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第1章 恋は悪夢の始まり

4.

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 驚いたのは名を呼ばれたことと、夢に恋という名がつけられたこと。
 目を見開いて微動だにせず、凪乃羽は不躾にただ古尾を凝視していた。
 古尾のほうは凪乃羽の視線を受けとめるだけで、質問の答えを待っているふうでもない。
 玉虫色に見える瞳に魅入られ、その中に囚われ、閉じこめられそうな怖れを抱いても、自分からは抜けだせない。同化しそうな、もしくは自分を見失ってしまいそうな心もとなさに襲われる。思考力がまったく停止しているせいで、感情だけが先走っている。
 その呪縛を解いたのはレストランの店員だった。
 魚介類のパスタが据えられ、釣られるようにそれに目を落とす。瞬きを数回繰り返すと、目が覚めたような気分で、伏せていた瞼を上げた。
「食べろ」
 何事もなかったように古尾は云う。
 凪乃羽が大げさに受けとっただけで、古尾にとっては何事でもない。古尾ならあり得た。
 それなら普通に振る舞うしかないとわかっていながらも、はい、という返事は上ずって――
「……いただきます」
 という云い慣れた言葉は痞えてしまった。
 なんとなく凪乃羽が食べるのを待っているような気配を感じて、フォークを手にする。持ち替えているときに取り落としそうになりながら、なんとかそれを防いでフォークを使い、パスタを口に運ぶ。魚介の風味が口の中に広がった。
「美味しい」
 思わずつぶやいたその言葉を待っていたように、古尾は自分のパスタにフォークを入れた。
「この国にいると腹がへるな」
 一口食べて満足そうに古尾がつぶやく一方で、その言葉に凪乃羽は違和感を抱いた。二口めを食べたあと、古尾先生、と呼びかけた。
「この国にいると、って、海外に住んでいたことがあるんですか」
 古尾が目線を上げて凪乃羽に焦点を合わせるまで、いやにゆったりとしているように感じた。
「そうだ」
「どこですか」
「あらゆるところだ」
 その答え方ははぐらかしているように聞こえた。訊いてほしくないことだろうか。いや、単に答えるのが面倒くさいのかもしれない。
「日本は食べ物が美味しいってことですか?」
 質問を変えてみると、まあそんなところだ、という煮えきらない返事が来た。つまり、やっぱり説明は面倒だということだ。
 そうなれば、凪乃羽から話題づくりはしなくてすむ。それはそれでらくだ。
 正面では、『腹がへる』と云っていたことを証明するように、古尾がパスタを次から次に頬張っている。凪乃羽もそれに倣って食べだした。沈黙がはびこっても不思議と気まずくなくない。
「美味しい」
 レストランの雰囲気を見ても、値段の張るところだとは学生の凪乃羽にもわかる。ぷりぷりした海老が食感も味も申し分なくてまた自然とつぶやいた。
「なんだ」
「海老がもともと好きなんですけど、この海老、いままで食べたなかでいちばん美味しいから」
 古尾は凪乃羽の口もとに浮かぶ笑みを見て眉をひそめた。もしくは眩しいように目を細めたのか。
「単純だな」
 吐息混じりの声にはなぜか憂いが感じられ、古尾はつと目を逸らし、そこに何かが映しだされているかのように一点を見つめている。ともすれば郷愁にかられているような気配を醸しだす。
「古尾先生?」
 呼びかけると、凪乃羽を一瞥してパスタに目を落とした。
「これ、いるか」
 古尾はフォークで、ひとつ残っていた海老を示す。
「人のものを奪うほど卑しくありません。古尾先生は、おなかすいてたんですよね?」
「腹はへるが、おれはもともとが食べない」
 凪乃羽は目を丸くした。無自覚に、あらためて古尾を眺める。といっても、床に座っているからウエスト辺りから上しか見られない。
 確かに、古尾は凪乃羽に合わせるように、男性にしては食べ方がゆっくりしている。けれど、少食というわりに痩せているふうではない。第一、今日、自動販売機で傍に立ったときも車中でも、古尾のことは自分と違って大人の男の人らしく大きいと感じた。
 たぶんだが、ぜい肉はなさそうだし、だとしたら必要最低限の栄養をちゃんと取れば体力も体型も維持できるのかもしれない。
「いる? いらない?」
 人に二者選択を迫るのは癖みたいなものか、古尾は海老をさした。
 普通、友だちならともかく、ましてや男性が食べかけているものから分けてもらうなど考えられないけれど、古尾に対してはまったく嫌悪感がない。
 なぜだろう。そう考えて、さっき古尾が口にした衝撃的な言葉が浮上する。
 恋いしているから?
