから。あ、このオムレツ、ふわふわですね! 閣下、一口いかがですか?」
「いらん。……それより、その男は誰だ。国境の警備隊と言っていたな」
ギルベルトは、さりげなさを装いながら尋ねました。彼の中の「軍人としての情報収集癖」が、得体の知れないライバルの存在を特定せよと命じていたのです。
「はい! マックスという名前なんです。熊を素手で倒したこともある、村の英雄なんですよ。閣下のような洗練された美形ではありませんが、笑顔が太陽みたいに眩しくて……ああ、今頃彼は、私のいない村で寂しくプロテインでも飲んでいるのかしら……」
「……プロテイン?」
「ええ、筋肉を育てる魔法の粉です。あ、閣下、そのベーコン食べないなら頂いてもいいですか? 育ち盛りなもので」
エルゼは、ギルベルトが怒りで震えさせている皿の上のベーコンを、ヒョイと自分の皿へ移しました。
「……君は、公爵夫人としての自覚が足りないのではないか? 夫である私を差し置いて、初日の朝から別の男の筋肉の話を……」
「えっ? でも閣下、『お前を愛するつもりはない』っておっしゃいましたよね? 愛していない女が誰の筋肉を褒めようが、閣下の高貴なプライドには傷がつかないはずでは……? あ、このパン、おかわりお願いします!」
エルゼは爽やかな笑顔で、控えていた執事にバスケットを差し出しました。
「…………」
ギルベルトは絶句しました。
論理的、あまりにも論理的。ぐうの音も出ない正論です。
冷酷に突き放したはずの自分が、なぜか今、浮気を疑う嫉妬深い夫のような惨めな気分に陥っている。
「閣下、顔色が悪いですよ? もしかして、夜更かしされました? 私はぐっすりだったので、今日はこれからお庭の散策に行ってきますね! 閣下はお仕事頑張ってください!」
「……待て、エルゼ。私はまだ――」
「あ、そうだ。マックスへの手紙、公爵家の公用便で出してもいいですか? ……ダメですか。公私混同ですもんね。自分で切手買います! では、失礼します!」
エルゼは嵐のように朝食を平らげると、優雅に、しかし音速で食堂を後にしました。
残されたのは、完璧に磨き上げられた銀食器と、自分の皿からベーコンが消えていることに今さら気づいた、孤独な公爵だけでした。
「……おい、執事。今すぐ国境警備隊の『マックス』という男を調べろ。それと、プロテインとやらも至急取り寄せろ」
「……畏まりました、閣下」
こうして、冷血公による「愛するつもりない妻」への、全く無自覚な空回り追跡劇が幕を開けたのでした。
◆
数日後、公爵邸の庭園には、およそ貴族の屋敷には似つかわしくない光景が広がっていました。
ギルベルトは執務室の窓から、庭の隅でせっせと土を掘り返しているエルゼを苦々しく見下ろしていました。彼女は豪華なドレスの袖をまくり上げ、なぜかスコップを振るっています。
「……何をしているんだ、彼女は」
「はっ。奥様は『マックスとの思い出のジャガイモを育てたい』とおっしゃり、庭師から一画を借り受けたようです」
執事の報告に、ギルベルトの手の中のペンがミキッと嫌な音を立てました。
「ジャガイモだと? 観賞用のバラを抜いて、根菜を植えたというのか。……いや、それよりマックスだ。例の男の調査はどうなった」
「……それが。国境警備隊に『マックス』という名の男は三十二名おりまして。そのうち、熊を倒した経験がある、あるいは自称している男は十二名にのぼります」
「……多すぎるだろう、マックス」
ギルベルトは苛立ちを隠さず、デスクに置かれたプロテインの袋を睨みつけました。昨日、わざわざ隣国の商人から高値で取り寄せた、最高級の筋肉増強剤です。
