佐藤と朝霧とおうちごはん

藍 雨音(アイ アオト)

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135 諦める人、諦められない人

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冷たかった朝霧の腕が、手が、だんだんと温かくなっていくのを感じながら、その呼吸に身を委ねている。
俺、本当に慣らされたな。
こんな風に抱き込まれる、なんて子供の頃以来だぞ。
俺は、抱き込む側だと思っていたのに。

広い胸がゆっくり膨らんで、ゆっくり沈む。
緩まない腕の中、朝霧が息を吸い込むたび、俺が窮屈になる。
ぬくぬく伝わる温かさに包まれ、力を抜いて体を預けている。
悪くないと思ってしまう自分に苦笑した。
居心地良いよ、お前。
……それを口にすることは、ないだろうけれど。

もう一度苦笑と共に、息を吐き出して。
ゆっくりまぶたを落として。
――そして、ぱちっと開けた。

「おい、もう時間切れだ。放せ放せ!」

ぺちぺち叩くと、顔を伏せたままの朝霧の腕が余計に締まった。

「……延長」
「無理! 腹減ったんだよ、お前も減ってんだろ」
「……」

結構長い逡巡の後、ようやく腕が緩み始めた。
むくれたような、不貞腐れたような、怖くない朝霧の表情。
すげえ近い距離にある、その精悍な顔。
やっと、まっすぐ俺を見たいつもの強い瞳。
……距離感、おかしいからな? 
こんな距離になる時って、普通――
間近く絡んで離さなかった朝霧の視線が、わずかに、下にずれた。
ちらりと覗く、瞳の奥の炎。

ぎくり、跳ねる心臓を感じて、慌てて緩んだ腕をくぐり抜ける。
素早く距離をとって一息つくと、何事もなかったように振り返った。

「お前、何食う? 朝飯……つうか、もう昼?」
「……なんでも」

額を押さえて眉間にしわを寄せている朝霧を見て、苦笑する。
そうだよ、お前、反省しろ。
危ねえやつ。
速い鼓動を無視して冷蔵庫を覗き込む。
ついてきた朝霧が自分の席に座ったのを確認して、意識して思考を切り替えた。

「あー。年末年始用に食料買いだめしとかなきゃだな」
「年末年始?」
「まあ最近は店も結構開いてるけどさ、安いとこは閉まってたりするし。あと、俺自身買い物行きたくねえし」

考えるのが面倒なので、もうラーメンでいいかと材料を取り出しながら答える。
ふと、朝霧が黙り込んでいるのに気が付いて、振り返った。
黙って自分の指先を見ている朝霧の表情が、どこか暗い。
何か言おうとして、ぐっと唇を結んだのが分かる。

きっと、俺が見ていることに気づいていないだろう。
耳もしっぽも垂らして俯く大きな犬は、どうしたって俺の胸を揺らす。
ずるいだろ、そんな顔。

「なんだよ? デカわんこ」

つい、そうからかってわしゃわしゃと髪をかき混ぜてやった。
なんか、すげえナーバスになってんな。
お前が、そんなに揺らぐことがあるなんて。
俺がフォローできることが嬉しい……なんて思うのは、やっぱり性格が悪い。
ハッとこちらを見上げた朝霧が、むすっと視線をそらす。

「……犬じゃない」
「お前、猫派? 猫もかわいいけど、俺昔犬飼ってたからさ」
「じゃあ犬でいい。代わりに俺でいいだろ」
「誤解を招くようなこと言うなよ?!」

お前のトーンじゃ冗談にならねえからな?!
結局、何が言いたいのか分からないまま、少し気分の上向いた様子に笑って、調理に戻った。

フライパンにニンニクを香り立たせ、朝霧用と出汁代わりにぶつ切りの鶏肉をじっくり焼いて。野菜は何を入れようか。
冷蔵庫から白菜を取り出したところで、ぼそりと小さな声が聞こえた。

「……やっぱり、ダメか?」
「え、なんて? ダメ? 何が?」

まったく心当たりなく、首を傾げる。
視線の合わない朝霧が、言い淀んで口を開いたり閉じたりして。
これは思ったより深刻なことか、と椅子を引き寄せ、隣から覗き込んだ。

「何の話だよ。ちゃんと言え」
「…………旅行。無理か? 俺とは」

こちらを向いた朝霧の目が、まともに俺に突き刺さる。
諦めたような、押し殺したような、よくよく自制のきいた瞳。
ぐっと、胸が詰まった。

「旅行……って。……ああ、あれか! 雪見温泉?」

こくり、と頷いた朝霧に手を伸ばしたくなって、椅子を握りしめた。
そうか、まとまった休みがあるの、年始だもんな。
お前、そんなに楽しみにしてたの。

「なんでだよ、お前の休みは把握してるって言ったろ? 温泉入って帰るだけなら、2日あれば行けんだよ。年始に行きたかったか?」

す、と息を呑んだ朝霧が、ゆっくりそれを吐き出した。

「……いい、のか?」
「いいも何も、お前しか今のところ手札はねえんだよな。お前が行けねえなら……あ、後輩か宮城さんあたり声かけ――」
「俺と行くと言った」

途端にまなじりを険しくする朝霧がおかしくて、つい吹き出した。
あのな、俺も楽しみにしてたんだよ。

「じゃあ、年始にするか? けど、高いぞ? あと、今から宿取れるか……?」
「俺が出す。高くていい」
「俺が嫌だわ?! まー、そりゃ年始の方がイベントも多いし、楽しいのかもなあ。ここしばらく旅行なんて行ってなかったし、豪勢に行くのもアリかもな」
「旅行はずっと行ってない。遠征くらいだ」
「寂しいな?! そりゃ、パーッと行くべきだな?!」

確かに、確かに朝霧の生活スタイルからすれば、旅行とか行くはずない。
うわ、責任重大だ。

「よし、旅行雑誌でも買って計画練るか!」
「ああ」

無表情のはずだったその顔が、大きく笑み崩れた。
素直に胸の内を晒す、その光。
まともに浴びた俺は、しばらく息を止める羽目になったのだった。

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