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第1章 恋愛コンプラの盾
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「琴子、すっごい、憂うつそう」
ソファの前にあるテーブルについて、琴子が卓上ミラーの中の自分と睨めっこをしていると、浜路梓沙が斜め向かいで床に座って、琴子の顔を覗きこんだ。
土曜日の夕刻、メイクを仕上げたら外出する。一昨日にあった、里見の食事会への誘いは琴子を困らせるための冗談ではなかった。その日のうちにメールで連絡が来た。それが今日だ。
「憂うつだから」
2LDKのアパートを借りて同居している梓沙には、里見のことを愚痴っぽく話している。気持ちそのまま素っ気なく応えると、梓沙はぷっと吹きだした。
「飛んで火に入るなんとか、じゃないの?」
梓沙は持ってきた缶ビールを開けるとひと口飲んで、もう一つ持ってきた皿から唐揚げを取りあげた。
「夏の虫? どういうこと?」
「里見道仁でしょ。イケメン、やり手、御曹司、つまり云うことなしのエリートじゃない。せっかく向こうからやってきたのにゲットしないなんて、当選したとわかっている宝くじを換金しないのと一緒でしょ。もったいなくてゾッとする」
梓沙は大げさに肩をすくめて、わざとぞっとした素振りを見せた。
里見と宝くじが同列になるとは――里見に聞かせたらどんな反応が見られるだろうか、とそう考えてしまって、琴子はぷっと吹きだした。
「確かに十億円あるのにもらわないなんて考えられないけど」
「でしょ。こんなコンビニの唐揚げじゃなくて、思う存分ステーキが食べられるし」
十億という金額からすると、ささやかすぎる贅沢を口にした梓沙は、言葉とは裏腹に唐揚げを頬張って美味しそうな顔をする。琴子がリップをつける間に、唐揚げは梓沙の胃におさまった。
「でも結局は、コンビニの唐揚げも、レストランのステーキも、食べ続けたらきっと飽きるよ」
「ごもっとも」
琴子の意見に同意しながらも、梓沙は呆れた様子で、でもね、と身を乗りだした。
「飽きたときは別のを食べたらいいでしょ」
「梓沙、それって人に通じる話をしてる?」
「もちろん」
梓沙はなんのためらいもなく、むしろ無邪気なほど当然だと肯定した。
「わたしに悪女になれって誘ってるってこと?」
「取っ替え引っ替え、楽しいよ」
梓沙はあっさりとしたもので、琴子は顔を上げて眉間にしわを寄せた。
「わたしは好きじゃない」
「だから、琴子はそのまんまでいいじゃない。飽きたとしても、悪女にならないで、ただ食べるのをやめたらいい話。据え膳喰わぬはなんとかの恥って云うじゃない? いまどき、男も女もないし、据え膳喰わぬはもったいない! だよ」
梓沙流にした言葉はまた琴子を笑わせる。
「里見リーダーはたぶんめったにない反応を楽しんでるだけ。電話番号を教えてもらったら喜んでかけるっていう反応のほうが、里見リーダーにとっては普通だと思うし」
「男のプライドが疼いたってことはあるかもね。それはそれで利用すればいいのに」
「利用って……」
琴子は訊ねかけて、自分でその答えを見いだした。
「無理。信頼してない人と一緒にいるとか、絶対無理」
「じゃあ、わたしのことは信頼してるんだ。悪女でも」
琴子の言葉の揚げ足を取って、梓沙はおもしろがった。
「信頼してるよ。じゃなきゃ、一緒に住んでない」
「右に同じ。でもねぇ琴子、やっぱりチャンスじゃない? 里見リーダーは分家出身だとしても、創業者の末裔だってことには変わらないし、かなり財産あるらしいよ。宝くじの比じゃないくらい」
同い年の梓沙とは長い付き合いだ。勤め先は違うけれどグループ会社に所属している。社会人になって間もなく、ふたりでこの部屋を借りたのだ。そんなだから、男性不信という琴子の性質は熟知しているはず。知っていながら、今日の梓沙はしつこく里見を勧めてくる。
「あのね、梓沙、話を戻すけど、里見リーダーから好きだとか付き合ってほしいだとか、云われたわけじゃないから」
「わかってる。わかってるけど……」
梓沙は尻切れとんぼに終わらせ、云うのを迷っているように首をかしげた。
「……もしかして、わたしが里見リーダーを捕まえたら、梓沙にとって都合がいいことがあるの?」
慎重に訊ねてみると、梓沙は琴子から切りだしたことにほっとしたように笑みを浮かべた。
「そういうこと」
「何?」
「あることがうまくいったら話してあげる」
「梓沙、危ないことしてないよね?」
「少なくとも、プラヴィをやめなくちゃいけないようなことをするつもりはないから安心して」
里見が云った『安心してくれ』と同様、いまの梓沙の『安心して』もまったく安心した気持ちにさせてくれない。琴子が口を開きかけると――
「もう出たほうがよくない? 食事会では新参者だし、遅れて目立ちたくないでしょ」
という梓沙の助言はそのとおりだ。
琴子はスマホを見て時間を確認すると、鏡でもう一度メイクをチェックしたあと、卓上ミラーを閉じた。
「とりあえず、食事会では美味しいもの食べてくる」
「帰ってこなくてもいいよ」
「冗談でしょ」
「冗談だよ」
