月夜の陰で悪魔と踊る

月居契斗

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 シングルサイズのベッドで、自分よりも身長の高い男に抱き締められながら眠ることに慣れてしまった。そんな情けない事実に深々と息を吐いた安月は、自分が眠っている間もブレスレットに擬態していてくれるニーロをそっとつついてからベッドを抜け出した。
 ヴィクトルが用意してくれる朝食を手早く済ませて口を念入りに漱ぐと、音もなく背後に立ったヴィクトルに口を塞がれる。彼が言うには、食事の直後は他のタイミングよりも唾液の味が良くなるらしい。
 腰が抜けるくらいたっぷりと唾液を啜られた状態で電車に乗るのはほんの少し気まずいが、今日はいつも以上に気合を入れなければと気を引き締める。
「そろそろ行ってくるけど、もし出かけるなら…」
「鍵をかけろ、でしょう? 私が一度でも鍵をかけ忘れたことがありましたか?」
「ないな。夕飯もたぶん食べてくると思うから」
「わかりました」
 安月はスニーカーを履いてドアノブに手をかけると、短く息を吐いて気合を入れた。いよいよ今日は紗奈と初めてのデートの日だ。
 友人達からは、からかいだか冷やかしだか応援だかわからないメッセージがしこたま携帯電話に届いていた。唯一、返事は帰ってからでいいと添えてくれたのは喜嶋で、そういう細やかな気遣いのできるところが恋人と長続きする秘訣なんだろうなと安月は思う。
 デートをすることになったと報告した時に彼からもらったアドバイスのとおり、紗奈へのプレゼントも用意した。
 商店街の一角にある雑貨屋で見かけたビーズのブローチはシャツの胸ポケットにしまってある。一点物だと書き添えられていた手作りのブローチはハンドメイドだからこその丁寧な仕上がりで、あたたかみのある配色が紗奈に似合いそうだと一目で気に入ったものだった。
 お守り代わりのニーロが巻き付いた足取りも軽く、駅まであっという間に着いてしまう。気が急いて早く着いてしまったけれど、気分を落ち着けるのにはちょうどいい。薄く滲んだ汗が引き、呼吸が平常に戻った頃に紗奈が現れた。
「ごめんね、待った?」
「ついさっき着いたところだから気にしないで」
「ありがとう。じゃあ行こっか」
 紗奈が着ている袖のないスタンドカラーのワンピースは生地が薄く、彼女が少し動くだけでもふんわりと揺れる。襟と袖口にぐるりと縫い付けられたレースはさり気なくて、可憐という言葉がぴったりの装いだ。
「その服、すごく似合ってるね」
「嬉しい! がんばって選んだの」
 薄く頬を染めてはにかむ紗奈に、安月の胸は高鳴った。
 大学で見かける時よりも少し華やかな色味のメイクもよく似合っている。アイシャドウには細かいラメが入っているのだろう、瞬きのたびに目蓋がきらきらと輝いた。
 そんな細やかなところまで見つめる安月の耳に喜嶋のからかう声が甦る。
(この子とも…キス、するのかな…)
 安月が思い出せるキスはヴィクトルの『食事』だけしかなく、考えれば考えるほど同時に湧き上がる期待と不安はどうしても否めない。
 電車とバスを乗り継いで到着した紗奈のお気に入りのオムライスの店はカントリー調の佇まいで、女性なら誰もが気に入りそうな可愛らしく落ち着いた雰囲気だった。今日はここで早めのランチをしてから水族館に向かう予定にしている。
 少しの待ち時間のあと、赤と白のギンガムチェックのテーブルクロスがかけられた席へと案内された。
 もう頼むメニューは決まっていると紗奈は言い、メニュー表のひとつを指差した。安月はそれを確認してから手を上げて店員を呼ぶ。
「普通のオムライスのドリンクセットをお願いします。セットのドリンクはオレンジジュースで」
「オレも同じものをお願いします」
「かしこまりました」
 店内は適度なざわめきで満たされていて居心地も悪くない。
「もう少しで夏休みだね」
「黒崎さんは夏休みって何か予定ある? 良かったらさ、また一緒にこうやって出かけたりとか…」
「安月くんさえ良ければ、ぜひ。おばあちゃんの家に行く以外、特に予定はないから」
 そう言ってくれた紗奈にほっとした安月は胸ポケットから小さな包みを取り出した。
 女の子にプレゼントを渡すなんて経験は今日が初めてだ。緊張で手が震えてしまわないかと不安に襲われる。
「これ、黒崎さんに似合うかと思って…プレゼント」
「私に? うわぁ、嬉しい!」
 細いリボンを解き、包みを開いた紗奈が顔を輝かせた。
「すごく可愛いブローチ…ありがとう、安月くん。大切にするね」
