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第三章 もういちどあなたと

17.

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「だれかいるの」

 ロビンの声が暗がりに響いた。
 タイラーは体をこわばせる。

 あたたかな唇の感触が淡雪のように溶けて消えた。

(しまった!)

 咄嗟にロビンに見られたくないという打算が働いたタイラーは反射的に仰け反っていた。

 カチッっというスイッチ音が響く。ぱちぱちと光源が点滅し、廊下が明るくなる。
 明滅する際に、スカイブルーの髪がないで、目の前を横切った。

「私よ、ロビン。
 タイラーに電球を変えてもらっていたのよ」

 なにもなかったといわんばかりの明るい声音が響く。
 打算で身をひいておきながら、暗がりのキスをないものとされたことに落胆し、哀情と憤懣ふんまんがわきあがった。自意識の身勝手さにタイラーは茫然とする。

 ロビンはタイラーをじっと見ていた。
 後ろめたさから、すべてを見ていたわよと語り掛ける視線ように感じてしまう。

(どこまで見られていたんだ)

 暗いなかであり、人が重なっているだけにしか見えなかったはずだと心のうちで自身に言い聞かせても、タイラーの心臓は早鐘を打つばかりだ。

 ソニアが振り向く。

「取り付けてくれて、ありがとう」
「いや……、たいしたことじゃないよ」

 年甲斐もないという羞恥心と、ここがシーザーの別荘でありソニアは使用人であることに怖気づいたタイラーは逃げるようにその場を去った。



 白いソファが置かれた部屋に向かう。そのソファに身を投げて、タイラーは一人頭を抱えた。

 あろうことかシーザーが雇っている女の子にキスをした。
 電球を変えた直後、色味を失った空間で、ソニアがアンリに見えて、魔が差した。
 シーザーの耳に入ったら、彼との間に築いてきた信頼を損ねるかもしれない。

 女の子に泣きつかれて、精査もせず、面倒くさいと飛ばす上役だって世の中にはいる。女の復讐は怖い。
 軽率だった。
 わきまえろとタイラーは自分に強く言い聞かせる。過ちを上塗りすることはできないと誓いたかった。

 座るタイラーは肘を膝にのせ、両手を後頭部に回す。頭を抱えうつむいた。

(言い訳をしているだけだな)

 力なく、認めた。

 唇に残る感触をたどる。
 キスは、柔らかかった。
 ソニアは、抵抗しなかった。

 日常の、些細な一場面で、誰かにキスをしたのは何年ぶりだろう。

 タイラーは両手を合わせ、その手を口元へ寄せた。

 シーザーには謝罪すればいい。仕事だって、反故になれば、また新しい顧客を探せばいい。それはなんとでもなり、取り返せるものだと考えた。
 過ちとは、シーザーに対しての感情であって、ソニアに対する気持ちとは違う。

「俺は、ソニアが好きだ」

 独り言ち、タイラーは認めた。
 自分と重ねたくなる一面が目に留まり、風貌がアンリと重なれば彼女から目が離せなくなった。

「昔の恋人に似ているなんて、口が裂けても言えないな……」

 それを言ってはソニアを傷つける。自分を誰かに重ね見ていると知って喜ぶ女はいないはずだ。
 キスしたことを魔が差したと笑い飛して、彼女を落胆させても、その誤魔化しの諸刃は瞬時に己に跳ね返ってくる。
 
(子どもじゃないんだ、それはないだろう)

 愚かな対応を想像し、口角があがる。

(ソニア自身を見て、ソニア自身を愛そう。胸を張って、そうすれば……。罪悪感や後ろめたさを抱えた羞恥心だって消えてくれるはずだ)

 受容すれば、戸惑いも静まる。
 アンリを失って、ぽっかり空いた隙間を埋めるものが新しい恋。それはそれで、望ましいことではないか。

 誰かを好きだと思えるほどにアンリを遠く感じるようにもなっていたとも自覚する。

(悲しいな。悲しいが、これが生きているということなのかもしれない)

