恋愛コンプライアンス

奏井れゆな

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第2章 制御不能の狩り本能

5.

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 人と深く付き合うのは、以前は嫌いではなかった。むしろ、小学生になった頃から母と二人きりの生活で、繋がりを求めていたかもしれない。そういうときに出会ったのが、同じ境遇の梓沙だった。
 梓沙との関係は心地よくて、それが油断を招いたのだろう。父親は浮気をして家を出ていったすえに、次に現れたのは五年後、あまつさえ母に離婚届を突きつけた。そんな身勝手な前例があるにもかかわらず、琴子は大学時代にはじめて付き合うことになった人のことを疑わなかった。
 みんながみんな、そうとは限らない。それはすべてのことに当てはまる。頭ではわかっているけれど、琴子の中に“男”という生き物に対する反感が生まれた。つまり、男という生き物でなければ、普通に接することはできるのに、里見は男であろうとする。
「浜路さんだったかな、同居してるって云ってたけど実家は遠いところ?」
 デザートで出てきたクリームブリュレをつついていると里見が問いかけ、琴子は顔を上げた。
 里見はテーブルに肘をつき、組んだ手の甲に顎をのせている。どうやら、デザートに集中していた琴子はじっと眺められていたらしい。
「都内です。働き始めてから独立しました。母が再婚して、邪魔をしたくなかったので」
 きまり悪さを払おうとして、琴子は聞かれていないことまで話してしまう。
「実のお父さんは死別?」
 里見にとっては恰好の話題となったようで、具体的に問うてくる。
 これまで里見が話題を提供して、琴子が無愛想に応じるということを繰り返してきた。途絶えることなく話がある程度まで発展するのは、里見の社交力の賜物だ。おかげで居心地は悪くないけれど、時に、それは琴子にとって罠になり得ることを気づかされる。
「離婚です。父のことは、きっと街ですれ違ってもわからないと思います」
 深く訊かれてもこれ以上に答えられないし、答えたくもなく、琴子は先回りして簡潔に実情を云い、この話題はおしまいだという意思を暗にほのめかした。
 里見は少し首をひねるようなしぐさをした。バランスよく顔におさまった口が開く。
「な――」
「なるほど、って言葉はいりませんから。ヘンにわたしのことをわかったように納得してもらいたくありません。戦略室のスペシャリストだから分析は得意かもしれませんけど」
 一瞬、時が止まったかのように里見の表情が動きを止め、それから、ふっと笑みを漏らした。呆れたようにも見える。
 そのほうがいい。
 なんとも云いようのないわだかまりが心底に湧いて、琴子はそれを打ち消すように内心でつぶやいた。
らちが明かないな。おれを知ってもらおうと用事を見つけたり、人を交えて仕事外の時間を取ってみたりしたけど――」
 責めるようにも恩着せがましくも聞こえて、琴子が口を開きかけると、さっきとは立場が逆転して里見のほうが、「ああ、いい」と手のひらを掲げて制した。
「伊伏さんの云いたいことはわかる。プライドをズタズタにしてみろと云ったのはおれだ」
 確かに琴子が責め立てようとしたことだ。それを里見自らが云うと、またわだかまりが心底に沈滞する。
「これくらいでもうズタズタですか」
 沈殿しそうなもやもやを払拭しようとして、琴子は思わず口走ってしまった。追い打ちに聞こえるだろうし、ひょっとしたら侮辱とも受けとられかねない。
 身構えていると、里見は静かに笑みを浮かべるだけで、反論も怒ることもしなかった。
「食べて。邪魔して悪かった」
 里見は組んだ手をほどいて、自らもデザートに手をつけた。
 気まずい。それは、何かと話しかけていた里見が黙りこくった気配を漂わせているからだろう。もちろん、食べることと話すことはマナー違反でもあり、同時にはできない。けれど、里見がそうであるように、琴子も鈍感ではない。パリパリのキャラメリゼが香ばしい、せっかくのクリームブリュレがちゃんと味わえなかった。
「ごちそうさまでした」
 結局は、コーヒーを飲み終えたとたん、出よう、と云うまで、里見はひと言も喋らなかった。それは、怒っていることの裏返しだろうか。琴子はレストランを出ると、そのエントランスで礼を云った。
 軽く一礼をして顔を上げたとたん里見の顔が間近に寄ってきて、琴子は目を丸くした。
「嫌?」
 なんのことか判断がつかないうちに、わずかに里見の首がかしぐ。そのしぐさで見当がついた。琴子は無意識に軽く開いたくちびるに視線を落とす。すると、さらに顔が近づいた。避けるべきだ、とわかっているのに、琴子の躰は微動だにしない。
 少しの間を置いたのは、琴子の意思を確かめるためだったのか、そうして動かないことをどう解釈して見切ったのか、くちびるが琴子のくちびるに触れたかと思うとぺたりと覆われた。
 つかの間のキスは惜しむように吸着して離れていく。
「持ち帰っていい?」
 そんな質問は――
「――って訊くまでもない。いま、もらった。だろう?」
 と、里見は自分で結論をつけ、琴子の右手をさらうとその手を引いてさっさと歩きだした。
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