月夜の陰で悪魔と踊る

月居契斗

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「わ、私ずっと…立花くんのことが好きだったの」
 ジメジメと鬱陶しいばかりの梅雨が過ぎ、初夏の爽やかな風が吹き出した頃、安月は生まれて初めて異性からの告白を受けた。場所は大学の構内。今はひと気もなく、シンとした階段の踊り場だった。梅雨が明けて一気に夏に近付いた気候のおかげで明るさを失っていない踊り場は、まるで本番中の舞台のように二人の影をくっきりと浮かび上がらせている。
「あっ、ご、ごめんなさい、私ったら名乗りもせずに…っ」
「え、あ、いや、うん…」
 顔を赤く染め上げて慌てふためく少女に、安月もつられて頬をうっすらと赤く染めて視線を泳がせた。心臓の鼓動が胸を突き破りそうなくらい大きく高鳴っていて、安月はこっそりと深呼吸をした。
「同じ選択授業だったよね?」
 問いかけられた少女は、肩より少し下で切り揃えた毛先をふわりと揺らして何度も頷く。
「知ってたの…?」
「顔に見覚えがあったから。でも名前までは、ごめん…」
「ううん。それでも嬉しいから」
 頬を染めたままはにかんだ少女は黒崎紗奈と名乗った。まだ入学したての頃、授業中に落としてしまった消しゴムを偶然安月が拾ってくれたのが嬉しくて、それ以来安月のことを目で追うようになったのだと彼女は言った。
 紗奈はおとなしく目立たないタイプだが、どちらかと言うと都会の雰囲気に染まりきった派手な女性が苦手な安月は、そんな彼女から告白されて悪い気などしない。
 けれど正直、顔を見たことがあるという程度の相手だ。好きだと言われて舞い上がる気持ちはあるものの、すぐに恋人になりましょうとはいかない。少なくとも安月にとって、女の子とのお付き合いは未経験で期待以上に不安も大きい。
「えーっと…とりあえず、お友達からはじめる?」
「う、うんっ、お願いします!」
 何度も頷く紗奈の顔を見て可愛いなと素直に思う。安月はひとまず連絡先を交換すると、今日はこれからバイトがあることを伝えてその場を離れた。
「また、明日」
 そう言って手を振りながら笑う紗奈は、目立つことはないものの小花のような素朴な可憐さがある。紗奈に手を振り返した安月は、スキップをしたくなるような心地のまま大学を出てバイト先へと向かった。
 大学の最寄り駅のすぐ傍にある商店街の一角に軒を構えていて、口数が少なくてやや厳つい顔の大将と、正反対に愛想の良い女将が夫婦二人で営んでいる惣菜店がそうだ。大将が修行を積んだ和食店は界隈ではそこそこ有名な店だったらしいが、今まで和食にあまり興味を持ったことのない安月は店の名前を教えられてもピンとこなかった。
 当然ながら大将が作る惣菜は商店街を賑わす奥様方にも好評で、特に分厚いだし巻き玉子は注文を受けてから焼き上げるために風味が損なわれず、大人から子供にまで大人気の逸品だ。面接の際に好意で味見をさせてもらったことで、安月も大将特製だし巻き玉子のおいしさは知っている。
 たっぷりとだしを混ぜた卵液を使い込んだ四角い玉子焼き器で手早く焼き上げる手付きは、まさに職人技と言うしかない見事さだった。
 商店街全体が賑わう時間帯でさえ厨房はすべて大将が一人で仕切っているのだが、手を出す隙などどこにも見えないほど動きは洗練されている。そのおかげで今までは何とか二人だけでも店を回すことができていたのだが、今年の春から一人娘の亜季が入園することになり、そのお迎えの時間がちょうど店が忙しくなる時間帯と重なって、さすがに困ってバイト募集をすることになったのだそうだ。
「お疲れ様でーす」
 手書き風の筆文字で店名が書かれた暖簾を潜った安月を迎えたのは、甘辛い醤油の芳醇な香りだった。魚の煮付けの匂いだろうか。とんでもなく食欲をそそる香りに空きっ腹を刺激されながら、安月はわざわざ自分のために用意された荷物入れに鞄を押し込み、私服のシャツの上からエプロンを被って店頭に向かう。
「安月くん、今日もお願いね」
「はい。いってらっしゃい、奈津美さん」
