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第七章 悪役令嬢と誰でもない男神

男爵家の黒犬

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 アクラ・ロコックに引き取られてから7年の歳月が流れた。この数年で「誰でもない神」ノー・ワンや幼名馴染みのハチワレからダラサ語を教わり、わたしは不自由なく喋れるようになっていた。

 自由に口が回るようになっても地球のことは誰にも話さなかった。別に隠すつもりはなかったのだが、ノー・ワンが秘密にしておけとうるさく、そのうちわたし自身も言いたくないと思うようになった。幼女のわたしが実は地球を含めた通算だと●歳だなんて、あえて教えてやる意味が無い。


 春先のその朝、義父アクラの書斎から歴史の本をお借りして夜通し読み耽ったわたしは寝過ごしてしまい、元はアクラが使っていた寝室でアニキに揺り起こされた。

「起きろ、バカ犬! 訓練の時間だ!」

 義兄のハッセは由緒正しい鬼族きぞくの18歳で、この冬には19歳になる。

 ところで貧乏貴族ロコックの城には断熱材なんて無い。わたしの部屋には泥炭を燃やすストーブがあったし絨毯も敷かれていたが、石づくりの床は氷のように冷たく、春先とはいえアニキはつま先をさすっていた。

「……おいなにすんだアニキ。わたしのHPが1点減ってる」

 わたしは兄を観察して自分の考えを改めた。寒さのせいじゃない。アニキはわたしを起こすために蹴飛ばしたようで、絶対防御の壁でつま先を痛めていた。

『黙れ。タスパ語を使えニョキシー。まったく……使用人どもから猥雑な言葉ばかり教わって……』

 兄はわたしを試すようにタスパ語でうめいた。ノー・ワンによると〈聖地〉キラヒノマンサの北方で使われている言葉で、わたしはアニキからタスパ語を教わっている。

『お前の壁は卑怯だぞ。その壁のせいで父上はお前に個室を与えたし、今も、せっかく私が起こしてやったのに寝ながら反撃するとは……』
『……ですね、すみません。寝過ごしたわたしが悪かったのです』
『よろしい。「寝過ごす」という単語を暗記したみたいだな』

 鬼のハッセは偉そうな口調で苦笑し、わたしが寝落ちするまで読んでいた歴史書を手に取った。口には出さないが、「羨ましい」と顔に書いてある。

「他の連中は着替えを始めている。お前も急げ」

 ここは義父のアクラ男爵が用意してくださったわたし専用の部屋で、兄のハッセは個室を持っていなかった。

 兄と一緒に階下へ降りると、ハッセがいつも寝泊まりしている「子供部屋」が見えてくる。

 男爵アクラ・ロコック家の「子供部屋」は、20畳ほどのこの部屋ひとつきりだ。

 室内には木のベッドがいくつも並んでいて、長男のハッセはこの部屋で寝泊まりするし、アクラが部下にしている下級貴族の子どもたちもまたこの部屋で眠るのが規則だった。全員が男子で、貴族の娘は実家で花嫁修業をしている。これはこの領地に特有のことで、義父アクラは女を騎士に雇わない方針だった。

「お前らも起きろ! 朝食前の訓練だ!」

 床に絨毯は無く断熱材として藁が敷かれていて、貴族のひとりが藁を詰めた布団が置かれたベッドから足を下ろすとノミが舞いネズミが逃げ出した。不潔だが、ロコック家にはすべての部屋に絨毯を敷く余裕が無い。

 ベッドを抜け出した少年たちはハッセの号令で着替えを始め、

「お前も早く着替えてきなさい」

 子供部屋のすぐ近くには義母の衣装部屋があり、わたしは手早く厚手のキルトに着替えた。

 他の少年騎士たちと廊下を走って武器庫に入り、キジトラの猫獣人「モモ」に子供用の皮鎧を着させてもらう。黒いスカートに白のエプロンを着たモモはハチワレの母親で、彼女はわたしを着替えさせるとアニキの装備も手伝った。

 刃を落とした練習用の大剣を担いで城の庭に出るとすでに大人の騎士たちがいて、それぞれの騎士は自分の子どもを呼び寄せ、剣や槍、あるいは魔法を教え始めた。チビ騎士のラスルが父親の魔法で鎧ごと吹き飛ばされている。