 紗奈はよほど気に入ってくれたのか、その場でブローチを胸に飾ってくれた。そうされると安月も何だか誇らしげな気分になった。
 二人は普通のオムライスとスープ、小さなサラダのセットとオレンジジュースをゆっくりと楽しんでから水族館へと移動した。安月はチケット売り場で財布を出そうとする紗奈を制して二人分の入館料を支払う。
「気にしなくていいから」
 バイト代が入ったばかりだし、ヴィクトルが生活費以外の分も出してくれるおかげで一人暮らしのわりには余裕がある。たまにはこういうことにお金を使ったって誰にも怒られはしないはずだ。父だってきっと反対はしない。
(そろそろ父さんの顔でも見に行こうかな…)
 一人暮らしをはじめてからまだ三ヶ月程度しか経っていないのに、随分と長いこと会っていないような気がしてしまう。心配をかけまいと二週間に一度は電話しているのだが、長期間の休みくらいは直接顔を見せてもいいかもしれない。
 そう考えた時に気になるのは、当然ヴィクトルのことだった。もし安月が一時帰省をしたいと言ったら、食い意地の張ったあの化け物どう答えるだろう。
 頭の隅にちらつく長身な男を振り払った安月は既に水槽を泳ぐ魚に夢中になっている紗奈の傍へと歩み寄った。館内照明で青く染まった紗奈の顔は笑みを浮かべている。
「安月くん、見て! この魚、変な顔してるよ」
「ほんとだ」
 口をすぼめた面長の魚を見ながら二人で笑い合うなんて、まさにデートと呼ぶに相応しいことをしていることに自分で感動する。館内には家族連れやカップルらしい二人連れが多く、誰も他人のことなんて気にしていない。
 紗奈に言えない秘密はあるけれど、こんなふうに誰かに好きになってもらえたことが嬉しくてたまらなかった。
 結局手を握ることはできないままだったけれど、安月は心行くまで紗奈と一緒に水槽をひとつずつじっくりと見て回り、迫力のあるイルカショーをめいっぱい楽しむ紗奈の横顔に何度も見惚れた。
 やっと『普通』になれた。そうなることを許されたのだと安月は思った。
 館内レストランの夕暮れ空が見える席で食事をしていると、日暮れと共に館外の花壇をライトアップする旨のアナウンスがかかる。
「食事が済んだら、そっちにも行ってみる?」
「うん!」
 日が暮れると辺りは一気に暗くなって、少しヒールに高さのあるサンダルを履いている紗奈を気遣い、安月は勇気を振り絞って彼女の手を握り締めた。
「転ぶといけないから…」
「う、うん」
 レンガを積み上げて大きな円を描いた花壇を中心にして放射状に区切られた花壇には、どことなく見覚えがある花々が植えられていた。
 地面に刺さったプレートに品種名が書かれてるようだが、残念ながらライトと逆光になっているせいで読み取れなかった。たとえ花の名前を知れたとしても紗奈の体温が気になりすぎて、安月には言葉を発する気持ちの余裕はなかったけれど。
(口から心臓が飛び出そう…)
 経験地の低い自分に情けなくなるが、初デートで手を繋げただけでも大きな前進だと安月は自分自身を褒め称えておくことにした。
 整えられた花壇の向こうにはほとんど手付かずのままの雑木林が広がっており、照明の光が届かないこともあってかなり暗い。あちらには不用意に近付かないほうが良さそうだ。
 そんな予感に呼応するように安月の足首に巻き付いたニーロがふと微かに動いたような気がした。皮膚の表面に鳥肌が立つ寸前のチリリとした違和感。この感覚に紐付いているのは嫌な記憶しかない。
 なのに、安月の手を引いた紗奈は花壇から離れて雑木林へと踏み込んだ。
「黒崎さん、そっちは暗いから入らないほうがいいよ」
 慌てて呼びかけても紗奈は反応しない。
 いつの間にか紗奈は安月の手首を掴むように握り締めていて、その力は少女のものとは思えないほど強く、痛みを覚えるほどだった。嫌な予感がざわざわと胸の奥で膨らんでいく。
 生い茂る木々で光が完全に遮られ、水族館の外観を照らすライトさえよく見えない位置にまで来て、ようやく紗奈は足を止めた。
 その頃には安月の中には暗闇への怯えがはっきりと生まれていて、早く光のある場所まで戻りたいと切望していた。外気は夜になってもまだ暑く、しかしそれとは違う理由で滲んだ汗がじんわりとシャツの背中を濡らしている。
「黒崎さん…」
 一刻も早く戻ろうと言おうとした安月を遮るように、身を翻した紗奈が抱き付いてきた。
「安月くん、好きよ」
「お、オレも、好きだよ…」
 あまりに突然すぎる紗奈からの抱擁に動揺を隠しきれない状態で応えつつも、自分達の周りに迫っている闇と不穏な気配に落ち着かない安月は油断なく視線を彷徨わせた。
 今一番感じたくなかった気配が近付いて来ている。