 安月が店頭に立つと、女将こと奈津美はエプロンを外しながら、お迎えの支度をするため店の奥の居住スペースへと消えていった。
 まだ慣れない手付きでエプロンの腰紐を結んだ安月は気を引き締める。ここからは戦場と言ってもいい。
 商店街の中にあるこぢんまりしたスーパーが夕方の割引セールを開始する頃合を見計らって、どこからともなく集まってくる奥様方の熱気で辺りは俄かに騒がしくなる。それに比例して喧騒もボリュームを増し、この惣菜店だけでなく周囲の食品を扱う店は一人でも多くの客を迎えようとざわつき出した。
「いらっしゃいませー!」
 どこかの店員が呼び込みの声を張るのにつられて、安月も負けじと声を出した。バイトをするようになってすぐの頃はまだまだ恥ずかしさが勝っていたものの、三日としないうちに慣れた。慣れなくては到底やっていけなかった。
「安月ちゃん、今日のオススメは何かしら?」
 話しかけてきたのは、トミさんというあだ名で呼ばれている中年の女性客だった。彼女の手には早くも戦利品らしい卵のパックが入った買い物袋がある。それを見て、安月も自分の部屋の冷蔵にしまわれた卵の残りが少なかったことを思い出した。帰りに買うのを忘れないようにと頭の隅で考えながら、安月はトミさんに向かって笑みを浮かべる。
「今日はカレイの煮付けが一押しですよ。ここにいるだけでもずっといい匂いがしてて、さっきからおなかが鳴りっぱなしです」
 やや小振りではあるものの、煮詰められた醤油ベースのたれが滲みたカレイはきっとふんわりとした口当たりだろう。想像するだけでも腹の虫が騒いでしまう。
 安月がこのバイトを選んだのには理由が二つある。
 ひとつ目は大学の最寄り駅の商店街ということで交通費がかからず通いやすかったこと。二つ目は運良く売れ残っている惣菜があれば、バイト終わりに少し分けてもらえること。
 通常、一人暮らしの男子大学生はわざわざ家で自分のためだけに自炊なんて手間のかかることはしたがらない。安月も例に漏れず、一人暮らしをしてる間の食事に気を付けようとは思ってなどいなかった。
 それでなくとも決して安くはない家賃を工面することに頭を悩ませている毎日なのだ。父に負担をかけたくない一心でせめて家賃だけは自分で払うと断言してみたものの、毎月の家賃を不足なく払えるだけの金額を稼ぐのはなかなかに大変なことだと思い知った。
 大学で講義を受けて、バイトをして、家に帰ってから自炊なんてやる気力も体力もない。友人達がまかない付きのバイトを薦めてきた理由がよくわかった。
「じゃあ、カレイの煮付けを三切れもらおうかしら。あとは…」
 トミさんは安月の正直な意見を聞き、カレイの煮付けとだし巻き玉子、里芋とイカの煮ころがしを購入してくれた。彼女を見送ったのを皮切りに、顔馴染みになった主婦達で店先が騒がしくなる。アーケードの通路にまで漂う香りのおかげでカレイの煮付けはあっという間に売り切れた。
 客達のほとんどがだし巻き玉子を注文するものだから、大将も相当忙しかっただろう。それでも彼は厳つい顔付きを崩すことなく、黙々とだし巻き玉子を焼き続けた。彼を見習い、客を待たせられないと内心意気込む安月は婦人方の会話にたびたび巻き込まれながらも、商品を渡しては代金をもらい、おつりを返し、嬉しそうに帰っていく後ろ姿を見送る。
 それをひたすら繰り返していると、奈津美が娘の小さな手を握りながら帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「ただいまー」
 奈津美の声に被さる幼い声。
 人見知りしない性格の亜季は自分の名前と似ているからという理由で安月に随分と懐いてくれていて、最初こそ幼い子供への接し方がわからなかった安月も、今では亜季を心から可愛いと思っている。
「おかえりなさい、奈津美さん、亜季ちゃん」
「あつき、今日もばいとありがと!」
「どういたしまして」
 にこにこと笑って母親の真似をする亜季は、奈津美に「安月おにいちゃん、でしょう?」と窘められても聞こえないふりだ。拙く呼び捨てにされることにも慣れた安月は笑って亜季の頭を撫でた。