その日の午後。
ギルベルトは重い腰を上げ、庭にいるエルゼに「偶然を装って」近づきました。
手には、なぜかこれ見よがしに「プロテイン入りのシェイカー」を持っています。
「……ふん。エルゼ、精が出るな。そんな泥遊びよりも、私と茶でもどうだ?」
「あ! 閣下! 見てください、この土! 最高に栄養が詰まってますよ。マックスが言ってたんです、『土の良し悪しは、舐めた時の甘みでわかる』って!」
「土を舐めるな! 頼むから公爵夫人のプライドを持ってくれ!! ……それより、見ろ。これが例の『魔法の粉』だ。私が持っているものは、そのマックスとかいう男が飲んでいる安物とは格が違う」
ギルベルトは、まるで最新兵器を披露するかのようなドヤ顔でシェイカーを振ってみせました。
「ええっ! 閣下、それ……わざわざ買ってくださったんですか!? もしかして、私のために……?」
エルゼが瞳を輝かせて駆け寄ります。
ギルベルトは内心「ふっ、やはり私の方が財力も配慮も上だと気づいたか」と口角を上げました。
「……まあ、君がどうしてもと言うなら、分けてやらんことも――」
「ありがとうございます! これ、肥料に混ぜたらジャガイモがすっごく大きく育ちそうですね! さすが閣下、お目が高い!」
「…………は?」
「マックスも言っていました、『筋肉にいいものは野菜にもいい』って。これで冬にはマックスに立派なジャガイモを送ってあげられます! さあ、閣下、早くその粉を土に!」
「断る!! これは私が……いや、人間が飲むものだ! 誰がジャガイモの肥料にすると言った!」
ギルベルトの叫びが庭園に虚しく響き渡りました。
愛するつもりはないと宣言したはずの妻に、なぜか「ジャガイモの肥料を買ってきた夫」として認識され始めた公爵。
「閣下、そんなに怒らなくても……。あ、もしかして閣下もジャガイモ、食べたかったんですか? 案外可愛いところがあるんですね」
「……違う! 私は、君が、その……っ!」
「愛さない」と宣言してしまった手前、「私を見てくれ」とは死んでも言えないギルベルト。
そんな彼の苦悩を知ってか知らずか、エルゼは鼻歌交じりに、公爵が取り寄せた最高級プロテインを、惜しげもなくジャガイモの畑にぶちまけるのでした。
◆
数ヶ月後、公爵邸の裏庭には、もはや植物学の常識を軽々と越え、物理法則すら危うくさせる「怪異」が鎮座していました。
「……おい。これは何だ。説明しろ、エルゼ」
ギルベルトは、震える指先でその「物体」を指さしました。
そこには、一般的なジャガイモの概念を根底から覆す、岩石のごときゴツゴツとした巨大な塊が。しかも、皮の表面にはまるで鍛え上げられた大胸筋のような凹凸が浮かび上がり、土を突き破って猛々しく主張しています。
「見てください閣下! プロテイン・ポテト、通称『プロポテ』の収穫です! 閣下の高級粉末を毎日たっぷり注いだら、こんなに逞しく育ちました!」
エルゼは、丸太のように太くなったジャガイモの茎(もはや木)を愛おしそうに撫でながら、満面の笑みを浮かべています。
「逞しすぎるだろう……。ジャガイモに血管のような筋が浮き出ているのを初めて見たぞ。……というか、なぜこれほどまでに巨大化したんだ」
「マックスが言ってたんです。『愛と栄養を与えれば、芋は応えてくれる』って。ほら、見てください、この圧倒的なバルク! 今にも『サイドチェスト!』って叫び出しそうじゃないですか?」
「喋るわけがないだろう、芋だぞ!?」
ギルベルトは頭を抱えました。