 そんなことに気が付いていない様子の紗奈は、安月の手を取ると自らの頬に押し付けた。きっと普通なら胸を高鳴らせるはずのシチュエーションなのに安月の心臓はもうすぐ近くにまで迫っている化け物の気配に怯えて早鐘を打っている。
 一秒でも早くここから立ち去らなければ、自分だけでなく紗奈まで危険な目に遭ってしまう。
「黒崎さ…――っ」
 呼びかけた安月の唇を紗奈が塞いだ。まさか彼女のほうからキスを迫ってくるとは思いもしなかった安月は極度の混乱に全身を強ばらせた。
 グロスのせいで触れ合う感触こそ違うけれど、柔らかさはヴィクトルとそれほど大きな差はない。その事実に雷に打たれたようなショックを受ける安月の足首を、ニーロが今度こそはっきりと締め付けた。安月の本能も、ここは危険だとけたたましく叫んでいる。
 華奢な肩を掴んで引き離そうとするより僅かに早く、口の中にぬるりとした感触が入り込んできた。
 それが舌だとすぐにわかったが、いつだっておとなしく控えめな紗奈がそんな大胆な振る舞いをするとも思えない。だったら、目の前にいる彼女は、何だというのだろう。
「ぃ、っ…!」
 舌先に走った痛みに我に返った安月は紗奈を突き飛ばすようにして身体を離した。
 震えを隠せない手のひらで覆い隠した口内には鉄臭さが広がっている。
「どうかした?」
 紗奈は愛らしい仕草で小首を傾げたが、暗さに慣れた安月の目は彼女の違和感を鋭く見つけてしまう。日本人にありがちな一般的な濃い茶色だった虹彩が赤黒く光っていた。
 この色を知っている。
(な、んでだよ…何で…黒崎さんが…)
 紗奈の顔をしているが、これは紗奈じゃない――蜘蛛だ。
 どうして紗奈からこの臭いがするのかわからないし、わかったところで理解したくもない。
 湿度の高い夜の空気を含んだ悪臭がどろどろと身体に纏わり付き、あまりにも濃すぎる悪臭に頭が痛くなるほどの眩暈に襲われて息を引き攣らせる安月の目の前で、紗奈は徐に服を脱ぎはじめた。
 レースのキャミソールさえ土の上に落とした女の白い肌が闇の中にぼうっと浮かび上がる。
「期待したほどおいしくないのね」
 半裸のまま紗奈がはにかむが、異質な姿と言葉と笑顔のギャップに安月は吐き気を催した。
 これが悪い夢ならどんなに良かっただろう。目の前の光景を現実だと思いたくないのに、残念ながら夢だと思わせる根拠は何ひとつとしてない。口の中に広がる血の味も、込み上げる吐き気を強めるばかりだ。
 ふと、紗奈が腕を伸ばして安月のシャツをいとも簡単に引き裂いた。爪が掠った肌に細長い赤みが浮かび、やがて微かに滲んだ血をしなだれかかってきた紗奈の舌が舐め上げる。
「すっごくいいニオイがしてタかラ目を付ケてタノ。おいシくナいノハ残念だけド、折角ダカら指先まで全部残サず…食ベテアゲル」
 安月はただ声にならない息を吐き出すばかりで、目まぐるしく何かを考えているようでいて頭の中は真っ白だった。
 紗奈の笑み愛らしいままだが、これは紗奈ではない。いや、人間ですらない。
 安月を散々怯えさせ続けてきた化け物が、今まさに安月の肌に牙を突き立てるために洞穴のような暗い口を開いた。
「チィ…ッ!」
 下品な舌打ちと共に紗奈だったはずの化け物は人間離れした動きで飛び退く。
 距離ができたことで僅かに冷静さを取り戻せた安月が暗闇に目を凝らすと、鋭く細い何かが足元で光を反射した。足首に巻き付いていたニーロが化け物の襲撃を防いでくれたのだ。
 瞬時に見慣れた蛇の形になったニーロは、小さいながらも安月を守ろうと毒蛇独特の警戒音を鳴らしながら鎌首を擡げて紗奈に飛びかかる。
 しかし体格の差はあまりに明白だった。ニーロは無慈悲にも片手で叩き払われて地面に落ちる。
「ニーロ…!」
 慌てて拾い上げたが、小さな蛇は安月の手のひらの上でぼろぼろと崩れて、塵ひとつ残さずに呆気なく消えてしまった。
 化け物の影の中で飼われている異形の蛇とはいえ命には違いない。それが自分のせいで痛め付けられ、自分の手の中で消えてしまったことに安月は激しく動揺した。
「ナぁニぃ? ソれデ私に勝テルト思ったノ?」
 黒板を爪でを引っ搔いた時のような耳障りな嘲笑が闇に響く。
 紗奈は嗤い声を漏らしながら安月の肩を足蹴にして地面に転がすと、喰うのに邪魔なズボンをウエスト部分から一息に引き裂いた。
「アア、柔らカそウナ肉」
 舌なめずりの音が臍の辺りから這い上がる。汚らわしい涎まみれの舌が味見でもするかのように戦慄く肌の表面を舐めた。
 人面蜘蛛の悪臭を吸い込んだ肺は内側から穢れされているのか何度息を吸っても苦しさが消えず、拍数を上げ続ける心臓は今にも破れそうだ。