 夕食の支度をするために居住スペースへと引っ込んだ母親の後を追いかけていく亜季の後ろ姿を見つめ、歳の離れた妹がいたらこんな感じだろうかと、安月は微笑ましく目を細めた。
 奈津美が食事の支度をしている間も客足は途絶えず、惣菜を盛り付けていたあちこちの器が空になっていく。手が空いた隙に器を流しに移動させ、洗うのは後回しにして客の相手をして、そうして忙しく動いているうちに気付けば買い物客の波も落ち着いたようだ。
「安月くん、ありがとう」
「いえいえ。煮付けは完売で、煮物と和え物が少しと、揚げだし豆腐があと一パックだけです」
「あら、今日もたくさん売れたのねぇ。安月君が店番してくれるようになってから売り切れるのが早くなったわ」
 そんなこともないと思うが、安月はほんのりと照れ笑った。
 手馴れた様子でエプロンを着けた奈津美に店番を譲り、洗い物を担当する。移動し切れなかった空の器を陳列ケースから抜いてシンクに置いて汚れが残らないようにしつつも手際よく洗い上げて水気を切り、次の器へと手を伸ばす。実家で食器洗いをしていたこともあって洗い物はそれほど苦とは思わないし、空っぽになった器を見ると嬉しく思うようにもなった。
 僅かに残っているもの以外すべての器を下げて洗ってしまえば、安月の仕事はほぼ終了となる。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか。お疲れさま、ありがとうね」
「お疲れ様です。また明日もよろしくお願いします」
 小さく頭を下げて、着替えのために店の奥に引っ込むと、小さな荷物置き場に突っ込んだ鞄と脱いだエプロンを入れ替える。着替えに大した時間はかからず、奥まったスペースから出てきた安月に大将が小さめの袋を突き出した。
「今日の分だ。少ないが持ってけ」
「ありがとうございます。いただきます」
 改めてお疲れ様でしたと声をかけて店を出た安月は駅まで早歩きで向かい、微かに滲む汗を拭いながら改札を抜ける。夜の色に染まりつつある空を見ながら電車を待ち、緩く効いている冷房の風と共に三駅分だけ揺られれば安月の部屋の最寄り駅だ。
 学生風の若者や仕事帰りの会社員、その中に当たり前のように埋もれる自分に安心しながら、安月はホームへと降り立った。
 駅の裏手側にあるスーパーに向かい、閉店を知らせる曲が流れる店内を物色して割引シールが貼られたおにぎりやパンをカゴに放り込み、卵を買おうと思っていたことを寸でのところで思い出して慌てて通路を引き返す。
 会計を済ませて店外へ出ると、日が落ちて妙に湿度を増したような空気が全身に纏わりついた。重苦しいため息が勝手に漏れる。暑さはそれほど苦手なほうでもないけれど、湿度の高さには正直げんなりする。
 一旦駅前まで戻ってロータリーを横切り、ATMコーナーだけ目が痛くなるほど明るい無人の銀行の前を通って、だんだんとひと気が少なくなっていく道を足早に通り過ぎた。路地を一本入ったところにある公園を真っ直ぐに突っ切れば近道になる。すっかり静まり返った公園に多少の不気味さを感じながらも、安月は駆け足より少し遅いくらいの速度で足を動かした。
 公園内にも外灯はぽつぽつと立っているけれど明るさは圧倒的に足りていない。外灯の光が届かない場所は酷く暗くて、欝々とした闇が獲物を狙う蛇のように息を潜めている。
 小さい頃から、安月は暗いところが苦手だ。その原因となるものの存在に、はっきりと気が付いたのはいつだったろうか。少なくとも小学校に入学する頃には見ていたような記憶がある。
 安月だけに見えていた形の定まらない黒い塊は、水分の多い泥に近い柔らかさを持ち、不規則な緩急をつけて蠢く様がとてつもなくおぞましい『何か』だった。その黒い塊は時に蜘蛛のような脚さえ生やしていて、いつ自分に這い寄ってくるかと不安になった幼い安月は怯えて泣いた。物陰に潜む気味の悪い黒い塊を指差し、怖い怖いと泣き喚く安月に、周りの大人は誰もが困惑した。
 時も場所も選ばず、周りには見えない何かを怖がって泣き叫ぶ安月のために一家が引っ越しをしたのは一度や二度ではなかったが、引っ越した先でも黒いモノは安月の視界に勝手に映り込んで、安月を落胆させると同時にますます酷く怯えさせた。