この数ヶ月、彼は「愛するつもりのない妻」の気を引こうと、最高級の肥料(プロテイン)や、最新の農耕器具を買い与えてきました。すべては、彼女の口から「マックスより閣下の方が凄いです!」という言葉を引き出すため。
しかし、結果として誕生したのは、「夫の財力でマックスへの愛を具現化した究極の筋肉芋」でした。
「さあ閣下! 今夜は収穫祭です! このムキムキポテトをマッシュして、たっぷり召し上がってください。閣下もこれでお体に厚みが出ますよ!」
「断る。私は自分の妻が、別の男の面影を重ねた不気味な筋肉芋を食うほど落ちぶれてはいない」
「えーっ。あ、もしかして閣下、この芋の大きさに嫉妬してるんですか? 大丈夫ですよ、閣下の腹筋もこの芋の凹凸に負けないくらい立派ですから。自信を持ってください!」
「比較対象が芋になった時点で私の負けだろうが!!」
ギルベルトの叫びが響き渡る中、エルゼは「よいしょー!」という掛け声と共に、成人男性でも持ち上げるのが困難なサイズのジャガイモを、軽々と抱え上げました。
「とりあえず、一個はマックスに送りますね! 『閣下のおかげで、あなたのような立派な芋が育ちました』って手紙を添えて!」
「やめろ! そんな呪いのような手紙を国境に送るな!! 公爵家の名誉に関わる!!!」
追いすがるギルベルトをよそに、エルゼは意気揚々とキッチンへ向かっていきます。
冷酷無比だったはずの公爵は、今や「妻の心」ではなく「ジャガイモの規格外な成長」に翻弄される日々。
その日の晩餐。
テーブルに並んだのは、明らかに密度がおかしい「超高タンパク・マッシュポテト」でした。
一口食べたギルベルトは、あまりの弾力に「……マッシュなのに、噛み応えがステーキ以上とはどういうことだ……?」と絶望の淵で呟くのでした。
◆
翌朝、ギルベルトは鏡の前で凍り付いていました。
「……なんだ、この……この『圧』は」
昨夜、エルゼが作った「超高タンパク・マッシュポテト(プロポテ仕様)」を一口食べただけ。
それなのに、鏡に映る自分の体は、かつてないほどの輝きを放っていました。
シャツのボタンを留めようとすれば「パチンッ!」と弾け飛び、ただ腕を組んだだけで袖が悲鳴を上げます。
「閣下! おはようございます!……って、わあ! 筋肉のキレが昨日より三割増しじゃないですか!」
部屋に入ってきたエルゼが、目をキラキラさせて拍手しました。
「エルゼ……君はあの芋に一体何を混ぜた? 私は騎士団長として日々鍛錬しているが、一晩で大胸筋が語りかけてくるような経験は初めてだぞ」
「ふふ、それだけ閣下のポテンシャルが高かったんですよ! ああ、今の閣下なら、マックスと並んでも見劣りしません。むしろ『バルク』だけなら勝ってるかも!」
「比べるなと言っているだろう!……くっ、このままでは執務服が着られん。……おい、執事! 今すぐ予備の、それも二回り大きい服を持ってこい!」
その日の午後、ついに恐れていた事態が起こりました。
国境守備隊から、一通の分厚い封筒が届いたのです。差出人は――「マックス」
ギルベルトは公務を放り出して、エルゼと共にその手紙を開封しました。
「……何だ、この手紙は。文字より『絵』の方が多いぞ……?」
手紙には、文章らしきものは数行しかなく、代わりに「最新の効率的なスクワットのフォーム」や「森で捕まえた猪とのスパーリング図」が、緻密なデッサン(血痕付き)で描かれていました。
『親愛なるエルゼへ。
元気か? 筋肉は裏切っていないか?
俺は先日、上官から「素手で殴って国境の壁を壊すな」と怒られた。
それより、お前が嫁いだ公爵という男は、しっかりプロテインを飲んでいるか?