すました梓沙を軽く睨みつけて暗に咎め、それから琴子はため息をついて気分を切り替えると、バッグを持って外に出た。
「琴子、すっごい、憂うつそう」
ソファの前にあるテーブルについて、琴子が卓上ミラーの中の自分と睨めっこをしていると、浜路梓沙が斜め向かいで床に座って、琴子の顔を覗きこんだ。
土曜日の夕刻、メイクを仕上げたら外出する。一昨日にあった、里見の食事会への誘いは琴子を困らせるための冗談ではなかった。その日のうちにメールで連絡が来た。それが今日だ。
「憂うつだから」
2LDKのアパートを借りて同居している梓沙には、里見のことを愚痴っぽく話している。気持ちそのまま素っ気なく応えると、梓沙はぷっと吹きだした。
「飛んで火に入るなんとか、じゃないの?」
梓沙は持ってきた缶ビールを開けるとひと口飲んで、もう一つ持ってきた皿から唐揚げを取りあげた。
「夏の虫? どういうこと?」
「里見道仁でしょ。イケメン、やり手、御曹司、つまり云うことなしのエリートじゃない。せっかく向こうからやってきたのにゲットしないなんて、当選したとわかっている宝くじを換金しないのと一緒でしょ。もったいなくてゾッとする」
梓沙は大げさに肩をすくめて、わざとぞっとした素振りを見せた。
里見と宝くじが同列になるとは――里見に聞かせたらどんな反応が見られるだろうか、とそう考えてしまって、琴子はぷっと吹きだした。
「確かに十億円あるのにもらわないなんて考えられないけど」
「でしょ。こんなコンビニの唐揚げじゃなくて、思う存分ステーキが食べられるし」
十億という金額からすると、ささやかすぎる贅沢を口にした梓沙は、言葉とは裏腹に唐揚げを頬張って美味しそうな顔をする。琴子がリップをつける間に、唐揚げは梓沙の胃におさまった。
「でも結局は、コンビニの唐揚げも、レストランのステーキも、食べ続けたらきっと飽きるよ」
「ごもっとも」
琴子の意見に同意しながらも、梓沙は呆れた様子で、でもね、と身を乗りだした。
「飽きたときは別のを食べたらいいでしょ」
「梓沙、それって人に通じる話をしてる?」
「もちろん」
梓沙はなんのためらいもなく、むしろ無邪気なほど当然だと肯定した。
「わたしに悪女になれって誘ってるってこと?」
「取っ替え引っ替え、楽しいよ」
梓沙はあっさりとしたもので、琴子は顔を上げて眉間にしわを寄せた。
「わたしは好きじゃない」
「だから、琴子はそのまんまでいいじゃない。飽きたとしても、悪女にならないで、ただ食べるのをやめたらいい話。据え膳喰わぬはなんとかの恥って云うじゃない? いまどき、男も女もないし、据え膳喰わぬはもったいない! だよ」
梓沙流にした言葉はまた琴子を笑わせる。
「里見リーダーはたぶんめったにない反応を楽しんでるだけ。電話番号を教えてもらったら喜んでかけるっていう反応のほうが、里見リーダーにとっては普通だと思うし」
「男のプライドが疼いたってことはあるかもね。それはそれで利用すればいいのに」
「利用って……」
琴子は訊ねかけて、自分でその答えを見いだした。
「無理。信頼してない人と一緒にいるとか、絶対無理」
「じゃあ、わたしのことは信頼してるんだ。悪女でも」
琴子の言葉の揚げ足を取って、梓沙はおもしろがった。
「信頼してるよ。じゃなきゃ、一緒に住んでない」
「右に同じ。でもねぇ琴子、やっぱりチャンスじゃない? 里見リーダーは分家出身だとしても、創業者の末裔だってことには変わらないし、かなり財産あるらしいよ。宝くじの比じゃないくらい」
同い年の梓沙とは長い付き合いだ。勤め先は違うけれどグループ会社に所属している。社会人になって間もなく、ふたりでこの部屋を借りたのだ。そんなだから、男性不信という琴子の性質は熟知しているはず。知っていながら、今日の梓沙はしつこく里見を勧めてくる。
「あのね、梓沙、話を戻すけど、里見リーダーから好きだとか付き合ってほしいだとか、云われたわけじゃないから」
「わかってる。わかってるけど……」
梓沙は尻切れとんぼに終わらせ、云うのを迷っているように首をかしげた。
「……もしかして、わたしが里見リーダーを捕まえたら、梓沙にとって都合がいいことがあるの?」
慎重に訊ねてみると、梓沙は琴子から切りだしたことにほっとしたように笑みを浮かべた。
「そういうこと」
「何?」
「あることがうまくいったら話してあげる」
「梓沙、危ないことしてないよね?」
「少なくとも、プラヴィをやめなくちゃいけないようなことをするつもりはないから安心して」
里見が云った『安心してくれ』と同様、いまの梓沙の『安心して』もまったく安心した気持ちにさせてくれない。琴子が口を開きかけると――
「もう出たほうがよくない? 食事会では新参者だし、遅れて目立ちたくないでしょ」
という梓沙の助言はそのとおりだ。
琴子はスマホを見て時間を確認すると、鏡でもう一度メイクをチェックしたあと、卓上ミラーを閉じた。
「とりあえず、食事会では美味しいもの食べてくる」
「帰ってこなくてもいいよ」
「冗談でしょ」
「冗談だよ」
すました梓沙を軽く睨みつけて暗に咎め、それから琴子はため息をついて気分を切り替えると、バッグを持って外に出た。
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