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第1章 恋愛コンプラの盾
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「お疲れさまです」
琴子個人に向けられた労いに応えないわけにはいかず、そう返すと里見は皮肉っぽく、もしくはおもしろがって口を歪めた。琴子の心情は正しく伝わっているらしい。
「どれくらいでできる?」
云いながら、里見は近くの椅子を引き寄せて琴子の正面で腰かけた。居座る気満々だ。あまつさえ、その間に戦略室の面々は会議室を出ていってしまい、ふたりきりで残された。
椅子の背にもたれた里見は上司然としてふてぶてしい。ただし、琴子とは所属が違って、戦略室新規事業第一チームのリーダーである里見は直属ではない。
「事前に進行は知らされていましたし、さっき検討されていた時間があったので、ほぼ整理はついています。三十分もあれば纏められますから、すぐに……」
お持ちします、と続けようとした言葉は――
「なるほど、さぼっていたわけじゃなさそうだ」
という、心外な発言にさえぎられた。
「わたしは、暇さえあればさぼってると思われているんですか。外を見ていたのは、気分をリセットしていたにすぎませんから」
「冗談だ。怒らせるつもりはない。……って、軽い冗談も通じないってなんなんだ」
「里見リーダーが見極められていないんじゃないですか」
「何を?」
「冗談が通じる関係かどうか、その距離感を」
「関係、か……」
つぶやいた里見は、確かにまだまだだ、とにやりとした。
まったくもって軽薄だ。里見に対するイメージは、この半年で崩壊した。いや、そもそも軽薄さが本性で、仕事に限ってクールなのかもしれない。その証拠に、イメージが崩れるまえからあった、野心も自信も満々だという点は変わらず、里見は今日も自分の案を強固な説得をもって押し通した。
「関係だけじゃありません。時も場所も、冗談を云うには間違っています」
「真面目だな」
里見に遠回しな牽制は通じない。読みとれなかったり受けとめられなかったり、他人の心情を量れない人は確かに存在するけれど、里見がそんなふうに鈍感だとは思えない。むしろ、琴子が里見を避けたがっていると察したうえで絡んでくるから始末に負えないのだ。
「時と場所をわきまえているだけです。真面目ではありませんから」
きっぱりと否定すると、里見は何かしら気にかかるものがあったのか、奇妙なものに遭遇したかのように首をひねった。
「真面目って云うのも気に喰わない? 素直に褒め言葉のつもりだけどな」
「それなら、買い被りだと云っておきます。真面目さがプラスになるとは限らない。里見リーダーには敵いませんけど、わたしはそれほど世間知らずじゃありません」
「なるほど」
何を納得したのだろう、里見が琴子にちょっかいを出すようになって以降、口癖なのか『なるほど』という言葉をよく耳にする。
「仕事に……」
戻りたいんですけど、と続けようとした言葉はまたもや里見が口を開いてさえぎられた。
「この案はどう思った?」
里見は琴子に配付されていた資料を人差し指でトントンと叩いた。琴子が云おうとしたことを先回りしたのか、急にビジネスマンに戻り、生真面目に問う。
里見が議題にした第一チームの新規事業案は、自動車業界への参入だった。といっても、新たに自動車会社を興すのではなく、世界に誇るホース自動車との提携によりプラヴィブランドを起ちあげる。自動運転車の開発、そのさきに無人車を目論んでいる。
「車は運転しないので個人的な利便性は実感できませんけど、ステップを踏んで完全無人車が普通に走るようになるなら夢があります。近未来の映画の世界が実現するような……。切実なことでいえば、タクシーとかバスとか、あと宅配業者とか、人件費の削減になりますよね。大角室長がおっしゃったように、大企業だからこそ夢で終わらない気がします」
つぶさに耳を傾けていた里見は、真面目腐っていただけなのか、吐息混じりに笑った。
「否定から入って、共鳴して、現実的なところで認める。喜ばせてくれるな」
「べつに意図して云ったわけではありません」
「つまり、おべっかじゃない、と?」
「媚びたくなんかありません」
里見は声に出して失笑する。
「だろうな。安心してくれ。おれは勘違いするほど、めでたい人間じゃない」
そのわりに、里見はグループ会社の規律としてあるハラスメント対策を無視している。
玉里Pravyホールディングスは、玉城財閥と里見財閥という二つの一族からなる鉱業会社を前身とし、鉱業に関連した機械、電気などへと進出、発展してきた。“プラヴィ電機”を筆頭に数多くのグループ企業が存在し、ホールディングスは持株会社でありつつ、それらの纏め役を担っている。
里見道仁は、里見財閥本家出身ではないものの直系には違いなく、だから社内恋愛は禁止という規律を軽視しているのだろうか。
いや、まだ里見に恋愛感情があるとは決まっていない。琴子の反応が類い希で、それがおもしろくてからかっているだけかもしれない。
ただし、琴子の主観からすると、最近の里見の振る舞いは、苛められても脅されてもいないけれど、プライベートな会話は迷惑で、モラルハラスメントの一種だ。