そいつがもし、ヒョロヒョロの軟弱野郎だったら、いつでも俺のところへ帰ってこい。
追伸:同封したのは、俺の背筋を型取りした人拓だ。寂しくなったらこれを壁に貼ってくれ。』
「…………」
ギルベルトの脳内で、何かが音を立てて切れました。
彼は無言で、手紙に同封されていた「背筋の人拓」を暖炉に叩き込みました。
「閣下!? マックスの背中が! 暖炉のレンガが壊れちゃうくらい硬い背中が!」
「うるさい! エルゼ、今すぐ返事を書け。内容は私が指示する。いいか、こう書くんだ!」
『貴殿の心配は無用だ。我が夫は、貴殿が素殴りで壊した壁を、指一本で破壊するほどの筋肉を、昨日マッシュポテトで手に入れた。人拓など不要、本物の大理石のような肉体がここにある』とな!」
「閣下、それ、ちょっと何言ってるか分からないです……」
「いいから書け! 宛名は『国境の猪野郎』だ!」
冷血公としての威厳はどこへやら。
ギルベルトは今や、会ったこともない「マックス」という概念に勝つため、自らプロテインシェイカーを振り、エルゼの畑にさらに高価な栄養剤を撒く決意を固めていました。
愛するつもりはないと誓ったはずの新妻を、実在の、そしてあまりに脳筋なライバルから守るため、ギルベルトは図らずも「最強の筋肉公爵」への道へと突き進んでいくのでした。
◆
数週間後、公爵邸の門前に、地響きのような足音が響き渡りました。
「エルゼー! 約束通り、休暇を取って迎えに来たぞー!」
門を突き破らんばかりの勢いで現れたのは、丸太のような腕に熊の毛皮を羽織った、太陽のように眩しい笑顔の男――マックスでした。
「マックス! 本当に来てくれたのね!」
庭で「プロポテ・二期作」の土壌改良に励んでいたエルゼが、泥だらけの手を振って駆け寄ります。しかし、その二人の間に、一閃の雷鳴のごとく一人の男が割り込みました。
「待て。不法侵入だぞ、国境の猪野郎」
そこにいたのは、サイズアップした特注の執務服をはち切れんばかりの大胸筋で着こなした、ギルベルト公爵でした。その佇まいは、もはや「冷血公」というより「鋼鉄の要塞」。
「あん? なんだお前、ひょろひょろ公爵様か? エルゼを返してもらうぜ、お前みたいな軟弱者に彼女の愛は支えきれ――……あ?」
マックスの言葉が止まりました。
彼は、ギルベルトの首筋から上腕にかけて浮き出た、あまりにも美しい「筋肉のキレ」を凝視しました。
「……ほう。その三角筋……ただのお貴族様じゃないな。何を食えばそうなる?」
「ふん、我が家の特製『プロポテ』だ。貴様が野山で齧っている泥付きの芋とは、含有タンパク質の次元が違う」
ギルベルトは無造作にシャツの袖をまくり上げ、完膚なきまでに仕上がった上腕二頭筋を誇示しました。
「なっ……なんだと……!? そのバルク、そのカット……! まさか、俺の人拓を見てビビって逃げ出すどころか、対抗してパンプアップしてきたというのか!?」
「逃げる? 私の辞書にその言葉はない。エルゼ、言え。どちらの筋肉が、公爵夫人の夫として相応しいかを!!!」
突然の「筋肉オーディション」の開催に、使用人たちは遠巻きに震えています。しかし、エルゼは二人の間に割って入ると、両方の腕を交互にペタペタと触り始めました。
「うーん、マックスのは野生の躍動感があるし、閣下のは機能美と高級感が溢れてるし……。決められません! よし、それなら『公爵邸・第一回マッスル収穫祭』で決着をつけましょう!」
「「マッスル収穫祭……!?」」
「はい! この庭に埋まっている巨大プロポテを、より多く、より速く、素手で引き抜いた方が勝ちです! 優勝者には、私が心を込めて練り上げた『特製プロテイン大福』を差し上げます!」
「……面白い。国境の壁を壊した男の実力、見せてもらおう」
「望むところだ! 公爵、お前のその『お上品な筋肉』を後悔させてやるぜ!」
冷血公と国境の英雄。
一人の女性を巡る戦いは、なぜか「どちらがより効率的に根菜を収穫できるか」という、前代未聞の収穫祭へと変貌を遂げたのでした。
◆
「よーい、始め!!」
エルゼの掛け声と共に、「公爵邸・第一回マッスル収穫祭」の火蓋が切って落とされました。
ギルベルトとマックスは、庭の隅に埋まる、岩のように育った「プロポテ」の畝に向かって一直線に駆け寄ります。
「ぬんんんんんんっ!!」
マックスは、持ち前の野性と膂力で、土を蹴散らし、腕の血管を浮き上がらせながら、巨大なプロポテの茎を両手で掴みました。
そして雄叫びを上げながら、力任せに引き抜こうとします。しかし、プロポテは地面に根を張った大岩のように微動だにしません。
「ふん、小手先だな。プロテインの力を見せてやる」
ギルベルトは冷笑しながら、マックスとは対照的に、まずプロポテの周囲の土壌を丹念に観察しました。そして、完璧に計算された角度で、手袋を外した素手で土を掘り起こし始めます。その指先は、まるで鋭い剣のようでありながら、岩をも砕く鋼鉄の硬度を秘めていました。
「ッッッ!! くそっ、硬ぇなこの芋!」
マックスが汗を飛び散らせながら呻く中、ギルベルトは静かに、しかし確実にプロポテの根元を露出させていきます。そして、最後に残った一本の太い根を、まるで千切るように「パキンッ!」と音を立てて引き抜くと――。
ズドドドドドド……ッ!
