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第一章
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ロッカーの反対側、この部屋に月明かりを取り込んでいる大きな窓の先に室内灯の色を見つけるのは容易なことであった。位置としては資料室の場所だった。
安伸の研究室はロの字型の建物の一辺の真ん中にあたり、これを中心とした研究室の並びの反対側に全ての資料や実験器具が保管されている部屋がある。建物の真ん中には中庭があり、これを挟んでいる形となっている。
安伸は反射的に身体を屈めて自分の存在を隠した。その可能性は考えていなかった。
もしかすると、向こうにはもう気が付かれたのかもしれない。最悪の場合、事情を説明しなければならないだろう。しかし悪いことをしているわけではない。正直に話して理解してもらえない相手ではないだろう。
体勢を低くしたまま、安伸は窓に近付いた。椅子や荷物が障害物となり、日頃からもう少し片付けておけば良かったと後悔した。
窓の下に身を潜め、壁に背中を付けた。首だけ振り返りながらできるだけ顔を出さないようにして向こう側の様子を確認した。
資料室の窓にはブラインドがついていたが、今は前回にされているため中の様子は丸わかりだった。
―なぜ、お前がここに。
【彼】の存在を認識するまでに大した時間はかからなかった。奥には犯罪心理学の奥村がいる。それでも、どうして二人がこの時間に同じ部屋にいるのかわからなかった。
いくら【彼】が奥村のゼミに所属しているとはいえ、こんな時間に卒論の相談をするとは考えにくい。そこまで切羽詰まった状態ではないと聞いている上に、まだ時期としても余裕がある。一体何の用があるのだろう。
その刹那、あらゆる予想は無に還ることになる。
【彼】がポケットから何かを奥村に近寄り、二人の影が重なると、その勢いのままに奥村が倒れこんだ。一瞬だけ間が開いて【彼】は逃げるようにして資料室を飛び出した。
何が起きたのか理解できなかった。安伸からは倒れた奥村の様子を見ることができなかったが、起き上がらない様子からして只事ではないことは確かに思えた。
足音がこちらの方に向かってくる。安伸は窓から離れて体を固くした。気付かれている気配はなかった。おそらくこの時間に誰かがいることは想定していないはずだ。大きくなっていくその音は恐怖心をあおった。心臓は早く動いているにもかかわらず体には寒気が走った。
ほんの数秒の出来事でも、その時間は恐ろしいほどに長く感じた。
身動きと息を殺しているうちに【彼】は通り過ぎたようで、再び安伸の周りの空気は静けさに支配された。
もう一度窓からそっと資料室を覗き込む。安伸が最後に見た景色と何も変化はない。誰もいない資料室に電気だけが点いている。
起こった事象はシンプルであったのに、情報量は安伸の思考の臨界点を優に越えていた。
「何も見ていない」安伸しかいない部屋の中で誰かの声が聞こえた。
その後の記憶はぼんやりとしか残っていなかった。
気が付けば自分の家の前に安伸は立っていた。ドアノブに手をかけた状態で立ち止まっている。
ほんの少しだけ様子を覗いただけで何がわかるというのだろう。
目の前に広げられた光景には何か別の理由があったのかもしれない。
そもそも目撃したものさえも嘘なのかもしれない。
実は何も見ていないのに、あたかも見たような記憶があるだけなのかもしれない。
大きく息を吐いた。ぼやけていた視界は鮮明なものに変わっていった。
「ただいま」
「お疲れさま。こんな時間まで大変だったな」友一はテレビを見たまま顔だけ安伸の方に向けた。
部屋の時計に目をやる。時刻は一時を回っていた。もしも本当にこの時間まで働いていたならとてつもない疲労に押しつぶされていただろう。
「たまにあるんだよ、こういう日が」ベッドにうつ伏せで飛び込む。自分の体の象るようにマットが沈み込む。
「賑わっているなら良いことじゃないか」