 どうして自分だけがこんな目に遭うんだ。なぜ普通を望むことが許されないんだ。何かに八つ当たりして喚き散らしたい衝動に駆られるが、そうしたところで酷すぎる現実が夢になってくれるわけもない。
「ヴィクト、ル…っ、ヴィクトル!」
 悪夢よりも最悪なこの状況を打ち破れるのは、金色の瞳の化け物だけだと知っている。
 安月は狂ったように唯一頼れる男の名前を呼びながら逃げ出した。恐怖に竦んだ足は制御が利かず何度も転んで身体を打ち付けたが、足を止めるわけにはいかない。
 死にたくない。ただその一念だけが隙間なく全身を巡っていく。
「―――――ッ!」
 一際強く喉から迸った叫びは音にはならなかった。
 足元を払われて倒れ込んだ安月の真上に浮かんだ女の顔は、捕らえた獲物を早く味わいたいと歪んでいる。肉を裂くためだけに存在する鋭く尖った牙がいよいよ腹に触れた。
「彼は私のものです。横取りは止めていただきましょう」
 聞き慣れた男の落ち着いた声が夜の空気を震わせた。
 死を伴う激痛を予想して閉ざした瞼をこじ開けた安月は、視界を邪魔する涙を強い瞬きで押し出し、息を飲んだ。
 紗奈の顔立ちを残した化け物の背後にいつの間にか立っていたのは、無数の黒い蛇を足元に侍らせ、左目を異形の色に染めたヴィクトルだった。
 金色の虹彩と額に開いた真紅の眼が、人間の骨格から逸脱した肢体を晒す紗奈を無機質に見据えている。目の前にいるどちらもが化け物に違いないのに、ヴィクトルの姿を見ただけで安月は自分が生き残れると確信した。
「私ガ先に見ツケたわ!」
「けれど契約を交わしたのは私のほうが先です」
 怒り狂った女の背中から八本の脚が飛び出して、脱皮をするように紗奈の表皮を脱ぎ捨てる。現れたのは今まで遭遇したことのある人面蜘蛛より何倍も大きな女郎蜘蛛だった。
 紗奈が蜘蛛だったのか蜘蛛が紗奈に化けていたのか、もう何が何だかわからない。だが少なくとも自分がさっき唇を合わせたのがこの女郎蜘蛛だったことは間違いない。安月は少しも堪えることなく嘔吐したが、腹の中身をすべて吐き出しても最低な気分が晴れるわけがなかった。
「安月くんは私のことが好きなんでしょう? だったら、私に喰べられてくれるよね?」
 鎌状に姿を変化させたニーロの一撃を飛び退いて交わした女郎蜘蛛が、声だけは紗奈のままで安月に語りかけた。あれは化け物だと頭では理解できているのに、つい頷きそうになる。
 そんな安月の肩を抱いたのは男の腕だった。
「安月、気を強く持ちなさい」
「っ、ヴィクトル…」
「死にたくないから私を呼んだのでしょう?」
 頷き、耳を塞いだ安月をヴィクトルが片手で抱え上げた。あれほど安月を苦しませた悪臭の気配が遠退き、呼吸が随分と楽になる。安月は両手でヴィクトルにしがみ付き、彼のニオイを肺の隅々まで行き渡るように吸い込んだ。
 その間もニーロと女郎蜘蛛の攻防は続いている。今までニーロが切り裂けなかった蜘蛛はいなかったのに、攻撃をすべて受け止めた女郎蜘蛛は醜くひしゃげた声で嗤った。
「コノ程度ノ力デ私ニ勝テルト思ッテルノ?」
 一本、また一本と鎌の形をしたニーロが切り落とされ、地面に叩き付けられた黒い蛇は見る間に塵となり消えていった。
 それはついさっき自分の手の中で消えていったニーロと重なり、安月の背中には俄かに絶望が忍び寄る。
「ソイツヲ喰ワセロ!」
「そこまで太る間に、もう充分喰ったでしょう」
「何人喰ッテモ足リルワケナイジャナイ!」
 ついにニーロをすべて退けた女郎蜘蛛がいやらしく口を裂く。耳を塞いでいても聞こえてしまう哂い声は錆びた金属が軋むような頭が痛くなる音だった。
「オ前モツイデニ喰ッテアゲルワ!」
 牙を剥き出しにした女郎蜘蛛が斑模様の脚を蠢かせて迫ってくる。思わず目を閉じた安月は肉を裂く音に怯えて肩を強張らせた。
 沈黙が満ちる。
 いっそ恐ろしいほど何の音もしない。
 自分の鼓動の音だけが耳の奥で響く中、長い沈黙に耐えかねておずおずと目を開けた安月は呆然と目の前の光景を見つめた。
 ヴィクトルの片手には棒状の何かが握られていた。
 棒の先端には長さの異なる横向きの出っ張りが幾つか並び、極端にバランスの悪い十字架のようにも見える。
 その先端部分は女郎蜘蛛の口から入って頭部を貫き、茶褐色の液体が女郎蜘蛛の口からぼたぼたと滴っていた。
 絶命したかと思った女郎蜘蛛は空まで震えそうな雄叫びを上げると、頭部に突き刺さる楔を力ずくで振り払い、あっという間に夜闇の彼方に姿を消した。
「致命傷だと思ったのですが、なかなかしぶとい」
 何か特別な動きをしたわけでもないのに、女郎蜘蛛に深手を負わせた棒状の武器は瞬時に彼の手の中から消え失せる。
