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第1章 恋は悪夢の始まり

7.

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 靴を脱いで廊下に上がると、古尾が先導していき、正面にあったドアを開けた。
 入ってみると、だだっ広いというほかないほど、リビングには必要最低限のものしか備えられていない。きれい好きなのか、散らかっていることもなかった。
 一面の壁は窓になっていて、すっきりと遠くまで一望できる。二十二階にもなると、木々も見えないし、閉めきられているせいか地上の雑音も届かない。そんなふうに視界に雑然としたものが感じられないから、よけいに部屋のなかも無味乾燥といった雰囲気になるのだろう。
 唯一、生活感が見られるのは巨大なクッションだ。躰に添って包みこむような、ひょっとしたらクッションというよりもソファかもしれない。いかにも使っていたという、へこみがある。
「コーヒーメーカーはどこですか」
「向こうだ」
 古尾が指差したところにはコの字型の仕切り壁があって、空いたところからそこがキッチンだと見て取れた。
 まわりこんでキッチンに入ると、生活感を出したモデルハウスよりも物がない。
 ……というか、コーヒーメーカーの横に出しっぱなしのコーヒーカップしか見当たらない。
 食器棚がないし、コーヒー粉を置いてから、ずうずうしくも流し台の引き出しをいくつか覗いてみても空っぽだ。
「古尾先生って、家で食べることないんですか」
 フィルターをコーヒーメーカーにセットしながら声をかけてみた。すぐに返事はなく、キッチン台に身を乗りだしてリビングを覗いた。
「もともと食べないって云っただろう」
 姿が見えなくて首をかしげたそのとき、突然、ほんの傍で答えられて、凪乃羽は飛びあがりそうに驚いた。
 声のしたほうをパッと振り向くと、いつの間にキッチンに入っていたのか、古尾が立っていた。
「なんだか……古尾先生、魔法使いみたい、ですね。全然、気づきませんでした」
 びっくりしすぎて少し痞えた。
 古尾はおもしろがってにやりとする。
「魔法使いか。少し違うが」
「え、少しって……」
「そのことはあとでいい。それよりも……」
 もったいぶった様子で言葉を切り、それから古尾はふいに身をかがめた。その顔がおもむろに近づいてくる。
「古尾先生?」
「万生だ。ヴァンと呼べ」
「……あの……」
「おまえはおまえの気持ちに決着をつけたのだろう。なら迷うな。おまえ自身の気持ちを信じるしかない」
 古尾の面持ちはいつになく真摯に見え、目を通してその意思が凪乃羽の心底に潜りこんでくるような錯覚に陥る。
 さらに古尾の顔が近づいてきた。
 ぼやけるほど身近に迫った刹那、古尾は顔を斜め向けると、下からすくうようなしぐさで凪乃羽のくちびるをふさいだ。
 ふわりとくっついたかと思うと、ゆっくりと顔を離していき、わずかに接したくちびるの裏側の粘膜が惜しむように離れていった。
 無自覚に目をつむっていた凪乃羽だったが、薄らと目を開くと、古尾は不意打ちを狙って再び口づけた。
 今度は離れていくことなく、少し浮かしたり、ぺたりと押しつけたり、そんなキスが繰り返される。まるで餌付けをするようにいざない、あやすようでもあった。くちびるが熱をはらみ、それが腫れぼったいと感じるのは気のせいか。
 そうしてくちびるが浮く以上に離れていく瞬間、凪乃羽の口が自然と開いた。そのタイミングを逃さず、古尾は三度、凪乃羽のくちびるを襲った。舌が口内に忍びこみ、凪乃羽の舌をすくい、絡めた。逃げ惑うのは本能なのか、けれどそれはかなわず、逆に舌を絡み合わせるようなしぐさになり、キスがもたらす感覚に凪乃羽はのぼせていく。口の中に蜜が溢れる。それを甘いという味覚を感じながら、アルコールを含んでいるように酔う。血液の中に新たな栄養を与えられ、躰が熱く疼いていくようだった。
 んふっ。
 古尾の口の中にこもった喘ぎ声を吐く。
 古尾は顔を離して間近で荒く呼吸を繰り返し、それは凪乃羽の乱れた呼吸と入り混じる。
むつぶ頃合いだ」
 古尾はささやき、凪乃羽はのぼせた頭で聞いたことのない言葉を把握した。
「むつぶ?」
「これ以上にないほどちかしくなる、という意だろうな。拒むな。受け容れなくてはならない」
 凪乃羽の返事を聞くこともなく――それ以前に関係ないといったふうに、古尾は自身の意思のまますぐ傍で身をかがめ、直後、凪乃羽の躰がふわりと浮いた。
 反射的に古尾の首にしがみつく。
 背中越しにくつくつと笑う気配がして――
「それでいい」
 成り行きのしぐさにもかかわらず、古尾は満足至極に横柄に放つと方向転換をしてキッチンを出た。
 キスが打ちきられて、いま抱きあげられ、そのあとに何が続くのか、察せられないほど幼くはない。ただ、経験がないだけで。そのうえ、どこか急ぎ足で進んでいるような気がしてならない。
 悪夢の正体はなんだろう。古尾は恋と称して、それから、その答えが正解だと裏付けるようにどきどきして凪乃羽は落ち着かない。
 レストランで遭った行為は、それが恋でなければセクハラにすぎず、凪乃羽はうだうだと考えることも迷うこともなく古尾には近寄らなかったはずだ。それなのに母親のひと言で簡単に踏みだした。
 もしも、悪夢が潜在願望だとして、それを打ち明けてしまったことは古尾にとっては付けこむ隙にもなっている。まして、いまのせっかちさに及んでいる原因かもしれない。そうも考えたけれど、古尾をずるいと思うよりも凪乃羽には恥ずかしさがこみあげてくる。
 リビングをあとにして連れていかれたのは、きっとそこしかない。古尾の背中越しにドアが閉まるのを見届けると、密室に閉じこめられたように感じた。
 古尾がかがんで、凪乃羽の背中がふわりと弾力のある場所におろされる。いかにも手馴れていて大勢のうちの一人かもしれない。そうだとしても、古尾への疑惑よりも、羞恥心のほうが上回る。凪乃羽は古尾に無理な体勢を強いたまま、しがみついた手を放せなかった。
「抵抗する気か」
 古尾の腕が躰の下から抜けだし、その手は自分の首の後ろにまわった。凪乃羽の手首をそれぞれにつかむと放しかかった。
「こうなること、ちょっと早い気がするんです!」
「うるさい。叫ばなくても聞こえる」
 叫ぶというほどでもないけれど、ほんの耳もとで大声を出したのは確かで、ごめんなさい、と凪乃羽は謝った。
「でも……」
「おれは待ちくたびれるくらい、今日まで待った。早いなどという感覚は皆無だ。さっき云っただろう、限界が来ている、と。おまえを守るためだ」
「わたしを守る? 何から?」
 凪乃羽は無意識にそんなふうに問い返してしまう。古尾の云い方は、ただの口説き文句などではなく、ちゃんと理由があるように聞こえた。
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