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第三章<空白の谷の魔女編>

10:霧の渓谷

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 突如として変わった景色に戸惑いつつ、まずは辺りに視線を巡らせてみる。
 目の前には川が流れているが、先ほどまでいた場所とは明らかに景観が異なっている。どうやら、本当に霧の中からどこかに転移したようだ。
 俺も腕輪で転移することがあるのだから、原理としては同じなのだろうが。何だか不思議な感覚だった。

「ここが、空白の谷なのか……?」

 転移前の視界を奪うような濃霧のうむほどではないものの、うっすらと霧がかかっている。先の方はぼやけていて何があるのかわからない。
 生き物がいるような気配もしないのだが、悪いものがいるような空気も感じないので、ひとまず危険はないのだろう。
 ただ、仲間たちの姿は目の届く範囲には見当たらなかった。はぐれてしまったのか、もしくは俺だけがこの場所に転移したのか。
 抱きかかえていたはずのヨルの姿も、どこにも無くなっていた。さっきは、声が聞こえたと思ったのに。

「ヨル……いないのか?」

 念のために声を掛けてみるが、鳴き声が返ってくる様子もない。
 ヨルがどこに行ってしまったのかは心配だったが、じっとしていても状況が変わるわけではないだろう。
 とはいえ、案内板があるわけでもない。どちらに進めば良いかわからなかったので、俺は前方へと歩き出してみる。
 少し霧がかかっているだけで、普通の場所と変わらないように見えるのだが、ここに魔女がいるのだろうか?

(もし、この状況で魔女に遭遇したとして、俺だけじゃ戦えない。話し合いに応じてくれるよう、説得できればいいんだけどな)

 最終的に和解できなかったとしても、話し合う余地すら与えてもらえなければどうにもならない。
 戦うどころか、そのまま記憶を消されて放り出されてしまえば、そこでおしまいだ。
 むしろその可能性の方が高いようにも感じられるのだが、俺やコシュカたちにだけは洗脳魔法が効いていない。
 だからこそ、それが良い方向へ転がってくれたら良いのだが。

 そんなことを考えながら歩いていると、俺の目の前に一人の男が現れる。
 魔女がやってきたのかと咄嗟に身構えたのだが、よく見ればそれは俺の知る人物だった。

「お前……もしかして鈴原、なのか……?」

 そこにいたのは、俺が元の世界で同僚として一緒に働いていた、鈴原という男だった。
 まさか、鈴原もこの世界に飛ばされてきたというのだろうか?
 驚く俺の姿を見ても鈴原が動揺することはなく、太い眉尻を吊り上げて彼は口を開いた。

「何やってんだ、市村。早くしないと取引先に遅れるだろうが!」

「え、取引先……?」

 彼の言うことが理解できずに目を丸くしていると、鈴原は俺の背中を押して強制的に歩かせようと圧をかけてくる。
 押されるまま歩き出した俺は、自分の身体を見下ろしてまたしても驚くことになる。
 いつの間にか、俺はスーツを身に着けていたのだ。
 手にはビジネスバッグと、包装された箱が入った紙袋もげられている。これは取引先への手土産だろうか。
 それだけではない。自然に囲まれていたはずの景色は、どういうわけだか人工的なビル群に変わっていた。

(そうだ……俺は、営業の得意先を回ってる最中だった)

 鈴原の言う通りだ。急がなければならないというのに、何をぼんやりしていたのだろうか。
 自分のやるべきことを思い出した俺は、腕時計を一瞥いちべつして待ち合わせの時間まで残り少ないことを確認する。
 かかとの擦り減った革靴で硬いコンクリートを蹴って、慌てて走り出した。

 時間にはどうにか間に合い、得意先を回って会社に戻る頃には、足腰はクタクタになっていた。
 しかし、帰ってきた俺の顔を見た途端、上司が開口一番に怒鳴り声を上げる。
 会社を出る前に、どうやら仕事の伝達ミスをしてしまっていたらしい。つばを飛ばしながら挙げられていくミスの中には、俺がやったわけではないものまで含まれていた。

 ミスが発覚した時に、先輩のやらかしたミスまでちゃっかり押し付けられたのだろう。
 だが、いつものことなので頭を下げながらやり過ごすことにした。
 俺がやったことではないと弁明したところで、上司の怒りが増すだけなのは経験上理解している。

(はあ……疲れたな)

 口には出せないが、溜め息が出るほど散々な一日だ。会社を出る時には、俺はすぐにでも横になりたい気持ちでいっぱいだった。
 だが、今日は週末だ。本来ならば華の金曜日だというのに、親睦会と称した飲み会は、自由という名の強制参加なのが恨めしい。
 ただでさえミスで評価が下がっている。上司の機嫌を取るために、飲みたくもない酒をしこたま飲まされた。

(……気持ち悪い)