 どこまで逃げても付き纏う、得体の知れないおぞましい存在。思い切って誰かに訴えても「そんなものいない」と言い捨てられてしまうばかり。むしろあからさまに後ろ指を差され、陰口を叩かれたことも少なくはなく安月は孤立していった。
 初めは小さかったはずの黒い塊は安月が成長するごとに少しずつ大きさを増していき、いつしか存在の気配を感じるだけで生理的な恐怖と嫌悪感を抱かせるまでになった。
 外の世界が明るければ明るいほど、その分、影は濃さを増すものだ。こんなものを見続けていたら気が狂ってしまう。毎日そんなふうに神経を磨り減らしていたせいで安月はすっかり暗い場所が苦手で、ほんの小さな影でさえ恐れる性格になり、どこにいても、誰といても、心が休まることなんてなかった。自室でさえ明るいままにしていないと眠れず、次第に家どころか自分の部屋からも出られなくなり、小学校高学年の頃はほとんど学校に行った記憶はない。
 しかし安月以上に追い込まれていたのは母のほうで、頑なに外に出ることを嫌がる安月を強引に精神病院へと連れて行き、血走った目で自分の息子はまともじゃないと主張した。
 医者は安月の母の鬼気迫る形相に一瞬だけ息を飲んだものの、ねっとりとした声でこう言った。
「周囲の関心を引きたいだけでしょう。自分は周りの人間とは違う存在だと主張したがるのは、子供にはよくあることですよ」
 あからさまにホッとした様子の母親を見て、安月は強い悲しみを抱いて顔を伏せた。母はどうやら「あなたの育て方が悪いわけではない」と言われたかったようだと気付いてしまった安月が小さく呻くような声で謝罪の言葉を吐き出すと、医者は「ほらね」と得意顔で笑う。
 そんな医者の肩に、大人の手のひらほどもの大きさの真っ黒くてヒトの顔をくっ付けた大きな蜘蛛がいるだなんて口にしてはいけない。安月は必死に唇を噛んで悲鳴を殺して床を睨んだ。
(でも、本当にそこにいるのに……)
 人面蜘蛛はニタニタといやらしく笑いながら医師の首筋に脚を伸ばし、そのまま弛んだ頬へと這い上がっていく。医師の耳の穴に脚先を突っ込んで遊んでいるような動きをする大きな蜘蛛が自分にしか見えていないことを改めて突き付けられた安月は、こんなモノが見えてしまう自分だけがおかしいのだと思い知って絶望し、それと同時に診察室に漂う悪臭に込み上げる吐き気を必死に堪えた。
 今でもあの胸が悪くなりそうな悪臭と光景を忘れることができないし、どんなに小さくても蜘蛛は苦手だ。最早トラウマと言ってもいい。
 けれど何よりも一番大きかったのは、母親をそこまで追い詰めてしまっていた事実に対する罪悪感だった。母の言うとおり、自分はまともではないのだろう。あんなにもおぞましい人面蜘蛛を見てしまうくらいだから相当酷いはずだ。
 だから安月はその日から口を閉ざし、自分だけに見えている人面蜘蛛も物陰で蠢く黒い泥状の塊も、すべて幻覚だと自分に言い聞かせた。
 そうやって少しだけ冷静になると、人面蜘蛛も黒い塊も安月に興味を示さず、近付いてくることもないと気付けた。やがて見ないように意識すれば見えなくなっていることにも気付き、やっと普通の生活を送れるようになったが、得体の知れない生き物が見えると言って怯える息子を受け入れられなくなっていた母親は家から出て行った。
 詳しいことは未だに聞けずじまいだが、安月が中学を卒業する前には離婚が成立したらしい。離婚したという事実だけを教えられた時、ただただ申し訳なさで胸がいっぱいになった。
 もっと早く自分自身がおかしいのだと思えていたら、家庭が壊れることはなかったのに。
 それまでほとんど家庭のことを顧みなかった父親は今までの態度を反省したのか、安月と二人暮らしになってすぐに台所に立つようになった。最初こそ味付けに失敗したり料理を焦がしたりしていたが、元々器用な面のある父はすぐにコツを掴んだようで、母が使っていたカレールウと同じ製品を見つけたと嬉しそうに笑って鍋いっぱいにカレーを作ってくれた。久しぶりの家庭の味にじんわりと浮かんでしまった涙を、安月はカレーが辛かったせいだと言って拭った。
