そんなの、知らない 【夫人叢書①】

一葉知秋の比おい

x75

『彼の最期の舞台よ。ドレスはわたくしが用意するわ。それまでに少しキチンとお食事することね』
その言葉を最後に夫人は部屋を後にした。
侑梨は未だに立ち尽くしている。
頭の整理が追いつかない。
櫂と夫人の取引。
ジーノと夫人の関係解消。
父の死の真相。
母とジーノの関係。
櫂と母の関係。
私と夫人の取引。
どれもが混ぜ合わさってぐちゃぐちゃだ。　
知りたかったことを知ったのに、知らなかった時と同じで何をしたらいいのか分からない。
知れば前に進めると思っていたのに、後にも先にも動けない。
クリスマスパーティまで2週間を切っている。
このままパーティまで何もしなければ、侑梨は櫂と再び恋人の関係を続けられる。
櫂もライバルのジーノが失脚するのは喜ばしいだろう。
……けどジーノは……家族との繋がりは嘘に塗れ、その為に必要だった会社も衰勢していくだろう。夫人に見放され、家族に見放され、神様にも見放される彼に、何が残るのだろう？
今までの彼の行いの結果だ。
侑梨を何度困らせたか。
夫人の言いなりになり、母を父を苦しめたのも彼だ。
それなのに……

〈もし僕が夫人と手を切るって──マウロ家も捨てると言えば、君は僕を愛してくれる？〉

彼の言葉を思い出す。
嘘か本当か分からない。
信用できない言葉。
──そう思えればどんなに楽だろうに、
あの言葉が侑梨には真実に聞こえてしまう。
自惚れうぬぼならいい。

〈貴方はジーノへのプレゼントよ〉
〈貴方が抱かれれば陰ながらの支援をするわ〉

夫人の声が囁く。

肘を抱え座り込む。
──侑梨の選択は4つだ。

一つは、櫂と清い関係のままクリスマスイヴまで過ごす。クリスマス後に櫂は夫人の支援を受けるという選択。

二つ目は、侑梨がジーノと一線を超え、更にマウロ家との縁を切るように説得する。夫人の櫂への支援も変わらないし、ジーノは陰ながら支えてもらえる。

三つ目は、櫂と別れてジーノを選ぶという選択。

四っ目…は…櫂とジーノどちらとも別れるという選択。

知りたかった真実を知った今、侑梨の長年の疑問は解決した。けれど別の糸に絡まれ囚われている。
……それなら侑梨を誰も知らない場所に踏み出すのが最善だと思った。
──父は最期まで仕事と母が1番だった。
──母は最期までジーノが1番だった。
──叔母はきっと母の娘の侑梨への嫌悪が隠せなかった。
誰も侑梨を省みることなく去っていった。
寂しさと虚しさが一層強くなる。
父が死んだ真相をただ知りたいと思っていた。
ジーノが憎いとかそんな感情ではなく、
ただ知りたかった。
なぜ父は侑梨を置いて死んだのかと。
その為にジーノに会って話を聞きたかった。
そう思っていた。
けれど、そうではなかった。
心の奥でずっと『ジーノの所為せい』だと彼を呪うことで侑梨の心は平衡を保っていた。
蓋は開かれ暴かれたのは両親の心に侑梨はいなかったということだ。

──愛され方が分からない。

櫂に距離を置かれたらどうすればいいのか分からない。
ジーノに愛を乞われても愛し方も分からない。

『貴方、歪んでる』

夫人の言葉を思い出す。
なんだか今更、納得した。

……役に立てば侑梨を愛してくれるのだろうか？
無価値の侑梨に愛を囁かれても不安にしかならない。
櫂は私から離れることで、夫人から利益を得る。
そしてひと月とは言え、それを選択した。
侑梨がいたことで、櫂は夫人から利益を得れたと思うと傷つくより安堵が強い。
けれどジーノは侑梨がいたことで全てを奪われようとしている。
そして、それを止めれるのは侑梨だけだ。
侑梨がジーノに抱かれ、彼を説得できれば彼の傷を最小限にしてあげられる。
こんな侑梨でも誰かの役に立てると思いたかった。

──櫂の取引を成功させたい。
クリスマス迄に櫂と別れたら取引に支障があるかも知れない……だからクリスマスが終われば櫂と別れよう。
父を尊敬し、亡くなるまで支えてくれた人。
母の欲望に巻き込まれ、絶望に落とされた人。
そして何も知らない侑梨を守ってくれていた人。
──侑梨から解放してあげたい。
幸せになって欲しいと切に願う。

──ジーノを助けたい。
クリスマス迄にジーノに抱かれ説得出来れば、彼にも最低限の夫人の支援が受けられる。
長年彼を心の奥で憎むことで孤独に耐えれたのかもしれない。母との関係をもっと前に知っていれば彼を憎むこともできたけれど、色々な糸が絡まった今、侑梨はジーノを憎めない。これも夫人の魂胆だろうか？
……愛され方は分からないけれど、侑梨の愛を望んでくれた人を侑梨の所為で不幸にしたくない。

すべてが終われば、二人の前から消えよう。
ジーノと関係を持ったのに、櫂の側にはいられない。
母のように周りを不幸にする前に消えよう。
価値のある侑梨だけを覚えていてほしい。
本当は無価値な侑梨に価値を与えてくれた夫人に
皮肉にも侑梨は感謝した。