地響きと共に、巨大なプロポテが土中から姿を現しました。そのサイズは、もはやジャガイモというより漬物石。
「なっ……なんだと!? お前、まさか筋力コントロールの魔術師か!?」
マックスが驚愕に目を見開く中、ギルベルトは涼しい顔で、泥の付いたプロポテを片手で軽々と持ち上げました。
「これは基礎だ。貴様のような猪突猛進の男には理解できまい。筋力は、やみくもな暴力ではない。緻密な計画と、徹底されたプロテイン摂取、そして何より――」
ギルベルトは一瞬、エルゼの方を見ました。エルゼは目を輝かせながら、二人の戦いをオペラ鑑賞でもするかのように見守っています。
「――『愛』だ」
「愛ィィィ!?」
マックスだけでなく、遠巻きに見ていた公爵家使用人たちも、ギルベルトのまさかの言葉にざわめきました。
しかし、ギルベルトは動じません。
「私がこのプロポテに注いだのは、貴様のような野蛮な暴力ではない。エルゼが喜ぶ顔が見たいという、純粋な……ッッ、『愛』だ。それがこのバルクを生み出した……!」
「くっ……! 言葉で言いくるめようとするな! 俺は筋力で語る男だ!」
マックスは再び、別のプロポテの茎に飛びつき、今度は上半身を捻るように、まさに猪のような力技で引き抜きにかかります。
「うおおおおおおおおおおお!!」
メキメキメキ……ッ!!
土が軋み、ついにマックスも巨大なプロポテを引き抜きました。そのジャガイモは、ギルベルトのものとほぼ同サイズ。しかし、引き抜かれた土壌には、無数の根が引きちぎられた跡が痛々しく残されています。
「どうだ、公爵! 数で勝負だ! 俺は野性の力で、もっとたくさん引き抜いてやる!」
マックスが続けざまに他のプロポテに挑もうとした、その時でした。
「二人とも、ここまで!」
エルゼが笑顔でストップをかけました。
「は、速すぎる……!?」
ギルベルトもマックスも、呆然とエルゼを見つめます。
「はい! 十分です! お二人とも、とっても素敵でした! 力強いマックスと、クレバーなギルベルト様! 最高の友情が芽生えましたね!」
「「友情!?」」
二人の筋肉男の叫びが庭園に響き渡ります。
エルゼはそんな二人を尻目に、勝ち誇ったような笑顔で、バスケットいっぱいの巨大プロポテを抱え上げました。
「さて、とれたてのお芋で、今夜はポテトパーティーですね! そして優勝者への賞品は……えーと……あっ、これです!」
エルゼが取り出したのは、公爵家の厨房でエルゼが特別に練り上げた、顔サイズの巨大な大福でした。その大福からは、なぜか甘い香りに混じって、わずかにホエイプロテイン独特の乳清の匂いが漂っています。
「閣下もマックスも、お疲れ様でした! 友情の証として、半分こしてくださいね!」
そう言って、エルゼはプロテイン大福を手刀で真っ二つに引き裂きました。その正確で鋭い切れ味に、ギルベルトとマックスは、初めて畏敬の念を抱くのでした。
「「……お、お前も……『そっち側』だったのか……!?」」
こうして、公爵邸に新たな「筋肉の伝説」が誕生した夜。
ギルベルトとマックスは、エルゼの底知れないポテンシャルに畏れおののきながら、友情(?)の証として、甘くもプロテイン風味の大福を分け合うのでした。
◆
翌朝、公爵邸の門前には、マックスが旅装を整え、分厚いプロテイン入り水筒を肩に提げて立っていました。その隣では、エルゼが寂しそうに顔を伏せています。
「それじゃあ、エルゼ。またな」
マックスは、名残惜しそうにエルゼの頭をくしゃくしゃと撫でました。その手は、昨日収穫したばかりのプロポテのように、たくましく温かいものでした。