「もう大丈夫ですよ」
 ヴィクトルがそう言った瞬間、安月の涙腺は崩壊した。自分だけに向けられた言葉がどれほど心強く聞こえたかなんてヴィクトルは一生理解することはないだろう。
 しかしそれも長くは持たず、津波のような悲しみが安堵を簡単に飲み込んだ。
「な、んで…黒崎、さ…っ」
「初めから蜘蛛だったのか途中からかはわかりませんが、君のニオイにつられたのでしょうね」
 説明しながらもヴィクトルは安月が絶え間なく零す涙を舐めている。雫が溜まった顎先から頬へ、そして目尻へと蛇のように這い登る舌を拒むことさえ億劫に感じるほど最低の気分だった。
 胸に大きな穴が開いたみたいに寒い。たぶんこの感情を絶望と呼ぶのだろう。
「今までで一番酷い味だ」
 ヴィクトルが顔を顰めた。
 体液の味が安月の感情に引き摺られるなら酷い味になっているのは当然だ。でも今はそんな皮肉も出てこない。
「帰りましょう、安月」
 安月は壊れた人形のように無言で頷いた。
 身体が泥のように重くて重くて耐えられない。一秒でも早く部屋に帰って、何もかもを忘れて夢も見ずに眠ってしまいたい。脱ぎ捨てられたワンピースに目を向けられなくて、安月は何としてでも見ないようにヴィクトルの肩に額を押し付ける。
 闇の中でほんの少し光を反射したのは、安月が紗奈にプレゼントしたブローチに縫い付けられたガラスビーズだった。
 そこからどこをどう帰ったのか安月は覚えていない。
 原型を留めないほどに服を引き裂かれた散々な有様だったから公共交通機関は使っていないだろうが、はっきりと意識が戻った時には既にアパートの前で、ヴィクトルに抱えられたまま部屋に入った。
 ぬらりと這い上がったニーロがドアに鍵とチェーンをかけたのを見て、ようやく安月ははっきりと自我を取り戻す。
「ニーロ…生きてる? え、でも、だって蜘蛛に…っ」
 混乱して瞬きを繰り返す安月の頬に、今では愛嬌があるとさえ思える目も口もない蛇の姿のニーロが擦り寄ってくる。
「私のペットは有能ですから、あの程度では死にませんよ」
「そ、っか…良かった…本当に良かった…」
 声を震わせる安月の頬を再び涙が濡らすと、ニーロは躊躇いがちにその雫を拭うように啜った。
 消滅するような脆弱さではないが、ダメージがまったくないわけでもない。
 ニーロはヴィクトルが駆け付けるまでの時間稼ぎを充分すぎるほどに果たした。普段なら絶対に許さない眷属のつまみ食いを見なかったふりでやり過ごしたヴィクトルは、ようやく安月を腕から降ろす。
「お茶でも飲みますか?」
「ううん、それよりも先に風呂に入りたい…」
 早口で告げた安月は襤褸切れとなった服をすべて取り払って風呂場に篭り、シャワーコックを捻ったが、胸の蚯蚓腫れに湯の温度が沁みて手を止めた。本当は肌が擦り切れるまで擦りたいけれど、それでは先日のように血のニオイが漏れて人面蜘蛛を引き寄せてしまうだけだ。
 代わりにボディソープを手のひらに溢れるほど出して全身に塗り付けていく。何度も何度も身体を洗い、泡を流していく間に、愛らしかったはずの紗奈の笑顔がもう既に朧気にしか思い出せなくなっていることに気付いた。
 これ以上に酷いことがあるのか聞いて回りたいくらいに最低すぎる気分だ。勝手に滲む涙がシャワーの湯に溶けていく。安月は鼻水を啜りながら、気が済むまで身体中を手で洗い続けた。
 熱いシャワーのおかげで身体は多少あたたまったけれど、胸の奥はいつまでも寒くて、何かしていなければ涙が勝手に滲んでしまう。
「ひ…っ、ぅ」
 蹲って声を上げて床を殴り付けて、余りにも理不尽な現実を嘆きたい気分だが、そんなことをしても自分の身に降りかかった災難がなかったことになるわけではない。濡れた身体を満足に拭くことなく風呂場から出た安月は心許ない足取りで洗面所を通り過ぎ、キッチンに立つヴィクトルの背中に抱き付いた。
 服が汚れるのを好まない化け物に文句を言われるかもしれないと身構えたが、ヴィクトルは何も言わずにコンロの火を消した。
「ヴィクトル、オレのニオイ消してくれよ…」
 思わず口から転がり出た言葉が何を意味しているのかわかっている。
「あの方法は嫌だったのでは?」
 思いがけず意地悪な答えが返ってきて、安月は黙ったままヴィクトルの背中にさらに強く額を押し付けた。
 どんな心境の変化があったのかを説明する必要はない。人間に合わせた生活をしていても結局は化け物であるヴィクトルに、安月の嘆きが理解できるとは思えなかったからだ。少なくとも安月は今の自分の胸の中で渦を巻く澱んだ感情を言葉にして伝える気はなかった。
 沈黙の間にも仕立ての良いベストがじんわりと水気を吸っていく。