「これって、セクハラ? パワハラ?」
 焦った気持ちをなんとかごまかした。
「小賢しいことを云う」
 古尾は目を細めて凪乃羽を見やり、そして見せつけるように海老をフォークで刺すと自分の口に運んだ。
 そして、また沈黙がはびこり、それは不思議な時間だった。気まずくはなく、早く時間がすぎればいいと思っているわけでもないのに、食事をする間、ふたりだけ時間の流れから取り残されたように、ゆったりとした感覚があった。
 食後のコーヒーが来ると、カップを口もとに持っていった古尾は、香りを楽しむようなしぐさをして、一口含んだ。
「コーヒーは人間界最大の発見だな」
 大げさなほどの賞賛に凪乃羽はくすりと笑った。よほどコーヒーが好きらしいことはわかった。
「コーヒー中毒ですか」
「そうだとしたら、まずいことになる」
 思いもしない答えが返ってきた。
「まずいこと?」
 古尾は笑みともつかない笑みを浮かべて、肩をすくめた。
「いずれわかる」
 ふたりは今日限りではなくなんらかの繋がりが続くような言葉だ。もちろん学生と講師として、少なくとも凪乃羽が大学三年生の間は関わりがある。そう考えて、凪乃羽は思いだした。
「あの、アシスタントとかインターンとか、本気の話じゃないですよね」
「スタッフパス作っただろう」
「……勝手に作られました」
「サークルにも入っていない、バイトもしていない。暇だろう、手伝え」
 凪乃羽は驚かされてばかりだ。
「そんな情報をどこから聞いたんですか」
「麻井凪乃羽についてはいろんなことを知っている」
 冗談か本当か、くちびるを歪めた古尾の表情からは少しも読みとれない。
「それって……」
 ――わたしのことだけですか、それとも受講してる全員のことをを調べたんですか。
 と、凪乃羽はそう訊ねかけていることに気づいて口を噤んだ。学生一人一人の個人的な事情を講師が知る必要はないし、やはり自意識過剰でずうずうしいと捉えられかねない。
「おれがおまえのことを気にしているのか。それが訊きたいか」
 凪乃羽が云わなくてもなんにもなっていない。古尾はお見通しで――
「そのとおりだと云ったら、個人情報を得ることもパワハラか、それともこの国で云うストーカーだって、おれを責めるか?」
 と続けた。
「……わかりません」
「決着をつけてやろうか」
 古尾は云いながら、コーヒーカップののったソーサーを持ちあげて絨毯の上に置き、凪乃羽のぶんも取りあげて同じようにした。
「あの……決着って……」
 訊ねきれないうちに古尾が立ちあがって、凪乃羽のほうにまわってきた。帰るのだろうか、と思って立ちあがろうと膝立ちした刹那。
 古尾が上体を折ったかと思うと、左腕で凪乃羽の腰をさらい、右腕は肩にまわして、気づいたとき凪乃羽はテーブルの上に腰から上がのった恰好で寝転がっていた。
「古尾先生!」
 真上に古尾の顔があって、ふたりの距離は十センチも離れていない。
「声を出すな」
 その命令に従う理由はない。それなのに、催眠術にかかったように逆らえなかった。
 腰もとにあった手が太腿をつかんで開き、古尾が間に躰を割りこませて脚を閉じられなくした。それから、肩の下から腕を抜き、古尾は凪乃羽の手をそれぞれにつかんで頭上でひと纏めにした。
 頭上で凪乃羽の両方の手首を左手でくくり、右手がブラウスの上から胸のふくらみに触れた。
 凪乃羽は息を呑み、驚愕して目を見開く。
 凪乃羽を驚かせたのは触れられたことだけではない。夢の中をそっくり真似た状況だったからだ。
 どうだ? おれはなんでも知っている。
 すぐ傍にある眼差しはそう挑んでいるように見えた。
 ただ、夢と違ったのはキスの順番だ。
 わずかの距離がさらに縮まって焦点が合わなくなった直後。
 古尾のくちびるが凪乃羽のくちびるをふさいだ。吸い着くようにしてすぐさま離れ、またくっつく。熱く濡れたものがくちびるを這い、上下を割いた。
 息苦しいと思うのは呼吸を止めているせいで、けれど、息をするタイミングがわからない。無呼吸でいる限度を超えて、本能的に口を開いたとたん熱く濡れたもの――古尾の舌が口内を侵してきた。息ができなくてのぼせてしまう。
 キスの間に、キャミソールごとブラウスがたくし上げられていたことに気づかず、くちびるがやっと解放されて喘いでいるさなか、躰が跳ねるような刺激が胸もとから生じた。
「やっ」
 拒絶反応は本能が働いたのか、凪乃羽はできるかぎりで躰を捩った。括られた手にも力がこもり、すると、意外にもあっさりと自由になった。
 凪乃羽は躰を起こしながら、転がり落ちるようにして床に着地した。ずれたブラジャーをもとに戻しながらブラウスを無造作に整えて、尻餅をついたまま部屋の隅へとあとずさる。
 古尾は、片肘をテーブルについて上向けた手のひらに顎をのせた恰好でそれを眺めていた。嘲るように口もとが歪む。
「云っただろう。おれとここにいることがバカだって。決着は自分でつけろ」
 次には、帰るぞ、とあっさりと云い、古尾は立ちあがった。
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