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機転の章
画家の嫌悪
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とっくに収まっただろうと予想してした特別展の列は、真静達が外に出ても尚続いていた。二人が並んでいた時よりも長くなっているかもしれない。
「さてと、この後どこか行く?」
図録が入ったビニールをバッグにしまいつつ要真が言うと、真静は無言で博物館前の広場の奥に目をやり、すぐに首を振った。
「いえ、特にありません。倉瀬さんが行きたいところはありますか?」
「うーん、特にないんだ。だから、やっぱり佐成さんが決めて?」
真静が自分の意見を引っ込めがちな性格であることを、要真はよく分かっているようだ。
「それなら……動物園、に」
実は無性に動物を見たくなってしまっていた。特に哺乳類を。
わがままを言った気分で恐る恐る彼の顔を伺うと、彼は満面の笑みだった。
「それは丁度良かった。実は最近動物のスケッチをしたいと思っていたんだ」
「倉瀬さん……」
その台詞は彼女を気遣ってのものに感じ、心が温かくなる。なんていい人なのだ、
「あ、佐成さんのことも描かせてくれるよね? 動物とツーショットの絵を描けるなんてワクワクするよ」
「……はい」
前言撤回だ。きっと彼は、動物と真静を同じ額縁に収めることしか考えていない。絵のためと真静のためなら、割合は八対二かもしれない。そう思わざるをえないほどに目が輝いている。
まあ、彼が優しい男の人であることに変わりはない。それに、バカがつくほどのファンとしては、絵を描くことに喜びを感じている彼を見るだけで他はどうでもよくなるというものだ。
「佐成さんは何が見たい?」
「できれば哺乳類がいいです。それなら何でも」
「哺乳類か。それなら……」
図録の収納ついでに彼がバッグから取り出したのは、動物園の園内マップだ。打ち合わせの時点で立ち寄る候補地にはなっていたため、持っていても不思議ではない。
気合充分の要真は真静がマップを見やすいように少し傾け、園内の周り方の提案を始めた。哺乳類中心のその提案は真静の好みに完全に合致するもので、彼女は異論の“い”の字もなくただコクコクと頷いたのだった。
*****
動物園の門前で、二人分のチケットをまとめて購入した要真と入園料を返す返さないの押し問答をした末に折れた真静は、嬉しいやら申し訳ないやらで半泣きになっていた。無事入園したものの、少し気分が暗い。
このままでは楽しめない。そんなことを思ったが、いざパンダエリアを目にしてみると、パッと顔に明るさが戻った。
室内を見渡せるガラスの向こうで与えられた笹を両腕で挟み込み、一心不乱に齧るパンダの様子に、思わず目を見開いて見入ってしまう。
そんな彼女の同行者はといえば、パンダには目もくれずに真静を見つめていた。頰をほんのり赤く染めてパンダを見つめる彼女が普段とは違って少し子供っぽく、それが何とも愛らしい。しばらくその表情を拝んでいたいものだ。しかし、彼女を目にした近くの男がその目に邪な気配を宿したのを察知し、そんな悠長なことは思っていられなくなった。早くこのエリアから連れ出さなければ、人の目がパンダより彼女の愛らしさに向けられてしまいそうな気がする。
「佐成さん、そろそろ動こう。次の人が沢山来ているから」
パンダ目当てで人が後から後から押し寄せているのは嘘ではない。
要真に指摘されてから漸く真静も周囲に意識を向け、要真に誘導されるように肩を抱き寄せられたことで慌てて歩みを進めた。先程の男が彼女から目を離さないのを認めた要真が男を鋭く睨みつけ、震え上がらせていたとは全く知らずに。
*****
パンダのエリアを通過してからも要真の手が肩から離れず、真静は戸惑いを隠せないでいた。
「あ、あの、もうそんなに混んでいませんし、大丈夫ですよ……?」
だから離して、と暗に伝えても微笑まれるだけだ。そして離す気配は無しに、その笑顔で諭された。
「あのね、佐成さん。動物に夢中になってくれるのは同行者としても嬉しいんだけど、もう少し自分の可愛さは意識したほうがいいと思うよ。何かに夢中になっているときの佐成さんに惚れて変な奴が近づいてこないか心配なんだ」
だから離さない。そう言って笑みを深められ、真静は完全に言葉を失った。
本日何度目かで可愛いと言われた。離さないと言われた。今日の倉瀬さんは何か変だ、いつもより接し方が甘い気がする。彼の言葉の反芻と言葉に対する自分の感情がぐるぐると頭の中を巡り、足元がぐらつく。その瞬間、要真の腕が真静の背中を支え、彼の眉が僅かに顰められた。
「今日は随分足元がふらついているようだけど、本当に大丈夫? 本当に具合は悪くない?」
原因はあなたです! と声を大にして訴えたかったが、それは恥ずかしいにも程がある。
「大丈夫、です……」
弱々しく呟き、彼から目をそらす。と、彼はすぐに真静を解放し、かと思えば左手を握った。
「く、倉瀬さ、」
「これくらいは許して。離れるのが本当に心配なんだ」
ね、と懇願する目で見つめられては、毎度ながら真静は抗えない。
「わかり、ました……」
自分の顔色を顔の熱さで察しつつ、彼の手を握り返す。すると彼は眩しいくらいにいい笑顔を真静に向けた。
「ありがとう」
そう、この笑顔だ。この笑顔のためならこの程度の羞恥は耐えられる。たとえファンと画家の関係でも。