「それはそうなんだけど」別件もあって疲れてるんだ、とは口が裂けても言えない。
「まあ、明日に響かないように早めに寝るか。マモルはその格好のまま寝るのか?」
「ああ、もう限界来てるわ。たから悪いけど、自分の布団は敷いてもらって良い?布団の場所わかるだろ?」客人用の布団はクローゼットの中にしまってある。幾度となく見ているはずだから今更わからないということはないだろう。
「いつものようにやっとけばいいんだろ?」
「ああ、頼むわ」安伸は掛け布団を頭を覆う程まで被った。
肉体的にも精神的にも過去に経験したことのない段階に達していた。疲弊した体は何も意識することなく微睡みの中へと誘われるはずだった。
それでも、瞼の裏には焼き付いて離れない光景があった。
どんなに非現実だと思っても、最悪の事態が起こっている可能性を捨てきれないのだ。
一晩中それらのせめぎ合いの狭間で振り回されて、翌朝の目覚めが心地よいものになるはずがなかった。こんな気分のままサプライズを敢行するとは思ってもいなかった。
ベッドから落ち武者のような動きで這い出ると、脇に置いていたスマホを掴み、ぼやけた目を擦りながらメッセージを送った。
『今日は頼んだ。こっちに何か動きがあったら連絡するが、何もなければ手筈通りでお願い。完了したら連絡よこして』
入念な脳内シミュレーションと下準備のおかげか腐敗した頭でもなすべきことは理解できていた。一度流れに乗ってしまえば、調子を取り戻せるような期待感が膨らんだ。
「マモル、早いな」友一は布団の中から顔だけ出していた。時刻はまだ七時前だった。
「何だか目が覚めちゃってな。また寝ると起きれないかもしれないからこのまま起きておくことにするわ」
「なら、俺も起きますかね」友一は体を振り子のようにして振ると、その勢いのまま起き上がった。高校時代に体操をやっていたというだけあって、動きのしなやかさはあっぱれという他なかった。
「別に起こすから俺に合わせて起きなくても大丈夫だぞ」
「いや、ここんとこ生活リズム狂ってたし、この際だから早起きを習慣付けるようにするわ」
「二十二歳の抱負、早起き、ってか?」
「さすがにそんな小さなところを抱負にしないわ」寝ぼけ眼を潰して友一は微笑みかけてくる。
「じゃあ、何にするんだよ」
「特に決めてないけどな。これから先どうなるかわからないし」
「まあ、就職した後どんな感じで働くのかなんて想像つかないもんな」
中学から高校、高校から大学へと進学する時は学び舎の場所が違えども、おおよその姿というものを頭の中に描くことができた。それは何も安伸に限った話ではない。多くの就職を控えた大学生はまだ見ぬ「社会」という名の未知の領域に期待や不安を抱き、今という時間を過ごしていることだろう。どんなに時間が経っても新生活が始まるまでこの感情を消すことはできない。
「今はまだ残された大学生という時間を楽しむことしか考えてないよ」
「…間違いないな」安伸の胸の中にしこりが生まれたような感覚があった。痛いところを突かれたなと思った。
現実から逃げるようにテレビを点けた。
大学に入って、友一や安祐美に限らず友人たちと過ごす時間の中で少しずつ育てられた感情がある。
『劣等感』
そんな大層な名前で呼ぶのもおこがましい気さえする。要は自分の醜さの露出なのだ。同じ場所にいて、同じ話題で話していても、その片鱗から感じるのは自分には持ち合わせていない才能や能力といった手が届かない人の本質の違いだった。いや、根本的には自分が劣っているだけなのかもしれない。これまでの学校生活の中では感じることができず、今になってやっと顔を出しただけなのかもしれない。
それでも、何気ない日常の中でふとした瞬間に訪れる、ちくりと小骨が刺さったような痛みはいつしか自分の存在に対する嫌悪感へ形を変えて胸の中に住み着いたのだった。
台所でコーヒーを淹れながら溜め息をこぼした。いつもなら二つずつ入れる砂糖とミルクを一つずつ減らした。
友一の分のカップと共にリビングへ戻ると、友一はテレビの前で固まっていた。
