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プロローグ
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「そうは言っても、もう私たち二十二じゃん?おばさんだよ。大学に入ってきた新入生なんか見ると、『若いなあ』ってなるよね」
目の前のカウンターで、やけに明るい格好をした女がグラスを片手にそう言った。中の梅サワーは殆ど残っていなかった。少しだけ高くなっているこのキッチンからは、火照った体を乾かしたいと言わんばかりに露出された胸元がよく見えるが、性的な興奮は全く覚えなかった。隣に座る、これまた派手な色の女も上はそれほどでもないが、下は履いていないかと思わせる程短かったのを少し前に目の端で捕らえていた。
「十番卓に生一丁入りましたあ」キッチンの入口から中にいるスタッフに注文が伝えられる。ホールを担当するアルバイトの方がよっぽど可愛い。少なくとも安伸の天秤では目の前のギャル二人よりもホールの子の方が勝っていた。
「あいよ」と全員が口を揃えて返事をする。ドリンク担当が冷蔵庫からキンキンに冷えたグラスを取り出してサーバーから生ビールを注ぐ。最近では凍らせたグラスを出すような店も増えてきたが、個人的にはあまり好んではいなかった。飲むときにビールの中に薄い氷が混じっている感じが苦手なのだ。元々生ビール自体そんなに好きではないのだが。
それにしても、と安伸は思った。今日はやけに忙しい。確かに金曜日であるし、月末でもある。たくさんの客が来ることはバイトに来る前から想定していた。しかし、自分の手元にある注文票はいつもの三倍くらいある。少し余裕がなくなってきた。いつもこっそり聴いている客の会話を盗み聴くことはこれ以上できないようだ。
結局、その日安伸が全ての作業を終えたのは午前一時頃のことだった。店主と二人だけの店で賄いを食べる。何時間と忙しく動くことができたのもこの時間のためだったと言っても過言ではない。
本音を言えば、飲食店のアルバイトなんて色々大変になることが多く、割に合わないことの方が多い。それは浪人していた頃働いていた焼肉屋のバイトで散々思い知らされた。周りの友人の殆どは学習塾や家庭教師をしていて、単純な時給の比較なら彼らの方が多くもらっている。「準備時間とか面倒なことが多いよ」とよく言うが、こちらもこちらできついことあるのだからお相子、寧ろその分時給が伴っているのだから羨ましいくらいである。だが、こうも胃袋を掴まれてはなあ、とよくわからない溜め息が漏れる。
「下川、お前就職のほうはどうなっているんだ」BGMとして流れていた有線だけが響く部屋の中で、店長である鵜飼の声が聞こえた。安伸も気が付けば大学四年生、しかも残り半年を切っているにもかかわらず、今のところ内定を出してくれた企業は一つもない。同期のアルバイトや大学の友人が先に内定をもらっているせいか鵜飼も気にしているようである。安伸自身は現状について焦りを覚えるといったことはなかった。他人は他人だと割り切っている。熱がないという表現が適当かもしれない。将来何かしたいわけじゃない。唯一願うとするならば、自分の望むままに生きていきたいということぐらいだ。その中には職に就いてまで叶えたいことはないのである。
しかし、そんな子供のようなことを言っていられる歳でもない。小言を言われたくもないし、そろそろ決めなければならない。「もっと面接を分析した方が良いぞ」というアドバイスに適当に相槌を打ちながら安伸は流し込むように賄いを食べ終え、帰宅に至った。風が妙に冷たくなっているような気がした。
職場までは自転車で通っている。丁度一駅分離れているが、実際そんなに遠いと思ったことは一度もなかった。客と話していると「大変だねえ」と同情されるが、全くもって意味が分からなかった。そもそも更に一駅先の大学にも自転車で通っているのだから、その手前にある職場が遠いと感じるはずもなかった。
「ただいま、っと」誰もいない暗い部屋の中で呟く。当然のことながら返事はない。時計を見ると、既に短針は「2」のところに来ていた。普通ならば寝ている時間なのだが、さすがに飯を食べてから一時間も経っていない。幸い、明日の朝は何の予定もない。適当に時間を潰して昼くらいまで寝ればいい。そんなことを考えながらスマホを開いた。特に何か目的があるわけではなく、通知のランプが光っていたせいだった。メッセージの送り主は「あゆみ」だった。さして珍しい相手ではなかったが、何故か安伸は嫌な予感がした。