 そうして、ギリギリで駆け込んだのは最終電車だ。いっそ徒歩で帰った方が良いかもしれないと思うほど、隙間なく人が押し込まれている。
 タクシーを使うことも考えたが、俺のふところにそんな余裕はない。あったとしても、週末のこの時間のタクシーを捕まえるのは至難の業だ。
 電車の揺れや、密集した人のニオイが気持ち悪い。きっと俺も酒臭いのだろうが、自分のことは棚に上げて早く最寄り駅に着いてほしいと願った。

 永遠かと思うほどに長く感じられた乗車時間だったが、解放された駅のホームで俺は大きく息を吐き出す。
 電車の中にはあんなに人がいたというのに、改札を抜ける頃には人の姿などどこにも見当たらなくなっていた。
 早く帰って寝てしまおう。シャワーを浴びるのは朝でもいい、今はとにかく横になりたい。
 そう考えながら急ぐ家路の途中で、いつも通り過ぎる公園に差し掛かった時だった。

「……?」

 そこには何もないはずなのに、俺の目はどうしてだかその公園に向く。
 終電も無くなるような時間なのだ、公園で遊ぶ人間などいるはずもない。だというのに。

(いつもそこに、何かいた気がするんだけどな……)

 疲れているのかもしれない。酔っ払っているし、思考が正常に働いていない可能性も十分にあるだろう。
 週末とはいえ、明日は休日出勤なのだ。貴重な時間をこんなところで無駄にしている場合ではない。
 そう思って公園を通り過ぎようとしたのだが、背後から何かが俺を呼んだ気がした。

「……気のせいか?」

 振り返ったところで、そこには何もいないはずなのに。
 暗闇の中。小さなふたつの満月が、俺のことを呼び留めているように見えたのだ。

「ッ……!!」

 ハッとして目を開けた俺は、晴れ晴れとした綺麗な青空を見上げている。
 ついさっきまで暗い住宅街を歩いていたと思ったのだが、俺は川辺に仰向けになって倒れていた。
 頭はまだぼんやりとしていて、ここは夢の中なのかもしれないと思う。

「痛っ……!」

 だが、頬をつねってみると、確かに痛みを感じることができた。どうやら、こちらが現実の世界のようだ。
 最初に野宿をしようとしていた川ではなく、亀裂から転移した後の渓谷で間違いないらしい。うっすらと辺りを覆っていた霧は晴れている。
 鈴原も、上司の姿もない。俺が先ほどまでいた見慣れた世界は、夢の中だったのだろうか?

「ミャウ」

「!? ヨル……! お前、無事だったのか」

 聞こえた鳴き声に頭の上を見ると、そこには俺を心配そうに覗き込むヨルの姿があった。
 どうやら、俺のことを起こそうとして鳴いていたらしい。夢の中で聞こえた声も、ヨルのものだったのかもしれない。
 今の光景はまるで、この世界に初めて来た時のようだと思った。

「ニャア」

「お前も一緒だったのか……! 他のみんなは、いないみたいだな」

 ヨルだけだと思っていたのだが、起き上がってみるとそこには印章猫スタンプキャットの姿もあった。
 腹の辺りに足跡がついているので、今しがたまで俺の上に乗っていたのかもしれない。
 コシュカたちの姿は見当たらないが、二匹が別の場所へ飛ばされていなかったというだけでも安心できた。

 俺の傍へやってきた二匹をそれぞれ撫でてやると、少し気持ちが落ち着いたような気がする。
 あんな夢を見たものだから、この世界でのこれまでのことが、全部自分の妄想なのかもしれないと思ってしまった。
 けれど、ヨルたちは確かに俺の傍に現実のものとして存在してくれている。

「ある意味では、現実逃避……だったのかな」

 本当に魔女を見つけることができるのか。見つけられたとして、洗脳魔法を解いてもらうことができるのか。
 やらなければならないと思っていても、心のどこかで不安を感じていたのかもしれない。
 元の世界での、見慣れたいつもの日常に戻ってしまえば、未知のものと戦う必要もなくなるのだから。

「けど、やるって決めたのは俺だ。お前たちが普通に暮らしていけるように……そして、俺自身のためにも」

「ニャウ?」

 きょとんとした顔で俺を見上げる印章猫スタンプキャットは、本当に人間に対する苦手意識を持っていないようだ。
 もしも、以前は誰かに飼われていたのだとしたら、洗脳を解いて飼い主の元へ帰してやりたい。
 愛情を注いで印章猫スタンプキャットと共に暮らしていた飼い主が、魔獣を恐れる対象だと思うようになっていたとしたら。こんなに悲しいことはないだろう。

 俺は立ち上がると、二匹が後を着いてきていることを確認しながら歩き出していく。
 今度こそ魔女を探すために、渓谷の中を進んでいった。
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