さっきまでと違う痛みが走った気がした。
「どうしたんだ、何か気になるニュースでもやってるのか」
その問いに対する返答はなかった。
テレビの画面にはこのように表示されていた。
『深夜の大学で何が。大学教授刺殺事件現場より中継』
安伸の研究室はロの字型の建物の一辺の真ん中にあたり、これを中心とした研究室の並びの反対側に全ての資料や実験器具が保管されている部屋がある。建物の真ん中には中庭があり、これを挟んでいる形となっている。
安伸は反射的に身体を屈めて自分の存在を隠した。その可能性は考えていなかった。
もしかすると、向こうにはもう気が付かれたのかもしれない。最悪の場合、事情を説明しなければならないだろう。しかし悪いことをしているわけではない。正直に話して理解してもらえない相手ではないだろう。
体勢を低くしたまま、安伸は窓に近付いた。椅子や荷物が障害物となり、日頃からもう少し片付けておけば良かったと後悔した。
窓の下に身を潜め、壁に背中を付けた。首だけ振り返りながらできるだけ顔を出さないようにして向こう側の様子を確認した。
資料室の窓にはブラインドがついていたが、今は前回にされているため中の様子は丸わかりだった。
―なぜ、お前がここに。
【彼】の存在を認識するまでに大した時間はかからなかった。奥には犯罪心理学の奥村がいる。それでも、どうして二人がこの時間に同じ部屋にいるのかわからなかった。
いくら【彼】が奥村のゼミに所属しているとはいえ、こんな時間に卒論の相談をするとは考えにくい。そこまで切羽詰まった状態ではないと聞いている上に、まだ時期としても余裕がある。一体何の用があるのだろう。
その刹那、あらゆる予想は無に還ることになる。
【彼】がポケットから何かを奥村に近寄り、二人の影が重なると、その勢いのままに奥村が倒れこんだ。一瞬だけ間が開いて【彼】は逃げるようにして資料室を飛び出した。
何が起きたのか理解できなかった。安伸からは倒れた奥村の様子を見ることができなかったが、起き上がらない様子からして只事ではないことは確かに思えた。
足音がこちらの方に向かってくる。安伸は窓から離れて体を固くした。気付かれている気配はなかった。おそらくこの時間に誰かがいることは想定していないはずだ。大きくなっていくその音は恐怖心をあおった。心臓は早く動いているにもかかわらず体には寒気が走った。
ほんの数秒の出来事でも、その時間は恐ろしいほどに長く感じた。
身動きと息を殺しているうちに【彼】は通り過ぎたようで、再び安伸の周りの空気は静けさに支配された。
もう一度窓からそっと資料室を覗き込む。安伸が最後に見た景色と何も変化はない。誰もいない資料室に電気だけが点いている。
起こった事象はシンプルであったのに、情報量は安伸の思考の臨界点を優に越えていた。
「何も見ていない」安伸しかいない部屋の中で誰かの声が聞こえた。
その後の記憶はぼんやりとしか残っていなかった。
気が付けば自分の家の前に安伸は立っていた。ドアノブに手をかけた状態で立ち止まっている。
ほんの少しだけ様子を覗いただけで何がわかるというのだろう。
目の前に広げられた光景には何か別の理由があったのかもしれない。
そもそも目撃したものさえも嘘なのかもしれない。
実は何も見ていないのに、あたかも見たような記憶があるだけなのかもしれない。
大きく息を吐いた。ぼやけていた視界は鮮明なものに変わっていった。
「ただいま」
「お疲れさま。こんな時間まで大変だったな」友一はテレビを見たまま顔だけ安伸の方に向けた。
部屋の時計に目をやる。時刻は一時を回っていた。もしも本当にこの時間まで働いていたならとてつもない疲労に押しつぶされていただろう。
「たまにあるんだよ、こういう日が」ベッドにうつ伏せで飛び込む。自分の体の象るようにマットが沈み込む。
「賑わっているなら良いことじゃないか」
「それはそうなんだけど」別件もあって疲れてるんだ、とは口が裂けても言えない。
「まあ、明日に響かないように早めに寝るか。マモルはその格好のまま寝るのか?」