山根安祐美と安伸は簡単に言えば腐れ縁の仲だ。小学生の頃からの付き合いで、高校こそは別だったので疎遠ではあったのだが、大学に入学して同じ学校に通うことになるのだと知った。同じ所から出て来て二人とも下宿だと言うのだから世間は狭いものだと思ったのは言うまでもない。
面識のある人物、しかもそれなりに長い付き合いのあるとなれば疎遠だった三年などないに等しかった。一人暮らしの仲間というのは貴重である上に、同郷からの仲間がいることは知らない人間の方が多い土地で暮らすには心強かった。今では月に一回くらいのペースでどちらかの家で飲みに付き合わされる。
『明日なんだけど、そっちが時間あるなら前言ってたプレゼント買いに行かない?』可愛いスタンプが添えられたメッセージにはそのような内容が記されていた。「何故よりによって、明日なんだ」と思わずにはいられなかった。こっちは疲れているから休みたいのだが、という気持ちは伝わるわけもない。
『プレゼント』というのは今月末にある友一の誕生日に送るものだ。安祐美が安伸に送ったことに始まり、祝われる者以外が合同でプレゼントを買いに行くことは今では毎年の恒例行事のようになっている。
志村友一は安伸が最初に大学で出会った友人だ。苗字が「下川」と「志村」のため、出席番号で前後になったことがきっかけであった。話してみると、何となく気が合い、頻繁に遊びに出かけ、安祐美との飲み会のゲストとしても声をかけることも多い。さすがに、男女が家の中で一対一で過ごすことができるほど安伸の『経験値』は高くなかったのである。
本来ならば今すぐ断りの返信をしたかったのだが、後回しにしてもそれはそれで面倒くさい。渋々だったが、安祐美には了解という趣旨の返信をした。
明かりを消して、狭い部屋の半分くらいを占領しているベッドに横たわり、何をプレゼントしようか考えた。安祐美のことだ、恐らく何も考えていないだろう。下手に歩き回る時間を減らした方が効率が良い。しかも同じ男子の自分が先導した方が選びやすいだろう。とはいえ、友一が何かを欲しがっていたという記憶はない。
「どうしたものかなあ」
誰が聞くわけでもないその呟きを反芻しながら、友一は眠りについた。
目の前のカウンターで、やけに明るい格好をした女がグラスを片手にそう言った。中の梅サワーは殆ど残っていなかった。少しだけ高くなっているこのキッチンからは、火照った体を乾かしたいと言わんばかりに露出された胸元がよく見えるが、性的な興奮は全く覚えなかった。隣に座る、これまた派手な色の女も上はそれほどでもないが、下は履いていないかと思わせる程短かったのを少し前に目の端で捕らえていた。
「十番卓に生一丁入りましたあ」キッチンの入口から中にいるスタッフに注文が伝えられる。ホールを担当するアルバイトの方がよっぽど可愛い。少なくとも安伸の天秤では目の前のギャル二人よりもホールの子の方が勝っていた。
「あいよ」と全員が口を揃えて返事をする。ドリンク担当が冷蔵庫からキンキンに冷えたグラスを取り出してサーバーから生ビールを注ぐ。最近では凍らせたグラスを出すような店も増えてきたが、個人的にはあまり好んではいなかった。飲むときにビールの中に薄い氷が混じっている感じが苦手なのだ。元々生ビール自体そんなに好きではないのだが。
それにしても、と安伸は思った。今日はやけに忙しい。確かに金曜日であるし、月末でもある。たくさんの客が来ることはバイトに来る前から想定していた。しかし、自分の手元にある注文票はいつもの三倍くらいある。少し余裕がなくなってきた。いつもこっそり聴いている客の会話を盗み聴くことはこれ以上できないようだ。
結局、その日安伸が全ての作業を終えたのは午前一時頃のことだった。店主と二人だけの店で賄いを食べる。何時間と忙しく動くことができたのもこの時間のためだったと言っても過言ではない。
本音を言えば、飲食店のアルバイトなんて色々大変になることが多く、割に合わないことの方が多い。それは浪人していた頃働いていた焼肉屋のバイトで散々思い知らされた。周りの友人の殆どは学習塾や家庭教師をしていて、単純な時給の比較なら彼らの方が多くもらっている。「準備時間とか面倒なことが多いよ」とよく言うが、こちらもこちらできついことあるのだからお相子、寧ろその分時給が伴っているのだから羨ましいくらいである。だが、こうも胃袋を掴まれてはなあ、とよくわからない溜め息が漏れる。
