【短編エッセイ】 紙魚の海

糺ノ杜 胡瓜堂

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第三十五話 「弐拾年を経て帰りし者の事」

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 根岸鎮衛著「耳嚢」 巻之五


 「弐拾年を経て帰りし者の事」より

 江州の八幡(滋賀県近江八幡市)はその領内では、ずいぶんと繁栄している町だという。

 寛延・宝歴の頃、その町に住んでいた松前屋市兵衛という裕福な者が、妻を迎えてしてしばらくの後、突然行方不明になった。
 妻や家の者は大変嘆き悲しんで。金を惜しまず方々を捜し歩いたが、結局市兵衛は見つからなかった。

 他に家の財産を相続する者もなく、妻も一族の中から迎えた者だったので、仕方なく妻は他から夫を迎え再婚し、市兵衛が行方不明になった日を命日として弔いをした。


 市兵衛が失踪した時、彼が夜中に「便所へ行く」と言って下女を呼び、彼女に灯りを持たせて便所へと行ったきり、いつまで経っても戻ってこなかった。
 妻が不審に思って便所へと見に行くと、下女は便所の外に立っている。

 妻が心配になって、便所の外から「どうしてこんなに用足しが長いのでしょう」と声をかけたが、中からは全く返事がない。
 思い切って妻が便所の扉を開けると、そこにはもぬけの殻で誰も居なかったという。
 
 そのことから、当初は下女が市兵衛と浮気をしていたのではないかと疑われ、下女はずいぶん難儀したとのことだ。
 
 ところが、二十年が過ぎたある日、突然便所で人を呼ぶ声がするので行ってみると、市兵衛が行方不明となった時の衣服そのままの姿で便所に座っているではないか。

 家の者は驚き、もう失踪してから二十年も経っていることを話すと、特に返事はなく腹が減ったという。
 早速食事を作って食べさせていると、市兵衛の着ていた衣服が埃のように崩れ落ちて消え失せ、彼は素っ裸になってしまった。
 家の者達は市兵衛に新しい着物を着せて薬などを与えたが、昔のことを全く覚えていない様子で、その後、家族の者は病気等に験のある色々なまじないを試してみたという。

 これは私(鎮衛)のところに来る眼科の医者が、実際に見たことだと話したことだ。

 市兵衛は戻ってきたが、その妻は既に再婚していたので、新しい夫と市兵衛の付き合いはおかしなものだったろうと笑っていた。


 ・・・まさに当時信じられた「神隠し」というものでしょう。

 無類に面白い、例の岡本綺堂の小説「半七捕物帳」にも、この神隠しを題材にしたお話(第十一話「朝顔屋敷」)がありますが、だいたい「神隠し」は天狗の仕業ということになっているようです。
 この逸話などは、戻ってきた市兵衛の着ていた服が、一瞬にして塵になって消えてしまった、という描写がリアリティを感じます。
 SF風にいうと、次元の裂け目に落ちたとか、異次元にいたのだとか、面白い解釈が出来そう。

 また、夫が死んだと思って妻が再婚した後、前夫が戻ってきてひと騒動起きる・・・という筋書きは、落語の「小間物屋政談」等、色んな話があるようです(笑)
 (立川志の輔さんの「小間物屋政談」は最高!)

 

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