消毒をして、ガーゼをあてて

九竜ツバサ

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路面電車

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 直に瞼に当たる陽の光でぼんやりと目覚めたとき、室内に透一の姿はすでに無く、掛け時計は朝食の時間を指していた。目尻に生温かいものを感じて重い溜息を吐き、のろのろと顔を洗って食堂へ向かうと、窓辺にいた透一が手を上げたのが見えた。
 隣の空席に座る。透一が「取っておいた。感謝しろよ」と侃爾のぶんの膳を指差す。
 素直に礼を言い白米に箸をつけると、透一が待っていたとばかりに侃爾の顔を覗き込んで声を顰めた。

「お前と寝た女給の話だが……」
「寝てない」

 透一がいやに楽しそうに言い始めるのを、侃爾はピシャリと遮った。しかし未遂ではあるのでばつが悪く、悪意は無いが向かいにいる眼鏡坊主を睨む。眼鏡坊主は気まずそうに視線を逸らし、味噌汁を掻き込んで席を立った。

 透一は上げていた口角を平行に戻し、
「まあ、その彼女が、噂によると店を辞めたらしい」
 と低い声で続ける。
 侃爾は興味の無い様子で魚の干物を口に運び、適当な相槌を打った。

「それがどうにも痛々しい理由でな。顔に火傷をしたらしいんだ。隠さないと外も歩けないようなひどい有様で、とても接客できたものじゃないらしい。すでに田舎の実家に帰ってしまったようだが、最後に店に顔を出したとき『あの人は出禁にしたほうがいいです』と言い残したそうだ」

 透一は滔々と語り、含みを持たせて一拍置いた。
 その話を、侃爾はまるで他人事として聞いていた。
 しかし、次の言葉に目を瞠った。

 彼は冷たい声色で、
「『あの人』というのはお前のことらしいぞ、侃爾」
 と言った。

「は?」
 侃爾は阿呆のように口を開けた。
 何故その流れで自分の名が出てくるのか不思議でならなかった。

「やはり知らなかったか。噂を聞いた奴ら、お前と一緒に帰った晩に何かあったんじゃないかと勘繰ってるぞ。俺は別に問いただしたいわけじゃない。ただ、最近のお前の言動は端から見ていても本当に気が狂ったようだからさ。心配してるんだ」

 透一は肩をすくめて、飲み残しの冷やを呷った。
 気が狂っているなど言われる謂れなど無い。透一の言葉に抗議の一つもしたくなったが、己の不利が覆る気もせず口を噤んだ。
 しかし他人に、――しかも異性の顔に、傷をつけるなんてことを自分がするわけが無い。
 そんなことが容易に出来るのなら、この学校に入学して苦労などしなかった。

 透一は前を向きながら同じことを考えていたらしく肩を落とし、
「侃爾が傷や血が苦手なことはよく知ってる。創傷処置や手術の見学中に必ず倒れてたもんな。そんなお前が人に火傷をさせるなんて到底無理な話だ。まあとにかく、あの店には行かないほうがいいぞ。女の報復は怖いからな」
 と皮肉げに片方の口角を上げた。

 身に覚えの無い噂のせいで、初子に惚れ込んでいた級友の何名かには避けられるようになった。しかし侃爾は気に留めず、勉学だけに専念した。休憩や放課後には図書館に籠り試験に向けて教科書を捲る。
 特段喜びの無い毎日は石ころのように転がり、すぐに約束の土曜日に辿り着いた。





「ゆ、揺れますね」
 ぎゅうぎゅうに人を積んだ路面電車のロングシートの隅で、シイは手すりに縋りつくようにして呟いた。電車がガタガタと揺れるたびに体を縮こめる彼女を観察しながら、隣に座る侃爾はその細い体を支えてやろうかと迷っていた。

「電車に乗るのは初めてか?」
 そう問うと、シイは不安げに頷いた。

 居住している町から北方にある温泉郷まで、路面電車で一時間半ほど。シイはそれに乗りながら終始ビクビクと、――まるで鬼の口の中にでもいるような顔をしながら息を詰めていた。

 化粧を施した瞼の際が涙で濡れている。
 唐突に不安定に跳ねる車体。
 時折、シイの押し殺した悲鳴が漏れ聞こえてくる。

 見兼ねて侃爾がシイの腕を肘で小突くと、彼女は右目に垂らした前髪を揺らして侃爾のほうを振り向いた。

「ほら、嫌で無ければ掴まれ。支えてやるから」

 言いながら侃爾が僅かに右腕を広げると、シイは思考を放棄したように寸の間に侃爾の胸に縋りついた。その勢いに、侃爾が「う」と呻く。
 見下ろせば、シイのつむじが下顎のあたりを掠めていた。白い両手は己の長着の胸元をぎゅうと握り、寄せ合った体は驚くほどに密着している。

「ご迷惑をお掛けしてすみません……」
 他の乗客を気にして小声で謝るシイの吐息を首元で感じ、侃爾は思わず拳を硬くした。
「……別に」
 素っ気無く返したが、侃爾の鼓動は激しく鳴っていた。

 狭い車内に視線を彷徨わせていると、向かいのシートに座る口髭の中年男性と目が合った。温かく見守るような眼差しが逆に侃爾の心のささくれた部分を刺激した。

 電車が揺れるたび、シイの体が胸元に押しつけられる。触れているところが変な熱を持ち、汗が吹き出る。この状況でシイが頼れるのは自分だけ、という優越感のようなものすら湧き出てきて、侃爾は不埒な感情を持ち始めた己を殴りたくなった。

 必死にしがみついてくるシイの支えになりながら悶々としているうちに、終着駅に着いた。電車を降りると、渓流に沿って伸びる枝の残雪が午後の陽射しを浴びて輝き、豊かな自然の美しさを一層際立たせていた。水の流れる涼やかな音色が聞こえる。川の奥へ立ち並んでいる歴史のある温泉施設の居住まいは壮観だった。

 侃爾は、あちこちを見回し惚れ惚れとしているシイの手から荷物を取り上げ、さくさくと歩き出した。シイも慌ててついてくる。川を挟んで施設とは逆側の道路には、観光客らしき人々の流れが出来ていた。幼い頃に家族と訪れた記憶を辿れば、この先にあるものの答えは分かっている。

 両開きの扉が解放された、ドーム型の建物。
 大きな窓に囲まれた室内の屋根はガラス張りで、陽をよく通すような造りになっている。人の波に乗ってその中に入ると、外気よりも高い室温がむわっと皮膚に纏わりついた。

「わああ」

 背後でシイが感嘆の声を上げた。
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