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執事の秘策──『花も恋も、カップの中で開く』
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──自惚れほど香りが強く、かつ後味の悪いものはない。
それがまだ、紅茶の話であれば結構なのだが、今この空間を満たしているのは残念ながらサンゼールが用意した薔薇の香りでも、ベルフォード侯爵夫人が纏う上品な香水でもなく、伯爵の満足げな表情と少年執事の耳障りな賞賛の声だった。
「やはりサンゼール先輩は格が違いますね!あんな田舎執事とは比べ物になりませんよ!」
その甲高く響く声に、男爵様が眉根を寄せ、小さくため息を漏らすのが見えた。
「……はあ、クロード、怒ってないといいけど……」
ご安心ください、男爵様。
私は決して怒りに心を委ねるほど感情的な執事ではございません。心中に抱くのはあくまで静かな闘志──私が信じるもてなしの流儀に従うだけでございます。
──それに、他者の評価というものは、声高に叫ぶものではなく、静かに湯を注ぐようにして届けるものなのですから。
私はただ、静かに一歩を踏み出す。
絨毯の上を滑るように進み、侯爵夫人の前で、深く礼をする。
「お久しゅうございます、侯爵夫人」
その声に、夫人の眉が一度だけ跳ね上がった。そして、すぐに瞳の奥に笑みが灯る。
「まぁ……あなた、あの時の……!なるほど、どうりで。ふふ、時の流れも悪くないものですね」
侯爵夫人はそう言って、扇子を口元に当てながら上品に微笑んだ。
「覚えていてくださり、光栄に存じます」
“あの時”がいつかは、周りにあえて明かす必要もない。思い出とはしばしば、明言されぬままのほうが余韻を残すものだから。
私は銀の盆に載せた茶器をそっと卓上に置く。そこには東洋の技が凝縮された、特別な茶が控えている。熱に強い特注のガラス製ポットと白陶磁器のカップ。侘びでも寂びでもないが、しかし確かな静謐が宿っていた。
「本日は、“花と恋”という主題にちなみ、東の國──中國より取り寄せました特別なお茶をご用意いたしました」
言葉と共に、私は茶器に湯を注ぐ。
ぐつ、と音を立てて熱が満ちると、その中で乾いた茶葉の塊が、まるで約束のときを待っていたかのように、静かに、そして確実にその姿をほどいていく。
ふわり、と湯の中に咲いたのは、まるで封じられていた時間そのものだった。
一輪の花が、湯の中でそっと開く。
ゆっくりと、音もなく。しかし確かな意志をもって、ポットの中で広がるその姿に、卓上の空気が一変するのがわかった。
「……まあ!」
侯爵夫人の口から、感嘆と共に小さな声がこぼれる。
「こちら、工芸茶と呼ばれるものでございます。“花月好圓”──中國において、花が美しく月が満ちているように、恋愛や結婚の幸せな象徴とされております」
咲いた花は純白の茉莉花と金色のマリーゴールド。周囲に白茶の優雅な香気が立ち上り、卓上の世界を東洋の庭に変えていく。
夫人の指先が、ふわりと器を撫でるようにして持ち上げた。
「これは……紅茶とは違う、異国の香りね」
「はい。香りだけでなく、口に含んだ際の味の広がり、余韻までお楽しみいただけます」
私はにこやかに応じながら、あくまで自然な手つきで二煎目の用意を始める。
「……香るというより、口の中に咲くという言葉のほうがしっくりくるわ」
侯爵夫人のその一言が、何よりも嬉しかった。
「そう仰っていただけるとは、光栄にございます。恋とは、いつでも一口目が最も華やかで、甘やかで、どこか残酷なほどに美しい。ですが、真に深まるのは──二口目からでございます」
侯爵夫人の唇が、わずかにほころぶ。
確かな手応え。その一瞬で、この勝負の空気が変わったのを私は確かに感じた。
サンゼールのもてなしが薔薇と蝶の華やかさならば、私の一杯は静かに咲く蓮のごとく。
──まずは、これで第一幕。