 断られたらどうしよう。失意に暗く染まった脳裏に、そんな疑問だけが浮かんだ。
「わかりました」
 あっという間に軽々と抱き上げられ、安月は狭いベッドへと下ろされた。頭から被っていたタオルを取られてしまえば風呂上りの身体を隠すものはひとつもない。
「安月、私を見なさい」
 逆らえない声色で言われて顔を上げれば、宝石よりも綺麗な金色がすぐ目の前にあった。
 ぼんやりしたまま口付けを待つ間にも涙が音もなく零れ、それをすかさずヴィクトルの舌が舐め取った。
 どうしようもなく悲しくてやるせない気持ちから溢れた涙はどんな味がするのだろうか。
 もし重苦しいほど渋いのだとしたら、ヴィクトルが酷い味だと言ったのも頷ける。しかしただの人間でしかない安月にとって涙はただ塩辛い水でしかなく、全身を引き裂かれるような痛みを伴っているというだけだ。
「痛くてもいいから…早く…」
 何も考えられないくらいめちゃくちゃに酷くされたくて開いた口をヴィクトルに塞がれた。舌が絡み合っているのに唾液は啜られず、口から溢れて顎に垂れていく。
 ヴィクトルの唇は安月の首筋を伝って胸元の蚯蚓腫れを仄かに掠め、はりのある肌に吸い付いた。無防備に晒された乳首を吸われ、甘噛みされ、もう片方は柔く摘まれて指先が引き攣る。
「ん…っ」
 むずむずした感覚に変な声が漏れる。
 安月はヴィクトルが顔を上げて唇を合わせてくるのを受け止め、自分から口を開いて彼の舌を招き入れた。いつものようにたっぷりと舌を絡められると腰がざわめく。
「ああ、甘くなってきた」
 何のことかわからないまま、途切れたキスを初めて安月のほうから求めた。
 芯を持ちはじめた部分が大きな手のひらに包まれ、ゆっくりと擦られるのがもどかしくて腰が揺れてしまいそうだ。金色の眼が、ひとつずつ丁寧に快楽を拾い上げていく安月を見つめている。電気を消さないままの室内で自分だけが何も纏わず身体を曝け出し、そのすべてを見られているのは火を噴きそうなほど恥ずかしいのに、ヴィクトルの手や唇が与えてくれる心地良さには抗えない。
「ァ…っ」
 先端を円く撫でられてはっきりと腰が跳ね上がった。それを押さえ付ける手のひらの強さに背中が痺れる。
「気持ちが良いのですね」
 優しく囁いた唇が安月自身を包み込んだ。安月は咄嗟に手で口を覆い、零れ落ちそうなほどに目を見開く。
 そんなことまでしてほしいなんて思っていなかったのに、脳天まで突き抜ける快感に屈した身体はもっと続けてほしいと素直に疼いて、目の奥では幾度も白い火花が弾けた。舌を絡めるキスとはまた違う濡れた音があまりにも卑猥で、思考の糸がすべて焼き切れそうだ。
「ヴィク、ト…出ちゃ…ッ」
 銀色の髪を引っ張って訴えても彼は口を離してはくれず、安月は呆気なく高みへと追い詰められて吐精した。詰めていた呼吸が解放されると同時に全身から汗が吹き出す。他人から与えられた快楽のあまりの強烈さに眩暈を起こしそうだった。
 弛緩した膝を開かれ、さらに奥へヴィクトルの指が滑り込む。まさかと言いたげな目でヴィクトルを見るが、彼は涼しい顔で微笑んだ。
「力を抜いておきなさい」
 安月の体液とヴィクトルの唾液で僅かに濡れた指先が、あらぬ場所を暴こうと押し込まれていく。
「そ、なところ、触るな…!」
 激しい羞恥心と未知の感覚に怯えて暴れる安月の上半身にニーロが幾重にも絡み付き、一本が口内に入り、また別の一本が乳首を強めに擦り上げた。ヴィクトルと違う動きで舌の裏をくすぐられ、安月の意識がそちらに向いたタイミングでヴィクトルの指先がまた少し進む。
 どこがどうなっているのか、気持ち良いのか悪いのか、ゆっくりと奥を目指して進んでくる異物感に翻弄されて何もわからない。
 ただ、ひっきりなしに粘着質な音が耳に届くのが恥ずかしくて、燃えるように身体が熱いことだけがやけに鮮明だった。
「安月」
 たった一声で飛びかけていた意識が引き戻された。
 ひたすら身体中が熱くて目が回って、なのに細く硬い感触が腹の奥を捏ねているのをありありと感じて足の爪先が勝手に丸くなる。
「ぁ、あ…っ」
 口を塞いでいたニーロが抜かれると安月の口からは意味のない呻きが漏れた。
 腹の奥がおかしい。そんなところを弄られるのは恥ずかしいし嫌なのに、引いていく動きをされると勝手に身体が跳ねる。
「ゃ、あ、ヴィクトル…ッ!」
「大丈夫ですよ」
 身体がおかしくなってしまったのではないかと怖くなった安月が必死に手を伸ばすと、ヴィクトルは少しだけ体勢を変えてくれた。その首に縋り付きながら、息を引き攣らせた安月は自分からヴィクトルに唇を寄せる。