 高校を卒業したら働こうと考えていた安月は、学べるうちにたくさんのことを学びなさいと父に背中を押されて、大学から近い場所に部屋を借りて一人暮らしをすることになった。
 親元を離れることに当然ながら大きな不安はあったものの、勢いだけではじめた一人暮らしは思ったよりも気ままで心地良い。
 そうだ、もうそろそろ父に電話をして近況報告をしなければ。そんなことを考えながら公園に一歩足を踏み入れた途端、ぶるりと肩が震えた。人や生き物の気配のない公園の敷地内の暗さを思い出してしまい、安月の中に根深く染み付いている恐怖心が湧き上がってくる。
「……っ」
 さっさと公園を横切って再びアスファルトで舗装された道に出ると、そこからは走って部屋まで逃げるように帰った。
 暗い部屋に入ることができないからと部屋の電気は朝も夜も付けっぱなしだ。そのせいで電気代はかさむものの、こればかりはどうしても我慢できない。住みはじめてすぐの頃に大家から電気が点けっぱなしになっていると指摘されたことはあったけれど、どうしても暗いところが苦手だと説明すると「そんなもんかねぇ」と首を傾げながらも引いてくれた。
「……ふぅ…っ」
 玄関ドアに鍵とチェーンをかけたことをしっかりと確認した安月は、ついついその場にへたり込む。床に触れたビニール袋が微かに音を立てた。
 電気代が気になるからテレビは置いていない。その代わり、壁の薄い隣室から聞こえてくる生活音で人の気配を感じ取り、幾分か安心できた。
 もう一度深く息を吐き出した安月は、よろよろと立ち上がると、狭いキッチンで湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作った。パンは明日の朝と昼の食事に回すことにして、バイト先でもらった惣菜と、半額になっていたおにぎりで簡単に夕食を済ます。自分で作るよりも、このほうがずっと安上がりだ。
 さっとシャワーを浴びて、授業中に書いたノートの中身を少しだけ確認してからベッドに寝転がる。思い出して携帯電話を見ると、紗奈からメッセージが届いていた。告白されたことを忘れているだなんて少し心苦しい。バイトが終わって帰宅したことだけを返信すると、紗奈からの返事はすぐに返ってきた。
『バイトお疲れさま。また明日ね。おやすみなさい』
 似たような言い回しで返事を送り、アラームがきちんとセットされているかを確かめてから携帯電話を枕元に転がした。空腹が満たされたことと精神的な疲労から目蓋はすぐに重くなる。
 明日は一限目から授業がある。担当教諭は出席日数に厳しいことで有名で、単位のためにはどうしても出席しなければいけないと諦めているものの、寝ぼけたままの頭にはちっとも授業内容は入ってこない。
 また誰かに頼んでノートを写させてもらわなければと考えているうちに、安月は眠りに落ちていた。
 


 翌日、パンを齧りながら電車に飛び乗った安月は授業の開始時間寸前に教室へと駆け込んだ。
「また遅刻ギリギリかよ、安月」
「間に合ったんだからいいだろ…」
 寝癖をからかいながら小突いてくる友人に鬱陶しそうな目を向けつつも、安月は自分がこんなふうに他人と交友関係を築けていることにひっそりと胸を躍らせた。
 大学に通うことにしたのは正解だったと思う。それまで住んでいた場所とは違い、今までの安月を知る者がほとんどいないおかげで息苦しいような後ろめたさも少ない。バイトだって順調で、昨日は女の子から告白までされた。ずっと憧れ続けてきた普通の人生を送れているのではないかと感動すらしてしまうのも仕方がない。
 授業内容はやっぱり頭に入ってこないけれど、安月はこの日常を愛していた。
 ここでは教室を移動する間も友人と一緒にいられるし、そのおかげで幼かった頃みたいに暗い物影に怯えて泣くこともない。そう思えば、あくびが出そうな授業にだって身が入る。
 あっという間に昼休憩になり周りの生徒がそれぞれ教室を出て散らばっていく中、安月は黒板に書き出された内容を必死にノートに写す。単位を埋めるためだけの目的で選んだ民俗学の講義は、なるほどと思うことも多々あるが、難なのは教諭の字の汚さと板書の速さだ。同じゼミの喜嶋は既にノートに書き写すことを諦めたらしい。
