消毒をして、ガーゼをあてて

九竜ツバサ

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風呂

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 椿園の向かい側にある温泉施設の内装は古い造りだったが、清掃が行き届いていてどこも清潔だった。ホカホカと体から湯気を立たせた夫婦が別々の暖簾の奥から出てくる。宿泊客も多いが、日帰り入浴を利用する地元民が多いこの温泉は気安い雰囲気で、当時幼かった侃爾は好ましく思っていた。

 侃爾とシイは待ち合わせ時間を決め、自らが進むべき暖簾の向こうへ入っていった。
 夕方にしては早く半端な時間のせいか大浴場は無人だった。侃爾はゆっくりと身を清め、乳白色の湯に浸かり深く息を吐いた。

 体力はあるほうだと自負しているが、最近の激しい感情の起伏に疲弊していた。シイといると心を掻き乱される。否、一緒にいなくても、ずっと頭の中にいるような感覚に胸が苦しくなる。熱めの湯に心身の緊張が溶けてゆくのを感じながら、侃爾は心地良さに目を閉じた。

 熱めの湯に汗が噴き出してきた頃、籠った熱を冷まそうと外に出た。正方形の屋根がついた広い露天風呂にもやはり人はいなかったが、冬の終わりの風に体を当たらせていたとき、ドタバタと騒々しい足音が聞こえて出入口の戸が大きく開いた。

「うわあ寒い!」

 六、七歳の男児だった。
 屋内から駆け出てきて、飛沫を上げて石造りの温泉に飛び込んだ。後ろからは祖母らしき老婆がついてきて、「コラコラ」と暢気に笑っている。
 侃爾はできるだけ近付かないよう隅へ避け、空気と同化するようにひそかに息を潜めた。
 そして努めて自然な動作で老婆から視線を逸らした。

 何故異性がここにいるのか。
 そう考え、幼い頃、露天風呂には確かに父も母も揃っていたことを思い出す。そう、思い返せばこの露天風呂は混浴だった。
 白濁した湯のお陰で、肩まで浸かった老婆の体は霧の中にあるように隠されている。

 ザブザブと泳ぐ子ども。
 一瞬にしてくつろぎの場で無くなったそこから早々に出ようかと腰を上げたとき、再びカラカラと戸が開いた。嫌な予感がした。湯気の中で目を凝らせば、見慣れた瞳と視線が合った。

「え…………」

 愕然とした声を漏らして現れたシイが、胸から足の付け根までを覆った手拭を引き寄せたのを見て、侃爾は刹那のうちに顔を背け、浮かせていた尻を石の上に戻した。普段意識しない女体の輪郭を目の当たりにして心臓が破けそうなほど脈打つ。せめて自分の裸は見せないようにと白濁に沈めた体が強張った。
 シイもそれに気付いたのか、急いで風呂に入り胸を守るように体を縮込めた。瞬時に波紋が広がり、長い髪が水面でゆらゆらと揺れる。

 戸の近くにいるシイと、風呂の奥にいる侃爾は互いに視線の置き場が無く、互いに違う方角の山を見ていた。

 不格好に泳いでいた男児はいつのまにか足を止めていた。
 川のせせらぎが動揺した心を覆い隠す雑音として耳孔に注ぎ込む。
 突然訪れた静寂を訝しく思い、侃爾が視界の端で子どもの様子を見ると、彼はじいっとシイを見つめていた。否、観察していた。そして団栗眼を凝らして、傍にいた老婆にこう言った。

「このおねえちゃんの顔、ミミズがくっついているみたいで気持ち悪いね」

 カッとしたのはシイでは無く侃爾のほうだった。
 しかし男児は侃爾の険を含んだ眼差しに気付かず、シイに向かって「ねえ、それどうしたの?」と続けた。

「悪いことして罰が当たったの? お店の物盗んだとか? 誰かにひどいことしたとか?」
 ねえ、ねえ、ねえ。

 男児はしつこくシイに詰め寄った。 
 シイは自分を抱くようにして顔を青くしている。
 老婆は何でもないふうに自分の肩に湯を掛けながら、男児の行動を放任していた。

 そんな中、侃爾だけが猛烈に怒っていた。温泉の湯よりも熱いものが頭に上って、今にも爆発してしまいそうだった。

 激しい水音をさせながら立ち上がり、シイの隣まで行くと威圧的な動作で座り込んだ。男児は茫然としながら侃爾とシイを交互に見て、侃爾に睨まれていることを察して怯えたように老婆に縋りに行った。

 子どもの戯言など気にするな、――と喉まで出てきたが飲み込んだ。
 己も以前までそう思っていたことは間違いないのだ。

 気持ちの悪い傷。
 罪にに対する罰。

 侃爾はさりげなくシイの顔を見ようとして失敗した。シイも侃爾を見ていた。

「すみません……」

 申し訳なさそうに頭を下げる彼女の言葉に胸の中がチクチクと痛んだ。
 お前は悪くないだろう、――その言葉はやはり喉まで上がってきて胃に落ちた。

 二人の間の気まずい雰囲気を加速させるようにに、男児と老婆が露天風呂から上がって行った。広大な自然に囲まれた場所で、二人だけが心許なく残された。

 先に口を開いたのはシイだった。

「顔を洗ったら、お化粧が取れてしまって――……。こんな気持ち悪い奴と連れ合いだと思われない方がよかったですよね」

 シイの横顔には引き攣った微笑が貼り付いていた。
 侃爾は返答に困り、黙した。

 顔の傷もなど本人が気にさえしなければ、侃爾は微塵も気にならないのだった。それよりも何度も転ばれるほうがよっぽど気になるし、心労が募る。連れ合いに傷があろうが辟易などしない。しかしそれを伝えるべきかどうか、彼は悩んだ。
 考えているうちにシイが顔を伏せた。

「――ごめんなさい」

 悄然とした声は、川の流れと共にか細く消えていった。
 侃爾は無意味に山の稜線を見つめたまま、平静なふりをして「……別に」とだけ答えた。

 再び侃爾がシイの様子を盗み見ると、俯いたことで伸びたうなじに濡れた髪が貼り付いているのが見えた。白い皮膚に、視線が吸い込まれる。
 何本か束になって垂れた黒髪の隙間――――そこに紋様のように引かれた赤い線が見えた。
 
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