「うん……マックスも、体に気をつけてね」
「おう! 公爵様にも、プロテインを飲んで体を大切にするよう伝えとけよ! まあ、お前がそばにいるなら、俺が何も言わなくても筋肉は育つか!」
マックスはギルベルトの方を一瞥し、ニヤリと笑いました。ギルベルトは柱の陰から、不機嫌そうな顔で二人のやり取りを見守っています。
「なあ、エルゼ。……もし嫌になったら、いつでも国境に帰ってこい。俺の隣には、いつでもお前の場所があるからな」
マックスの言葉に、エルゼは顔を上げました。彼の真剣な眼差しに、一瞬、心が揺れるのが自分でも分かりました。しかし、彼女の視線は無意識のうちに、柱の陰に立つギルベルトの方へと向かいます。
その一瞬の躊躇を、マックスは見逃しませんでした。
「……そっか。まあ、元気でな!」
マックスは、エルゼの迷いに気づくと、それ以上は何も言いませんでした。ただ、寂しげな笑みを浮かべ、片手を上げるだけでした。
「俺は、エルゼが幸せならそれでいい。嫌になったらいつでも帰ってこいよ。国境の筋肉は、お前をいつでも歓迎するぜ!」
マックスはそう言い残し、背を向けました。そして、来た時と同じく地響きを立てながら、去っていくのでした。
エルゼは、遠ざかるマックスの背中が見えなくなるまで、ずっと手を振っていました。
マックスの姿が完全に消え去った後、公爵邸の庭園には静寂が戻りました。ギルベルトは柱の陰から出てくると、無言でエルゼの前に立ちました。
「……行ったな」
ギルベルトの呟きに、エルゼは小さく頷きました。
「……すまなかった」
突然の謝罪に、エルゼは驚いてギルベルトを見上げました。その声はかつての冷徹な「冷血公」のものとは思えないほど、か細く震えています。
「新婚初夜の……あの時の言葉だ。君を愛するつもりはないと、一方的に突き放したこと。あれは……私の傲慢だった。……謝って済むことではないが、謝罪させてくれ」
ギルベルトは視線を落としました。
「私は今まで、誰のことも愛するつもりがなかった。……私の周りに集まる女たちは皆、私の『公爵』という身分や、容姿、あるいは私の持つ『権力』しか見ていなかったからだ」
彼は一歩、エルゼに歩み寄ります。
「彼女たちにとって、私は自分を飾り立てるための高価なアクセサリーか、あるいは、自分の意に沿わない相手を成敗させるための都合の良い道具に過ぎなかった。……そんな人間に囲まれて過ごすうちに、私は心を閉ざすのが当たり前になっていたんだ。どうせ君も同じだろう、と……」
ギルベルトはエルゼの手を、初めて触れる宝物のように、自身の大きな手で包み込みました。
「だが、君は違った。君がこの屋敷に来てから、私に見せたのは野心でも媚びでもない。……あふれんばかりの『ジャガイモへの情熱』と、私を道具と思わない『真っ直ぐな心』だった」
「……閣下」
「私は君に救われたんだ。初めて一人の人間として、対等に……いや、ジャガイモと同じように向き合ってもらえた」
ギルベルトは少しだけ頬を染め、ふっと柔らかく微笑みました。
「……エルゼ、愛している……これからは君を私の唯一無二の妻として、心から大切にしたい。もし、君にまだ、私を受け入れてくれる気持ちがあるなら……今度こそ夫婦として共に歩んでほしい。……そして、願わくば、私の隣でまた新たな種類の『プロテイン野菜』を育ててくれないか」
「……はい」
ギルベルトの言葉に、エルゼは顔を赤らめました。いつも氷のように冷たかった公爵の、まさかの告白。
「さあ、行こうか。君の愛するジャガイモたちが、キッチンでマッシュされるのを待っているんだろう?」
ギルベルトは、エルゼの手を引いて歩き出しました。