 重なり合った唇の合間に舌を伸ばし、いつもされているように摺り合わせると妙に安心して、その時はっきりと腹の中を捏ね回されるのが気持ち良いと自覚した。
 背中を丸めた少し苦しい体勢だが、キスをしてもらいながら前を握られて後ろに入った指を動かされると、身体は違和感よりも快感を率先して拾い上げて、腹の中のどこかを掠められるたびに腰が跳ねた。
 同じ場所を散々刺激されている間に理性は残らず溶けてしまい、勃ち上がりきった前から零れ落ちた体液は動きを助けるようにヴィクトルの指を食んだ場所を湿らせた。少しずつ中を穿つ指の動きが大きくなっていく。
「ひ、ぁ、あっ…!」
 擦られるたびに声が漏れ、涙が溢れ、何かが込み上げてくる感覚を我慢できなくなって閉ざした目蓋の裏で光が弾ける。その直前でヴィクトルが動きを止めた。
「ぁ、何でっ」
 もう少しだったのに。もうあとほんのちょっとで、すべてを忘れられそうなほど気持ち良くなれたのに。
 さっきまで押し付けるくらいの強引さで与えていたくせに、絶頂の寸前で取り上げるなんて酷すぎる。
 浅ましく快楽を欲しがる安月は責める口調でヴィクトルを責めたが、静かに揺らめく炎のように熱い金色の眼差しに気付いて口を閉ざした。閉じかけていた膝をまた大きく広げられる。
「ニオイを上書きするためには、こちらで」
 少しだけ身体を起こしたヴィクトルの背中に無意識に縋った安月は、指が抜かれた場所に押し付けられた熱を感じて目を瞬かせた。
「以前、少しだけ上書きの仕方を説明しましたが、覚えていますか?」
「……」
 問われた安月は目を泳がせる。具体的な詳細は聞かずじまいだったが、何となく予想はついていた。
 その上さすがにこの状況でわからないなんてとぼけられそうにないし、安月だって男だ、解された後孔に宛がわれているものが何かもわかっている。ごくりと唾を飲む音がやけに大きく響いた気がした。
「それでも良いのですか?」
 組み伏せられた体勢で真上から問われると少しだけ怖気付いた理性が頭から血の気を引かせたが、それでも構わないと望む心に従い、安月は下から手を伸ばす。普通の日常が本当には手に入らないなら、せめて少しでも普通だと思い込めるように自分を騙さなければおかしくなってしまいそうだった。少し自暴自棄になっているかもしれない。
 もう何でもいいから、ぽっかりと胸の真ん中に開いてしまった傷を埋めてほしい。
 自分から抱いてくれと男に頼むなんて正常な思考ではないのもわかっているし、二度と今日みたいに胸が張り裂けそうな思いを味わいたくないがために化け物に縋り付くこと自体が間違っているかもしれない。
 けれどこうする以外の方法をどう考えても見つけられなくて、安月は微かに唇を震わせながら目を伏せ、全裸の自分とは正反対に服を着込んだままの男の胸に額を擦り付けた。
「…ヴィクトルのニオイ、付けて」
「わかりました」
「ぁ、でも…ッ…できるだけ、優しく、して…」
 これから自分がどう扱われるのか悟ってしまった安月は精一杯の懇願をした。
「もちろん優しくしますよ。一度で壊してしまうには惜しいですから」
 恐ろしい言葉を吐きながらヴィクトルは美しく笑う。
 明日が日曜日で良かった。今からされることを考えたら、少なくとも丸一日は満足に動けなくなるのは目に見えている。
 膝を抱えられて、宛がわれた熱がそこを押し広げていく感覚に怯えた安月の身体は勝手に力んで侵入を拒んだ。
「もっと力を抜きなさい」
「む、りぃ…」
 指とは違いすぎる質量に恐れをなした身体は余計な力が入ってしまって、ヴィクトルの先端をほんの僅かに受け入れることさえも激しく拒否する。
「安月」
 名前を呼ばれたと思ったら唇を塞がれた。
 舌を絡め取られ、唾液を啜られ、慣れた感覚に安月もすぐに動きを合わせる。
 ヴィクトルとのキスで得る快感は誤魔化せないほど明確に身体に刷り込まれている。前歯の付け根の裏側や舌の側面、上顎まで丹念に舐め回されると勝手に声が上擦った。
「んん…っ」
 唇を合わせながらヴィクトルが腰を進めてくる。圧迫感に身を竦ませた安月の口内を、ヴィクトルの舌があやすように刺激した。すっかり敏感になった乳首を捏ねられて安月の意識の矛先がそちらに向くと、すかさず後孔をまた少し広げられた。
 安月が息を詰めればヴィクトルは進む動きを止め、呼吸を整えさせて、組み敷いた身体を暴くために再び腰を進める。
 気が遠くなるほどの時間をかけてヴィクトルのすべてを受け入れた時、安月は酷く息を乱して全身を汗で濡らしていた。
「よくがんばりましたね」