「学食行くけど安月はどうする?」
「あ、ちょっと待って、今日はオレも行くから」
 ようやく書き終わったノートを手早くまとめて立ち上がった安月の後ろから重みがかかる。驚いて振り向くと、別の教室で授業を受けていた友人達が集まっていた。喜嶋を通じて知り合った彼らと連れ立って学食に向かう道中さえも楽しくて、ついつい気持ちが弾む。
「そういえば安月もバイトはじめたんだろ? どこだっけ?」
「駅近くの商店街にある総菜屋」
「そこ知ってる! だし巻き玉子がめっちゃウマい店だよな!」
 友人の一人、波多がテンション高くそう言った。他の面子も「あー」と声を揃える。
「安月、今度行ってやるからおまけしろよ~」
「来るのはいいけど、おまけはしない」
 そんな話で盛り上がりながら安月は学食で一番安いカレーライスを食べ、昨夜スーパーで買ったあんパンをデザート代わりに頬張った。
 話は講義のことから、すぐに男子大学生らしい内容へと変わる。恋愛話が好きなのは女性だけではない。
「でさ、やっぱカノジョと行くなら映画か水族館だろって言ってやったんだよ」
 自信満々で言うのは喜嶋だった。彼は高校時代に付き合いはじめた恋人と今も付き合い続けていて、このメンバーの中ではいつも恋愛相談を持ちかけられる立場だ。
「映画はまあわかるけど、今ドキ水族館とかさぁ…」
「いやいや、今の水族館すげぇんだぞ」
「確かにテレビでも特集されているし、悪くないんじゃね?」
「だろ? あー、安月クンにはまだ縁がない会話だったかなー」
 会話の途中で不意に喜嶋が安月に哀れみの眼差しを向ける。
 つるむようになってすぐの頃、今まで一度も女の子と付き合ったことがないとうっかり話してしまったせいで今やすっかりネタにされてしまうようになったけれど、昨日までの自分とは違うことに安月は胸を張った。
「昨日、女の子から告白された」
 途端に仲間内にどよめきが起こる。
「ちょっ、マジかよ安月! 誰? どんな子?」
 テーブルの向こう側から身を乗り出してまで喰い付かれると少しばかり気持ち悪い。他人の恋愛話はそんなにも興味深いものだろうか、なんて他人事のように考えてしまいそうになるけれど、この話を振ってしまったのは自分だ。
「酒井、食い付きすぎ」
「さすがに引くわー」
 喜嶋と波多はそんなふうに言いながらも、逃がすつもりはないとばかりに安月の肩を両側から掴んでいるのだから抜け目ない。安月は友人達の勢いにやや怯みながらも「同じ選択科目で一緒になった子から」とだけ答えた。
「でもまだお互いのことほとんど知らないし、まずはお友達からはじめようって」
「言われたのか?」
「あ、いや、オレが言った」
 正直に答えた安月に、顔を見合わせた友人達は示し合わせたように肩を落とす。
「お前さぁ…まずはお友達からなんてマジで時代遅れだろ」
「そんなペースだと童貞卒業する前に大学卒業しちまうんじゃねーの?」
 はっきりと告げられた内容に安月は口ごもった。その可能性を考えたことがないわけでもないけれど、安月には自分が家庭を壊す原因となったことでの負い目があり、恋愛ごとに積極的になれないどころか避けていた節さえある。
 誰かを好きになって家庭を築き、いずれ子供ができて…なんて遠い未来のことすぎるし、だからこそ慎重すぎるくらいがいいのではないかとも思っていたのだが、どうやら世間の認識は違うようだ。これからは別の話題でからかわれるのだということだけ理解した安月は恨めしく彼らを睨む。
「べ、別に急ぐことでもないだろ…っ」
「いやいやいや、大学卒業まで童貞のままって恥ずかしくね?」
「でもさ、安月ってばマジでそっち方面の免疫ゼロだし、告られただけでもまずは進歩ってことにしといてやろうぜ」
「お前の童貞卒業までバッチリ応援するからな!」
「はは…うん、サンキュ」
 寄って集って肩を叩かれて、安月は複雑に笑った。
 そんなこんなで気疲れしただけの昼休みを過ごしてから残りの授業も終えた安月は、いつもどおりバイトの時間になるまで図書室で暇を潰すことにした。民俗学の担当教諭は毎回出欠を取らないしテストもしないが、代わりに定期的にレポートを出さないと単位をくれないから気が抜けない。
