【本編完結】海辺の街のリバイアサン ~わたせなかったプロポーズリングの行方~

礼(ゆき)

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第五章 海の泡

34.

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 定期船をおりたタイラーは、海辺の街を見上げた。
 古の貴族がこの地を気に入り、開発した街並みの均整に見惚れる。

 タイラーは思索にふける。
 格調高い美意識が覆い隠す傷痕しょうこんは想像するよりも深いものなのかもしれない。

 この美しさの影で、元々住んでいた人々は島へと追いやられた。当時の人々が必死に隠そうとしたものは、若返りや治癒という得難い利益ではなく、娘という家族そのものではなかったのではないか。愛する者を奪われる人々が当時何を思って隠匿したかなど、文献に残ることはない。

 海へ身を投げた少女たちに思いを馳せれば、史実に残らない歴史は思う以上に凄惨なものだったのかもしれない。過去は語れる者しか語らない。裏に横たわる不都合な事実は、声なく消え去ってゆく。

 数種の竜が声なく狩りつくされ滅びたように、少女たちもまた消え去っていく。

 人間の歴史とはそんなものかもしれない。
 平和な世になれば、何事もなかったと生きる。

 海へ投じた少女たちの存在は歴史の渦に取り込まれ、泡のように消えていく。その泡へ差し伸べる手がなかったように、これからもないだろう。
 絶えた命の数を受け止められるほど人は強くも優しくもない。声なき声に傾ける耳を持つほど賢くもない。大仰で声高な声のみこだまし続ける。

 タイラーは坂をのぼる。

 途中の広場では、屋台のような店が肩寄せ合って並ぶ。朝と比べ昼の店数は少ない。
 買い物袋を提げて、子供の手を引く母親。登り慣れた坂を悠々と駆け上がる老人。海へ漁へ出る男たち。店頭には、果物や山の幸も売られている。魚も並ぶ。子どもが駆けて行けば、日向ぼっこする者に、本を読む者もいる。

 貴族の栄華は廃れ、王家は象徴と化した。市民のみ残り、その営みだけ細く長く続いている。
 
 広場を抜け細い路地へ入る。グネグネとした道を息を切らしながら、大股でのぼった。ソニアと名乗ったアンリに誘われた横道が見えた。

 タイラーは立ち止まる。少女がいないと理解しても、思い出にそそられる。アンリはそこにはいないと強く噛みしめ、たわむれた広場に通じる道を振り切って踏み出した。

 列車の車庫が見え、駅までたどり着く。初日、彼女に案内された道を進めば、シーザーの別荘へとたどり着く。肩で切る息を徐々に落ち着かせた。

 玄関のベルへ指先を近づけ、ためらう。
 一緒に出掛けたソニアがいない。その状況説明が必要だ。合わせて、ソニアがアンリであることも明かすことになる。その上で、ロビンを海上へ連れて行かなくてはいけない。

 シーザーは妹を慈しんでいる。体の弱い彼女を連れ歩くことを簡単に許可するとは思えない。

 扉を前にして、思わぬ障害が頭をもたげた。

 アンリとロビンを助ける名案だと伝えても、シーザーに伝わらなければ意味がない。体の弱い妹を海へ連れていけないと閉ざされたら、もうこちらの主張は通らない。一度閉じた扉を開く術はない。

 タイラーは天を仰いだ。
 
 一気に駆け上がってきた気持ちが萎えた。冷や水を浴び冷静になったともいえる。眉をひそめた。逃げ出したくなった。

 アンリの残した命題は思うより困難だと今さらながら気づく。もっとよく考えて船にのり、上陸し街を駆けのればよかったと後悔し、嘆息する。

 こめかみに指を押し立て、苛立つままにトントンと叩く。

 シーザーの説得に失敗したケースをタイラーは想定し始める。

 果物売りの女性を探しだす。店を閉じていても、同業の他店主は知っている可能性が高い。聞き込み、彼女に相談する。または船を借りれるか者がいないか探す。彼女を泡玉のまま海に溶かしてしまうことがないように、沖に出てアンリを救い出す機会を狙う。

 また、シーザーが反対するのはロビンについてだけだと予想できる。それ以外は力になってくれるかもしれない。

 深く息を吸い込んだ。タイラーは意を決し、チャイムを押した。

 程なく扉が開く。シーザーが出迎えた。

「おかえり」
「ただいま戻りました」

 他の言葉も思い浮かばず、当たり前の挨拶を交わした。
 シーザーは異変に気付く。にこやかな表情が固まった。

「ソニアはどうした」
「話せば、長くなります」

 陰鬱とした声音で返すと、ただならぬ雰囲気を察したのか「まずは居間へ」と招き入れられた。

 居間のソファーにはロビンがくつろいでいる。人の気配に振り向いた。濃い紫の瞳に凝視され、体がびくっと反応した。ソニアがいないことはすぐに察したことだろう。

 タイラーの姿を見つけ、ロビンは涼やかな表情で手招きした。

 黒く長い髪に、濃い紫の神秘的な少女。彼女を海上へ連れ行く。アンリの残した命題を胸に、タイラーはゆっくりと近づく。

「おかえりなさい」
「……ただいま」
「ソニアは、いないのでしょう」

 まるで予知予見していたような声音が耳朶を打つ。

「アンリからすべて聞いているわ」

 タイラーは瞠目した。

 背もたれに身を投げる黒髪の少女は、ソファーに膝を折っている。座面を指さし「座って」と告げた。タイラーは街灯に引き寄せられる羽虫のように誘引される。
 タイラーは真横に座るロビンと向き合うため、片膝を座面に乗せて坐した。荷物は足元に置いている。

 ロビンは両足をそろえて、背もたれに片腕をのせて、もう片方の手を足に添えていた。ゆったりと高貴な黒猫を前にして、タイラーは恐縮する。

「私と、アンリと、リバイアサンで結託して、仕掛けさせてもらいました」

 ストンと腑に落ちた。アンリとロビンは通じていたのだ。
 口角が浮き上がる。追うように、肚の底から安堵していた。自然と瞼が落ちる。

「ロビン。どういうことだ!」

 片やシーザーが形相を変えて、割って入ってきた。タイラーがばっと目を開くと、シーザーは妹が寄りかかる背もたれに、両手をかけていた。身を乗り出し、妹を見下ろす。

「やはりソニアはアンリだったのか」

 ロビンは泰然と見上げる。

「お兄様、アンリはすでに記憶を取り戻していたんですよ」
「なっ……、なんでそんな大事なことを、黙っていたんだ」

 前後不覚に狼狽する。そんなシーザーをタイラーは初めて見た。
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