 ファンタジー感溢れる光景にわたしは胸を踊らせた。この訓練は毎日のことだが、何度眺めてもわくわくする。よく晴れた朝の青空には〈聖地〉が静かに浮かんでいる。

「女騎士ニョキシー、今日は私が相手をしてやる」

 兄がつぶやき、わたしは血圧を上げた。兄は少年騎士の中で最も強いが、3日に1度しかわたしの相手をしてくれない。

「おおー? 良いぜアニキ、ボコボコにしてやんよ!」
「……タスパ語を使いなさい。HPの残りを忘れないように」

 騎士の作法として、決闘前にお互い礼をする。

 その当時のわたしにはカヌストンの加護が無く、まだ全然強いと言えなかった。わたしを加護するノー・ワンも、本人いわく〈武闘派じゃない〉ので、肉弾戦の役には立たない。

 だから、顔を上げるなりわたしはアニキに突撃し——剣をぽいっと雑に投げつけた。

『ふん、そう来ると思ったよ!』

 ハッセが剣を回避しているうちに距離を詰める。

〈——柔道:一本背負い——〉

 地球の忍者に習った技で兄を放り投げると、ハッセはわたしが教えた受け身を取ってダメージを軽減させた。自分が受け身の練習をするためにあえて技を受けたらしい。アニキは庭に寝転がったまま笑った。

『よし、先日と違って今日は痛くなかった。愚妹よ……私は“ウケミ”とやらを覚えたぞ!』

 ハッセはタスパ語を叫びながら立ち上がり、背中についた葉っぱを払った。

『相変わらずお前が使う技はどれも珍しくて良い。最近では叡智ジビカ様も注目しているし、気づいているか? 最初はお前の技を〈謎の体術〉と表示していたティティヴィラス様も、この頃はお前が言った通りの技名を出すようになった……なあ、ジュードー以外に新しい技は無いのか?』
「おおー? なら披露してやろうか。必殺の〈手裏剣術〉をくらえ☆」

 わたしは足元の小石を拾ってアニキに投げつけた。

〈——たぶん投擲術:シュ・リケン……? ——〉

 ティティヴィラスによるバグった技表示が視界に浮かび、アニキは不思議そうな顔でわたしが投げた小石をひょいと避けてみせた。

 避けて当然だ。当時のわたしはクソガキだったしカヌストンの加護も得ていない。投げた小石は剛速球とは言い難かったが、でも、

「——ニンニン、今だ! 火遁かとんの術!」
『なにっ!?』
〈——火炎魔術?:よくわからないが、小石が爆発——〉

 わたしが「刀印とういん」を組んでニンニンと念じると小石は爆発し、アニキは爆風に煽られて卒倒した。丈夫な鎧を着ていたので体に怪我は無かったが、鼓膜を労るように両耳を塞ぎながら立ち上がる。

『シュ・リケンだと……?』

 義兄ハッセは、楽しくてたまらない顔でわたしに質問した。

『おいニョキシー、今のはなんだ? ……初めて見るスキルだ! カトンとはどういう意味だ!?』
「おおー……? 思ったほど効果がねえな……」

 わたしは平然と立ち上がった義兄に対し、犬の黒耳をしおれさせて答えた。ダラサ語を喋っている自分に気づき、タスパ語に切り替える。

『むぅ……不服です。今のスキルはこの数日、兄上を虐殺するためだけに訓練していたのです。投擲系のスキルと同時に、投げた物体に火炎魔術の〈癇癪玉〉を付与する技で……炎の神様に「火遁」と言えば通じるようにお願いしたのですが、威力はいまいちみたいですね』
『……ほほう、それは……実に興味深い』

 妹に爆破をくらったアニキは怒りもせずわたしの解説に聞き入り、何度も「火遁」と繰り返して自分も覚えようとした。

 アニキは数分練習したあと、諦めて言った。

『むう、私では再現できないか……しかし「新しいスキルを使え」と命じたら本当に新種を披露するとはな。ニョキシー、妹よ。他にはどんな技がある?』

 わたしは褒められて嬉しくなり、大昔にジャパンの忍者に習った「刀印とういん」を組んで答えた。右手をチョキの形にし、同じくチョキにした左手で囲む特別なサインだ。

『……ニンニン、いけませんよ兄上。我が奥義の全容はまだ秘密にさせてくださいませ♪』

 わたしは丁寧なタスパ語で返事した。

『すべてを知られてしまいましたら、今後こうして兄上を殺戮できませんでしょ☆』
『いや、“殺戮”て……程度に悩むが、お前にはもっと穏当なタスパ語を教える必要があるようだな。それに「ニンニン」とはなんだ? おそらくまたからダラサ語のスラングを覚えたのだろうが……まあいい』

 叡智の加護を受けているアニキはわたしが地球のニンジャに習った「忍術」にいつも興味津々で、

「今日の試合はお前の勝ちだ、ニョキシー。皆も我が妹が披露した新作スキルに拍手を!」

 男爵家長男のハッセが拍手を送ると模擬戦を遠巻きに見ていた騎士団の連中が慌てて儀礼的な拍手をした。

 ロコック家の騎士たちはみな次期当主のアニキに拍手していて、そのハッセに勝った黒犬の小娘に拍手する変人はいなかった。


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