 ずっと開いたままの股関節は軋んでいるし、本来そんなことに使われる場所ではない部分は裂けそうなほど広げられて引き攣っているけれど、額に貼り付く髪を撫でて払われると嬉しくなる。
 なのにやっぱり悲しくて、胸の奥がずっと痛んで、涙が止まらない。
 ヴィクトルが身を屈めて安月の目尻から零れる涙を舐めた。彼が男らしい眉を潜めたのは涙が酷い味だったからだとわかってしまって、こんな時なのに安月は小さく苦笑する。
 デリカシーのない化け物のままでいいからヴィクトルだけは何があっても変わらないでいてほしいと戯言めいたことを願ってしまうのは、今の自分が正常ではないからだ。
「何を考えているのですか?」
「…何も…」
 安月は首を横に振って唇へのキスをせがんだ。
 やっと人を好きになれると思ったのに、好きになってもらえたと思ったのに、こんな結末だなんてあんまりだ。
 心がバラバラに砕けてしまいそうで、何かに縋っていなければ自分の形を保つことさえできない。安月は爪から血が滲みそうなくらいの力でシーツを握り締める。
 ゆっくりと腰を引いたヴィクトルが同じ速度で奥を満たした。大きすぎる圧迫感と異物感で仰け反った胸や喉に噛み付くようなキスをされるたび、いっそこのまま喰い千切ってほしいと心が幾度も叫ぶ。
「な、んで…オレ、ばっかり…」
 男に抱かれて揺さぶられながら安月が吐き出した静かな憤懣をヴィクトルの唇が飲み込んだ。
 悲しくて憎らしくて世界のすべてを呪いたいのに、指で散々教えられた敏感な場所をヴィクトルが擦り上げると怒りも嘆きも何もかもすべてがどうでも良くなるほど強い快感が走って、たまらずに安月は甘い悲鳴を上げた。こんな不毛な行為で現実逃避をしている自分自身を責める声がどこかから聞こえる気はするけれど、切れ目なく与えられる倒錯した快楽の前ではその声も呆れるくらい弱い。
 せめて今だけは何も考えなくてもいいように酷くしてほしいと、純粋な欲望が腹の底から湧き出して止まらない。
「ヴィクトル…っ」
「私に縋っていなさい」
 背中に腕を回すように促されて素直に従った安月は、狭い後孔を満遍なく刺激されて身悶える。何度も何度も追い詰められて、高みへと追い上げられて落とされると、流れ続ける涙の理由は次第に曖昧になっていった。
 アパートの薄い壁のことだとか階下の住人への配慮だとか、そんな常識的なことすら微塵も残らず吹き飛んでいく。
 壊すには惜しいと言っていたくせに奥を突く動きには加減がない。だが今はそれで良かった。快楽に溺れてしまえば余計なことを考えなくて済む。
 浅く深く、寄せては返す波のような動きに合わせて抱え上げられた脚が揺れているのが涙で霞んだ視界にぼんやりと映った。身体から切り離されてしまったみたいに曖昧な意識の中では両手で縋っているヴィクトルの背中の感触だけが明瞭で、安月はそれが最後のよすがだと言わんばかりに爪を立ててしがみ付く。
 いつしか奥を満たされ揺さぶられるのが気持ち良いとしか考えられなくなり、甘く啜り泣く声だけが唇から零れるようになった頃、ようやく安月は自分の深い場所へ放たれた他人の体液を感じながら意識を手離した。
「やっと眠りましたね」
 腹の上を白く汚した安月の体液を丁寧に掬って舐めるヴィクトルの左目は、いつの間にか黒と金で彩られていた。
 嘆きではなく快楽だけを追いかけて自分から腰を揺らした安月が放った精液は彼のニオイが溶け込み、腐る寸前の果実に似た爛れた味がする。これは癖になってしまう。下等な蟲が知ったら骨も残さず喰い散らかされる味だ。
 女郎蜘蛛が安月に付けた蚯蚓腫れを強く吸うと、微かに滲む程度の血がヴィクトルの口内に芳しいニオイを振り撒いた。
 しかしその味は精液とは違って薄く苦味を帯びていて、お世辞でも美味いとは言い難い。
 それにしても安月の精液がこれほど美味だったとは、思いがけず嬉しい発見だ。最近はキスに慣れたせいか唾液もそれなりに落ち着いた味になっていたけれど、この濃厚な香味には及ばない。
 肌を汚した精液をすべて味わい尽くしたヴィクトルは力の抜けた安月の身体を軽々と胸に抱き上げ、体勢を変えてベッドに横になると、化け物の性器に貫かれたまま疲れきって眠る唇を塞いで重力に従い滴る唾液さえも味わった。
「これだから人間は面白い」
 吐き出された囁きは人ならざる欲に塗れていた。
 安月のすべてを手に入れたい。
 あたたかい血も肉も一滴の体液も残さずに、彼の魂ごと余すことなくすべてを喰らい尽くしたい。
 化け物らしい残忍な強欲さを瞳に浮かべたまま、ヴィクトルは一晩中、安月の内側に自らのニオイを擦り付け続けた。
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