 不意に携帯電話が小さく震える。見れば紗奈からメッセージが届いていた。図書室にいることを入力して返信すると、すぐに「私も行っていい?」と返事が来た。当然、いいに決まっている。
 そう送ると、返信の代わりに五分もしないうちに紗奈が姿を現した。
「…来ちゃった」
 そう言ってはにかむ紗奈は可愛らしい。
 隣の席に座った紗奈は、安月がハードカバーの小説を開いているのを見つけて目を瞬かせた。安月は小さく笑って、彼女に表紙を見せるために本の角度を変える。あまり知られていない小説家の作品だ。いつも風変わりなタイトルを付けるせいで名前を覚えてしまっただけで、作風が好みというわけでもない。
「この作家の本が好きなの?」
「あー…好きって言うか、変わったタイトルだから目に付いて。暇潰しに開いただけなんだ」
「バイトまで時間あるって言ってたもんね」
 紗奈は身を乗り出すように安月が開いた本のページに視線を走らせる。思いがけず近付いた距離に安月の胸がドキッと音を立てた。伏せ目がちになったことで、強めの曲線を描いている黒々とした睫毛がはっきりと見える。
 こんなにも近い位置に女の子がいたことなんて今までの人生で一度でもあっただろうかと考えながら、内心の動揺を悟られないように安月は表情を引き締めた。
「ちょっと難しい内容だね」
「オレもそう思った。読んでてもほとんど意味わかってないんだ」
 二人揃って声を潜めて笑う。安月は胸をドキドキさせながら、懲りずに本のページを覗き込む紗奈の横顔を見つめた。
 図書室だからあまり会話はできなかったけれど、まだお互いに慣れない部分があるから間延びした会話のテンポは好都合だ。
「そろそろバイト行かないと…」
「残念だけど、仕方ないね」
 安月は本当に残念そうな声色の紗奈に「また来週」と手を振り、控えめに手を振り返されて弾みそうになる足取りを平時に見えるように誤魔化しながら商店街へと向かった。
「お疲れ様です」
 顔を出すと、奈津美がいつも通りににこりと笑って迎えてくれた。
「安月くん、何か良いことでもあった?」
「え…っ」
 いそいそとエプロンを着ながら店頭に立った安月の顔を覗き込むようにして奈津美が言う。スキップでもしたいくらいに浮かれている頭の中を見透かされたみたいでどぎまぎしながら聞き返すと、奈津美は少女みたいに小さく笑った。
「何だか、いつもよりも嬉しそうな顔をしてるなって思ったの」
「そ、そんな顔してます?」
「若いっていいわねぇ」
 奈津美は訳知り顔でまた笑うと、亜季のお迎えに行くべく店の奥へと引っ込んだ。
 見透かされた胸がどきどきと音を立てている。安月はくすぐったくなるような高鳴りに緩みそうな頬に力を入れた。
 お迎えに出かけて行く奈津美を見送り、いつもとあまり変わらない客の相手をこなし、帰ってきた奈津美と亜季に声をかける。
 無口な性格の大将とはほとんど会話らしい会話をしたことはないが、その代わりに喋り出したら止まらない常連客の相手をするのも、惣菜を盛り付けていた大皿を洗うのだって慣れてしまえば楽しいものだ。こうしていると自分が世界の一部として違和感なく紛れられていると自覚できる。
 穏やかでありきたりな日常がいつまでも続けばいいのにと、心のどこかが褪めた声でそう呟いた。安月は誰にも気付かれないように小さくため息を吐き出す。
 どこにでも転がっていそうな日常がいとも簡単に壊れてしまうことを知っている。他でもない自分の手で壊してしまった安月は、それを痛いくらいよくわかっていた。守れるほどの強さはなくても、せめて壊してしまうことのないように自分を誤魔化し続けなければいけない。
【――嗚呼、夜が来なければいのに】
 図書室で開いた小説の一文を不意に思い出す。
 物語の登場人物の沈鬱とした嘆きを自分のことのように理解しながら、そんな仄暗い思いを隠したまま、安月は笑って常連客に商品を手渡した。

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