ここから先は、恋と花を添えた劇場の第二幕。用意したのは、甘く咲き誇る罠の数々。
茶が花開くならば、私のもてなしもこれから花咲くのだ。
それがまだ、紅茶の話であれば結構なのだが、今この空間を満たしているのは残念ながらサンゼールが用意した薔薇の香りでも、ベルフォード侯爵夫人が纏う上品な香水でもなく、伯爵の満足げな表情と少年執事の耳障りな賞賛の声だった。
「やはりサンゼール先輩は格が違いますね!あんな田舎執事とは比べ物になりませんよ!」
その甲高く響く声に、男爵様が眉根を寄せ、小さくため息を漏らすのが見えた。
「……はあ、クロード、怒ってないといいけど……」
ご安心ください、男爵様。
私は決して怒りに心を委ねるほど感情的な執事ではございません。心中に抱くのはあくまで静かな闘志──私が信じるもてなしの流儀に従うだけでございます。
──それに、他者の評価というものは、声高に叫ぶものではなく、静かに湯を注ぐようにして届けるものなのですから。
私はただ、静かに一歩を踏み出す。
絨毯の上を滑るように進み、侯爵夫人の前で、深く礼をする。
「お久しゅうございます、侯爵夫人」
その声に、夫人の眉が一度だけ跳ね上がった。そして、すぐに瞳の奥に笑みが灯る。
「まぁ……あなた、あの時の……!なるほど、どうりで。ふふ、時の流れも悪くないものですね」
侯爵夫人はそう言って、扇子を口元に当てながら上品に微笑んだ。
「覚えていてくださり、光栄に存じます」
“あの時”がいつかは、周りにあえて明かす必要もない。思い出とはしばしば、明言されぬままのほうが余韻を残すものだから。
私は銀の盆に載せた茶器をそっと卓上に置く。そこには東洋の技が凝縮された、特別な茶が控えている。熱に強い特注のガラス製ポットと白陶磁器のカップ。侘びでも寂びでもないが、しかし確かな静謐が宿っていた。
「本日は、“花と恋”という主題にちなみ、東の國──中國より取り寄せました特別なお茶をご用意いたしました」
言葉と共に、私は茶器に湯を注ぐ。
ぐつ、と音を立てて熱が満ちると、その中で乾いた茶葉の塊が、まるで約束のときを待っていたかのように、静かに、そして確実にその姿をほどいていく。
ふわり、と湯の中に咲いたのは、まるで封じられていた時間そのものだった。
一輪の花が、湯の中でそっと開く。
ゆっくりと、音もなく。しかし確かな意志をもって、ポットの中で広がるその姿に、卓上の空気が一変するのがわかった。
「……まあ!」
侯爵夫人の口から、感嘆と共に小さな声がこぼれる。
「こちら、工芸茶と呼ばれるものでございます。“花月好圓”──中國において、花が美しく月が満ちているように、恋愛や結婚の幸せな象徴とされております」
咲いた花は純白の茉莉花と金色のマリーゴールド。周囲に白茶の優雅な香気が立ち上り、卓上の世界を東洋の庭に変えていく。
夫人の指先が、ふわりと器を撫でるようにして持ち上げた。
「これは……紅茶とは違う、異国の香りね」
「はい。香りだけでなく、口に含んだ際の味の広がり、余韻までお楽しみいただけます」
私はにこやかに応じながら、あくまで自然な手つきで二煎目の用意を始める。
「……香るというより、口の中に咲くという言葉のほうがしっくりくるわ」
侯爵夫人のその一言が、何よりも嬉しかった。
「そう仰っていただけるとは、光栄にございます。恋とは、いつでも一口目が最も華やかで、甘やかで、どこか残酷なほどに美しい。ですが、真に深まるのは──二口目からでございます」
侯爵夫人の唇が、わずかにほころぶ。
確かな手応え。その一瞬で、この勝負の空気が変わったのを私は確かに感じた。
サンゼールのもてなしが薔薇と蝶の華やかさならば、私の一杯は静かに咲く蓮のごとく。
──まずは、これで第一幕。
ここから先は、恋と花を添えた劇場の第二幕。用意したのは、甘く咲き誇る罠の数々。
茶が花開くならば、私のもてなしもこれから花咲くのだ。
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