愛するつもりはないと宣言した冷血公と、他に恋人がいると言い放った新妻。二人の奇妙な結婚生活は、今、本物の「夫婦」としての第一歩を、力強い筋肉の足取りで踏み出したのでした。
◆
数年後、ギルベルト公爵領は、近隣諸国から「鋼鉄(マッスル)の楽園」あるいは「豊穣の筋肉領」と呼ばれ、畏怖と羨望の対象となっていました。
かつて冷徹だった公爵邸の門をくぐれば、そこには驚愕の光景が広がっています。
領民たちは、エルゼが普及させた「プロポテ」を主食にしたことで、老若男女問わず驚異的なバイタリティを手に入れていました。
市場では、重さ100kgを超える巨大カボチャ(プロテイン入り)を片手で運ぶおばあちゃんや、荷馬車が泥にハマれば馬を気遣って自ら車体を持ち上げる商人の姿が日常茶飯事です。
「さあさあ、とれたてのプロポテだよ! これを食べれば、明日の開墾も軽々だ!」
活気に満ちた領民たちの笑顔は、かつての貧困や閉塞感を微塵も感じさせません。
領地の一等地には、巨大な「国立筋肉農学研究所」が設立され、エルゼが名誉所長を務めていました。
彼女は今や、ドレスの代わりに機能美を追求した作業服を身に纏い、日々新種の「マッスル・ベジタブル」の開発に勤しんでいます。
「エルゼ、あまり根を詰めすぎないでくれ。君に何かあったら、私はこの国を沈めかねん」
そこへ現れるのは、今や「溺愛公」として名高いギルベルトです。
彼の執務服は、もはや特注のさらに特注。歩くたびに、鍛え抜かれた肉体が放つ威圧感……ではなく、「愛する妻を守るための包容力」が溢れ出しています。
「まあ閣下、大げさですよ。ほら、見てください! ついに『腹筋のように割れるトマト』が完成したんです!」
「……素晴らしい。だが、それよりも今は私を見てくれないか。君のために、『マックス直伝・最新スクワット』を1000回こなしてきたところだ。パンプアップ具合はどうだろうか」
「素敵ですわ、閣下! やっぱり閣下の大腿四頭筋は世界一です!」
エルゼが瞳を輝かせてギルベルトの腕にしがみつくと、公爵はとろけるような甘い微笑みを浮かべ、彼女の額に優しくキスを落とします。かつて「君を愛するつもりはない」と言い放った冷血漢の面影は、プロテインの気泡と共に消え去っていました。
そこへ、一通の手紙が届きました。
差出人は、今や国境警備隊の名誉最高顧問となったマックス。
『親愛なるエルゼ、そして筋肉公爵殿。
そちらのプロポテのおかげで、我が隊の兵士は全員、鎧を着なくても矢を跳ね返せるようになった。
近々、休暇を取ってそっちへ行く。
今度は「デッドリフト収穫祭」で勝負だ。負けた方が、次の冬の種芋植えを全裸……いや、正装で手伝うってのはどうだ?』
手紙を読み上げたギルベルトは、鼻で笑いながらも、その瞳には好戦的な色が宿っていました。
「……ふん、猪野郎め。返事を書いてくれないか、エルゼ。『挑戦は受ける。ちなみに優勝賞品は、私の愛する妻の手作りプロテインケーキだ』とな」
「はい、閣下! 腕が鳴りますね!」
◆
エメラルドのように輝く広大なジャガイモ畑を見下ろしながら、二人は寄り添います。
かつて冷え切っていた契約結婚は、筋肉と土、そしてプロテインという名のスパイスによって、国中を熱狂させるほどの熱い愛へと昇華したのでした。
今日も公爵領には、農具を振るう力強い掛け声と幸せそうな夫婦の笑い声が、筋肉の鼓動と共に響き渡っています。
めでたしめでたし。
末長くナイスバルク!なのでした。
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