「ああ、もう限界来てるわ。たから悪いけど、自分の布団は敷いてもらって良い?布団の場所わかるだろ?」客人用の布団はクローゼットの中にしまってある。幾度となく見ているはずだから今更わからないということはないだろう。
「いつものようにやっとけばいいんだろ?」
「ああ、頼むわ」安伸は掛け布団を頭を覆う程まで被った。
肉体的にも精神的にも過去に経験したことのない段階に達していた。疲弊した体は何も意識することなく微睡みの中へと誘われるはずだった。
それでも、瞼の裏には焼き付いて離れない光景があった。
どんなに非現実だと思っても、最悪の事態が起こっている可能性を捨てきれないのだ。
一晩中それらのせめぎ合いの狭間で振り回されて、翌朝の目覚めが心地よいものになるはずがなかった。こんな気分のままサプライズを敢行するとは思ってもいなかった。
ベッドから落ち武者のような動きで這い出ると、脇に置いていたスマホを掴み、ぼやけた目を擦りながらメッセージを送った。
『今日は頼んだ。こっちに何か動きがあったら連絡するが、何もなければ手筈通りでお願い。完了したら連絡よこして』
入念な脳内シミュレーションと下準備のおかげか腐敗した頭でもなすべきことは理解できていた。一度流れに乗ってしまえば、調子を取り戻せるような期待感が膨らんだ。
「マモル、早いな」友一は布団の中から顔だけ出していた。時刻はまだ七時前だった。
「何だか目が覚めちゃってな。また寝ると起きれないかもしれないからこのまま起きておくことにするわ」
「なら、俺も起きますかね」友一は体を振り子のようにして振ると、その勢いのまま起き上がった。高校時代に体操をやっていたというだけあって、動きのしなやかさはあっぱれという他なかった。
「別に起こすから俺に合わせて起きなくても大丈夫だぞ」
「いや、ここんとこ生活リズム狂ってたし、この際だから早起きを習慣付けるようにするわ」
「二十二歳の抱負、早起き、ってか?」
「さすがにそんな小さなところを抱負にしないわ」寝ぼけ眼を潰して友一は微笑みかけてくる。
「じゃあ、何にするんだよ」
「特に決めてないけどな。これから先どうなるかわからないし」
「まあ、就職した後どんな感じで働くのかなんて想像つかないもんな」
中学から高校、高校から大学へと進学する時は学び舎の場所が違えども、おおよその姿というものを頭の中に描くことができた。それは何も安伸に限った話ではない。多くの就職を控えた大学生はまだ見ぬ「社会」という名の未知の領域に期待や不安を抱き、今という時間を過ごしていることだろう。どんなに時間が経っても新生活が始まるまでこの感情を消すことはできない。
「今はまだ残された大学生という時間を楽しむことしか考えてないよ」
「…間違いないな」安伸の胸の中にしこりが生まれたような感覚があった。痛いところを突かれたなと思った。
現実から逃げるようにテレビを点けた。
大学に入って、友一や安祐美に限らず友人たちと過ごす時間の中で少しずつ育てられた感情がある。
『劣等感』
そんな大層な名前で呼ぶのもおこがましい気さえする。要は自分の醜さの露出なのだ。同じ場所にいて、同じ話題で話していても、その片鱗から感じるのは自分には持ち合わせていない才能や能力といった手が届かない人の本質の違いだった。いや、根本的には自分が劣っているだけなのかもしれない。これまでの学校生活の中では感じることができず、今になってやっと顔を出しただけなのかもしれない。
それでも、何気ない日常の中でふとした瞬間に訪れる、ちくりと小骨が刺さったような痛みはいつしか自分の存在に対する嫌悪感へ形を変えて胸の中に住み着いたのだった。
台所でコーヒーを淹れながら溜め息をこぼした。いつもなら二つずつ入れる砂糖とミルクを一つずつ減らした。
友一の分のカップと共にリビングへ戻ると、友一はテレビの前で固まっていた。
さっきまでと違う痛みが走った気がした。
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