いつ何が原因で、里見が必要以上に琴子のテリトリーに踏みこんでくるのか、おそらく原因はあのことだと見当はついている。
琴子個人に向けられた労いに応えないわけにはいかず、そう返すと里見は皮肉っぽく、もしくはおもしろがって口を歪めた。琴子の心情は正しく伝わっているらしい。
「どれくらいでできる?」
云いながら、里見は近くの椅子を引き寄せて琴子の正面で腰かけた。居座る気満々だ。あまつさえ、その間に戦略室の面々は会議室を出ていってしまい、ふたりきりで残された。
椅子の背にもたれた里見は上司然としてふてぶてしい。ただし、琴子とは所属が違って、戦略室新規事業第一チームのリーダーである里見は直属ではない。
「事前に進行は知らされていましたし、さっき検討されていた時間があったので、ほぼ整理はついています。三十分もあれば纏められますから、すぐに……」
お持ちします、と続けようとした言葉は――
「なるほど、さぼっていたわけじゃなさそうだ」
という、心外な発言にさえぎられた。
「わたしは、暇さえあればさぼってると思われているんですか。外を見ていたのは、気分をリセットしていたにすぎませんから」
「冗談だ。怒らせるつもりはない。……って、軽い冗談も通じないってなんなんだ」
「里見リーダーが見極められていないんじゃないですか」
「何を?」
「冗談が通じる関係かどうか、その距離感を」
「関係、か……」
つぶやいた里見は、確かにまだまだだ、とにやりとした。
まったくもって軽薄だ。里見に対するイメージは、この半年で崩壊した。いや、そもそも軽薄さが本性で、仕事に限ってクールなのかもしれない。その証拠に、イメージが崩れるまえからあった、野心も自信も満々だという点は変わらず、里見は今日も自分の案を強固な説得をもって押し通した。
「関係だけじゃありません。時も場所も、冗談を云うには間違っています」
「真面目だな」
里見に遠回しな牽制は通じない。読みとれなかったり受けとめられなかったり、他人の心情を量れない人は確かに存在するけれど、里見がそんなふうに鈍感だとは思えない。むしろ、琴子が里見を避けたがっていると察したうえで絡んでくるから始末に負えないのだ。
「時と場所をわきまえているだけです。真面目ではありませんから」
きっぱりと否定すると、里見は何かしら気にかかるものがあったのか、奇妙なものに遭遇したかのように首をひねった。
「真面目って云うのも気に喰わない? 素直に褒め言葉のつもりだけどな」
「それなら、買い被りだと云っておきます。真面目さがプラスになるとは限らない。里見リーダーには敵いませんけど、わたしはそれほど世間知らずじゃありません」
「なるほど」
何を納得したのだろう、里見が琴子にちょっかいを出すようになって以降、口癖なのか『なるほど』という言葉をよく耳にする。
「仕事に……」
戻りたいんですけど、と続けようとした言葉はまたもや里見が口を開いてさえぎられた。
「この案はどう思った?」
里見は琴子に配付されていた資料を人差し指でトントンと叩いた。琴子が云おうとしたことを先回りしたのか、急にビジネスマンに戻り、生真面目に問う。
里見が議題にした第一チームの新規事業案は、自動車業界への参入だった。といっても、新たに自動車会社を興すのではなく、世界に誇るホース自動車との提携によりプラヴィブランドを起ちあげる。自動運転車の開発、そのさきに無人車を目論んでいる。
「車は運転しないので個人的な利便性は実感できませんけど、ステップを踏んで完全無人車が普通に走るようになるなら夢があります。近未来の映画の世界が実現するような……。切実なことでいえば、タクシーとかバスとか、あと宅配業者とか、人件費の削減になりますよね。大角室長がおっしゃったように、大企業だからこそ夢で終わらない気がします」
つぶさに耳を傾けていた里見は、真面目腐っていただけなのか、吐息混じりに笑った。
「否定から入って、共鳴して、現実的なところで認める。喜ばせてくれるな」
「べつに意図して云ったわけではありません」
「つまり、おべっかじゃない、と?」
「媚びたくなんかありません」
里見は声に出して失笑する。
「だろうな。安心してくれ。おれは勘違いするほど、めでたい人間じゃない」
そのわりに、里見はグループ会社の規律としてあるハラスメント対策を無視している。
玉里Pravyホールディングスは、玉城財閥と里見財閥という二つの一族からなる鉱業会社を前身とし、鉱業に関連した機械、電気などへと進出、発展してきた。“プラヴィ電機”を筆頭に数多くのグループ企業が存在し、ホールディングスは持株会社でありつつ、それらの纏め役を担っている。
里見道仁は、里見財閥本家出身ではないものの直系には違いなく、だから社内恋愛は禁止という規律を軽視しているのだろうか。
いや、まだ里見に恋愛感情があるとは決まっていない。琴子の反応が類い希で、それがおもしろくてからかっているだけかもしれない。
ただし、琴子の主観からすると、最近の里見の振る舞いは、苛められても脅されてもいないけれど、プライベートな会話は迷惑で、モラルハラスメントの一種だ。
いつ何が原因で、里見が必要以上に琴子のテリトリーに踏みこんでくるのか、おそらく原因はあのことだと見当はついている。
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