 時間とともに溶けていく感情もあるのだろう。
 
 背後で小さな音がして、「タイラー、いる?」とソニアの声が投げかけられる。
 タイラーはがばっと身を起こし、振り向いた。

「どうしたの」

 扉を開けて入ってくきた彼女は、タイラーの驚きっぷりに、目を丸くする。
 
 ソニアのことを考えていた時に本人があらわれると思わなかった。
 口角をあげたタイラーは、笑う素振りを見せる。笑顔は少し引きつっていた。

「いや、急に声をかけられて、驚いただけだよ」
「お邪魔だった?」
「そんなことはない」

 タイラーの声がかぶさり、ソニアが止まる。

 沈黙の帳がおりる。

 不思議そうに眺めるソニアに、タイラーの胸はチクリと痛む。何も知らない、分かっていない、そんな生娘をたぶらかそうとしている罪悪感が湧いてくる。

 その間、沈黙に耐えられず浮かんた、おどろかせてごめん、という言い訳を心のうちでもみ消した。

 一息ついてから、平静を装い話しかける。

「今日は、街を案内してくれてありがとう」
「坂ばかりで、疲れたでしょ」
「まあね。あれは軽い登山のようだね」

 道を登る疲労感が心身によみがえり、眉間にしわを寄せると、強張る肩に手を当て揉んだ。話を変えることができて、ほっとしていた。

 ソニアが静かに入室する。手におぼんを持っていながら、器用に扉を閉めた。

「それはなに」
「必要だろうから、ロビンが持っていってあげたらって言うの」

 ソファを回り込むように近づいてきたソニアが、ローテーブルの横に座る。おぼんにのせて運んできた物を床に置いた。

「ロビンが、タイラーが困っているんじゃないかって言うのよ」

 タイラーはピンとこなかった。その表情を読み取ってか、部屋の片隅にある酒瓶が並んだバーのような家具をソニアが指さす。

「お酒を飲んでいいのかなって困ってるかもしれないと言うの」
「ああ、あれね」

 タイラーは、すっかり忘れていた。
 ソニアは床に置いた物を、丁寧にローテーブルに並べ始める。

「飲みたいものがあれば飲んでいいのよ。旦那様からも事前に伝えておいてと言われていたの」
「シーザーから? 前から言われていたということは……、ソニアは伝え忘れていたのか」

 ローテーブルに運んできた物を並べていたソニアの手が止まる。片手を頬にあて、ため息をつく。

「本当、それについては、ごめんなさい」

 そのしぐさで物憂げに謝る姿が妙に色っぽくて、タイラーは息をのむ。

「この部屋を案内した時に伝えるべきなのに、失念してしまって……」

 仕事ができるアンリなら、そんな些細な間違いをしないとタイラーは確信する。忘れそうになるなら、メモするなり事前に対処する。
 アンリとソニア。似ているようで、しっかりと別人だ。

 安堵するタイラーは、年端もいかない少女を無性にかわいらしく感じた。

 再びソニアの手が動き、持ってきた物をローテーブルに並べきった。
 氷が八割ほど入ったアイスペール。そこにはマドラーもささっている。大ぶりのピッチャーにはなみなみと水が注がれており、メジャーカップに、小ぶりの空のピッチャーも用意されていた。

「お酒とグラスは、あっちにあるの。見てみない」

 ローテブルに手をかけて立ち上がるソニアに合わせてタイラーも動く。

 コーナースペースに設置された小ぶりなバーを思わせる家具には、グラスと酒瓶が並べられていた。家具前面にあるそなえつけの台はスペースも狭く、くつろいで飲むには適さない。デザイン重視の家具であり、使用感はなく、飾りのように置かれているだけのようだった。

「あまり使っていないね」

 タイラーは家具に触れ、ソニアは酒瓶に手を伸ばす。

「もともと飾り家具なの。この部屋でお酒を飲む想定をしておいていたのでしょうけど、私もロビンも飲まないし、旦那様もこの部屋を利用しないので、今まではなにも置いてなかったのよ」

「ソニアは飲まないんだね」

 少しがっかりしながらタイラーはソニアの手元にある酒瓶のラベルを覗き込む。

「じゃあ、飲み終わったら、使ったグラス類などキッチンに運んでおいたらいいのかい」
「そこまでしなくてもいいわよ。テーブルにグラスも酒瓶もそのままに残して、寝室に戻ってかまわないわ。明日、私が片づけるから」
「それは悪いだろう」

 笑って言ったら、真顔のソニアがのぞき返してきた。

「さすがにお客様にそこまでしてもらうわけにはいかないもの。楽しんだら、休んでもらわないとね」


『お客様』

 ソニアの言葉にタイラーは凍りつく。そのセリフは、浮かれかけた心情に釘をさした。
 やはり、シーザーの信頼に傷がついてはならないと拳を握る。

(これ以上近づこうとするのは控えなければいけないのか……)

「どうしたの」
「いや、なんでもない」

 曖昧に答える。目をそらしたタイラーは並んだ酒瓶に手を伸ばした。

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