「下川、お前就職のほうはどうなっているんだ」BGMとして流れていた有線だけが響く部屋の中で、店長である鵜飼の声が聞こえた。安伸も気が付けば大学四年生、しかも残り半年を切っているにもかかわらず、今のところ内定を出してくれた企業は一つもない。同期のアルバイトや大学の友人が先に内定をもらっているせいか鵜飼も気にしているようである。安伸自身は現状について焦りを覚えるといったことはなかった。他人は他人だと割り切っている。熱がないという表現が適当かもしれない。将来何かしたいわけじゃない。唯一願うとするならば、自分の望むままに生きていきたいということぐらいだ。その中には職に就いてまで叶えたいことはないのである。
しかし、そんな子供のようなことを言っていられる歳でもない。小言を言われたくもないし、そろそろ決めなければならない。「もっと面接を分析した方が良いぞ」というアドバイスに適当に相槌を打ちながら安伸は流し込むように賄いを食べ終え、帰宅に至った。風が妙に冷たくなっているような気がした。
職場までは自転車で通っている。丁度一駅分離れているが、実際そんなに遠いと思ったことは一度もなかった。客と話していると「大変だねえ」と同情されるが、全くもって意味が分からなかった。そもそも更に一駅先の大学にも自転車で通っているのだから、その手前にある職場が遠いと感じるはずもなかった。
「ただいま、っと」誰もいない暗い部屋の中で呟く。当然のことながら返事はない。時計を見ると、既に短針は「2」のところに来ていた。普通ならば寝ている時間なのだが、さすがに飯を食べてから一時間も経っていない。幸い、明日の朝は何の予定もない。適当に時間を潰して昼くらいまで寝ればいい。そんなことを考えながらスマホを開いた。特に何か目的があるわけではなく、通知のランプが光っていたせいだった。メッセージの送り主は「あゆみ」だった。さして珍しい相手ではなかったが、何故か安伸は嫌な予感がした。
山根安祐美と安伸は簡単に言えば腐れ縁の仲だ。小学生の頃からの付き合いで、高校こそは別だったので疎遠ではあったのだが、大学に入学して同じ学校に通うことになるのだと知った。同じ所から出て来て二人とも下宿だと言うのだから世間は狭いものだと思ったのは言うまでもない。
面識のある人物、しかもそれなりに長い付き合いのあるとなれば疎遠だった三年などないに等しかった。一人暮らしの仲間というのは貴重である上に、同郷からの仲間がいることは知らない人間の方が多い土地で暮らすには心強かった。今では月に一回くらいのペースでどちらかの家で飲みに付き合わされる。
『明日なんだけど、そっちが時間あるなら前言ってたプレゼント買いに行かない?』可愛いスタンプが添えられたメッセージにはそのような内容が記されていた。「何故よりによって、明日なんだ」と思わずにはいられなかった。こっちは疲れているから休みたいのだが、という気持ちは伝わるわけもない。
『プレゼント』というのは今月末にある友一の誕生日に送るものだ。安祐美が安伸に送ったことに始まり、祝われる者以外が合同でプレゼントを買いに行くことは今では毎年の恒例行事のようになっている。
志村友一は安伸が最初に大学で出会った友人だ。苗字が「下川」と「志村」のため、出席番号で前後になったことがきっかけであった。話してみると、何となく気が合い、頻繁に遊びに出かけ、安祐美との飲み会のゲストとしても声をかけることも多い。さすがに、男女が家の中で一対一で過ごすことができるほど安伸の『経験値』は高くなかったのである。
本来ならば今すぐ断りの返信をしたかったのだが、後回しにしてもそれはそれで面倒くさい。渋々だったが、安祐美には了解という趣旨の返信をした。
明かりを消して、狭い部屋の半分くらいを占領しているベッドに横たわり、何をプレゼントしようか考えた。安祐美のことだ、恐らく何も考えていないだろう。下手に歩き回る時間を減らした方が効率が良い。しかも同じ男子の自分が先導した方が選びやすいだろう。とはいえ、友一が何かを欲しがっていたという記憶はない。
「どうしたものかなあ」
誰が聞くわけでもないその呟きを反芻しながら、友一は眠りについた。
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