暮坂颯人への強い憧れ。それが形を変えつつあることに、彼女はまだ気がつけない。そしてそれは、彼にもまた言えることだった。
「さてと、この後どこか行く?」
図録が入ったビニールをバッグにしまいつつ要真が言うと、真静は無言で博物館前の広場の奥に目をやり、すぐに首を振った。
「いえ、特にありません。倉瀬さんが行きたいところはありますか?」
「うーん、特にないんだ。だから、やっぱり佐成さんが決めて?」
真静が自分の意見を引っ込めがちな性格であることを、要真はよく分かっているようだ。
「それなら……動物園、に」
実は無性に動物を見たくなってしまっていた。特に哺乳類を。
わがままを言った気分で恐る恐る彼の顔を伺うと、彼は満面の笑みだった。
「それは丁度良かった。実は最近動物のスケッチをしたいと思っていたんだ」
「倉瀬さん……」
その台詞は彼女を気遣ってのものに感じ、心が温かくなる。なんていい人なのだ、
「あ、佐成さんのことも描かせてくれるよね? 動物とツーショットの絵を描けるなんてワクワクするよ」
「……はい」
前言撤回だ。きっと彼は、動物と真静を同じ額縁に収めることしか考えていない。絵のためと真静のためなら、割合は八対二かもしれない。そう思わざるをえないほどに目が輝いている。
まあ、彼が優しい男の人であることに変わりはない。それに、バカがつくほどのファンとしては、絵を描くことに喜びを感じている彼を見るだけで他はどうでもよくなるというものだ。
「佐成さんは何が見たい?」
「できれば哺乳類がいいです。それなら何でも」
「哺乳類か。それなら……」
図録の収納ついでに彼がバッグから取り出したのは、動物園の園内マップだ。打ち合わせの時点で立ち寄る候補地にはなっていたため、持っていても不思議ではない。
気合充分の要真は真静がマップを見やすいように少し傾け、園内の周り方の提案を始めた。哺乳類中心のその提案は真静の好みに完全に合致するもので、彼女は異論の“い”の字もなくただコクコクと頷いたのだった。
*****
動物園の門前で、二人分のチケットをまとめて購入した要真と入園料を返す返さないの押し問答をした末に折れた真静は、嬉しいやら申し訳ないやらで半泣きになっていた。無事入園したものの、少し気分が暗い。
このままでは楽しめない。そんなことを思ったが、いざパンダエリアを目にしてみると、パッと顔に明るさが戻った。
室内を見渡せるガラスの向こうで与えられた笹を両腕で挟み込み、一心不乱に齧るパンダの様子に、思わず目を見開いて見入ってしまう。
そんな彼女の同行者はといえば、パンダには目もくれずに真静を見つめていた。頰をほんのり赤く染めてパンダを見つめる彼女が普段とは違って少し子供っぽく、それが何とも愛らしい。しばらくその表情を拝んでいたいものだ。しかし、彼女を目にした近くの男がその目に邪な気配を宿したのを察知し、そんな悠長なことは思っていられなくなった。早くこのエリアから連れ出さなければ、人の目がパンダより彼女の愛らしさに向けられてしまいそうな気がする。
「佐成さん、そろそろ動こう。次の人が沢山来ているから」
パンダ目当てで人が後から後から押し寄せているのは嘘ではない。
要真に指摘されてから漸く真静も周囲に意識を向け、要真に誘導されるように肩を抱き寄せられたことで慌てて歩みを進めた。先程の男が彼女から目を離さないのを認めた要真が男を鋭く睨みつけ、震え上がらせていたとは全く知らずに。
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パンダのエリアを通過してからも要真の手が肩から離れず、真静は戸惑いを隠せないでいた。
「あ、あの、もうそんなに混んでいませんし、大丈夫ですよ……?」
だから離して、と暗に伝えても微笑まれるだけだ。そして離す気配は無しに、その笑顔で諭された。
「あのね、佐成さん。動物に夢中になってくれるのは同行者としても嬉しいんだけど、もう少し自分の可愛さは意識したほうがいいと思うよ。何かに夢中になっているときの佐成さんに惚れて変な奴が近づいてこないか心配なんだ」
だから離さない。そう言って笑みを深められ、真静は完全に言葉を失った。
本日何度目かで可愛いと言われた。離さないと言われた。今日の倉瀬さんは何か変だ、いつもより接し方が甘い気がする。彼の言葉の反芻と言葉に対する自分の感情がぐるぐると頭の中を巡り、足元がぐらつく。その瞬間、要真の腕が真静の背中を支え、彼の眉が僅かに顰められた。
「今日は随分足元がふらついているようだけど、本当に大丈夫? 本当に具合は悪くない?」
原因はあなたです! と声を大にして訴えたかったが、それは恥ずかしいにも程がある。
「大丈夫、です……」
弱々しく呟き、彼から目をそらす。と、彼はすぐに真静を解放し、かと思えば左手を握った。
「く、倉瀬さ、」
「これくらいは許して。離れるのが本当に心配なんだ」
ね、と懇願する目で見つめられては、毎度ながら真静は抗えない。
「わかり、ました……」
自分の顔色を顔の熱さで察しつつ、彼の手を握り返す。すると彼は眩しいくらいにいい笑顔を真静に向けた。
「ありがとう」
そう、この笑顔だ。この笑顔のためならこの程度の羞恥は耐えられる。たとえファンと画家の関係でも。
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