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目が覚めたのは、アラームが鳴る十分前だった。
いつもならあと数分の二度寝をむさぼるのに、今朝は胸の奥がざわついて眠れない。
枕元のスマホを手探りで掴み、スリープを外す。
通知の欄に、見慣れない名前――いや、昨日登録したばかりの名前があった。
心臓が一拍、跳ねる。
寝起きのぼんやりが一瞬で吹き飛び、指先が震えた。
――返信が、来てる。
既読だけで終わっていたあのLINE。
その下に、新しい文字列が並んでいる。
『こちらこそ、ありがとうございました。〇日の午前なら大丈夫です』
たったそれだけ。
短い、丁寧な、そっけないくらいの文章。
でも、私は画面を見つめたまま、声が漏れそうになった。
「……合意、してる?」
誰に問うでもなく、呟いてしまう。
まさか本当に返信が来るとは思っていなかった。
既読になっただけで舞い上がっていたのに、その先にさらに文字がある。
胸の奥から、ぞわぞわと甘い痺れが広がる。
浮かれるな。
相手はセラピスト。私は客。しかも性的なサービスを通じて繋がった関係。
真剣とか、恋とか、そんな言葉を口にしていい場所じゃない。
頭では分かっている。
それでも、指先は返事を打ち始めていた。
『次の休みに伺えます。駅前のカフェで、午前10時にどうですか』
打ち終えて、何度も見直す。
色気のない提案。あえてそうした。
ラブホテルでもバーでもなく、朝のカフェ。
“やましいことなんてありません”とでも言うような文章。
送信するだけで、喉が渇くほど緊張する。
ピコン。
また軽い音。送ってしまった。
もう取り消せない。
目を閉じて深呼吸を繰り返す。
不安と浮かれが交互に波のように押し寄せる。
「もしかしたら遊びかもしれない」
「いや、あの夜の感覚は本物だった」
「でも私だけが舞い上がってる?」
「でも既読だけで満たされるくらい惹かれてる」
たった二度、客とセラピストとして会っただけ。
それなのに、もう私は抜け出せない。
***
化粧を整え、髪をまとめ、制服に袖を通す。
鏡に映るのは、どこにでもいる風俗嬢の顔。
仕事の顔。プロの顔。
けれど頬がわずかに紅潮していて、それをファンデーションで隠す。
心を悟らせてはいけない。
出勤すると、待機室にはいつもの空気。
愚痴と笑い声、タバコの煙。
私はバッグを置き、番号が呼ばれるのを待つ。
最初の客は、常連の会社員風。
「今日も頼むよ」と軽い調子で迎えられる。
私は笑顔を作り、仕事をこなす。
――不思議だった。
今までなら「早く満たして」と焦る気持ちが滲んでいたのに、今日はただ淡々と。
適度な距離で、適度な優しさで。
結果、客の反応はいつも以上に良かった。
「やっぱり君が一番楽だな」
その言葉が、妙に素直に胸に響いた。
次の客も、その次の客も。
無理をしないで流れるように応じているのに、皆が満足して帰っていく。
待機室に戻るたび、胸の奥がひそかに弾んでいた。
――あの人のせいだ。
彼を思い出すだけで、私の中の「もっと欲しい」という焦燥が不思議と薄れていた。
だから逆に、客には程よい距離感で接することができたのかもしれない。
でも。
個人的な連絡先を交換してしまった罪悪感が、背後からじっと見張っている。
誰かに知られたら終わりだ。
規約違反。バレれば店を辞めるしかない。
それでも――。
控室で一息つきながら、スマホをそっと取り出す。
LINEの画面には、今朝のやり取りが並んでいる。
短い、丁寧な文字列。
そこに確かに繋がりがある。
それだけで、胸の奥が甘く痺れる。
「後悔するかもしれない。でも……」
小さく笑って、画面を伏せる。
今は、後悔すら甘い。
休日の午前十時。
駅前のカフェのガラス扉に手をかける前、私は何度も深呼吸を繰り返した。
「普通の待ち合わせ」――そう何度も頭に言い聞かせる。
けれど胸の鼓動は、理屈をすり抜けて暴れていた。
店内はまだ混み合っていなかった。窓際の席に、見慣れた横顔があった。
彼もこちらに気づき、立ち上がる。
「……おはようございます」
「おはようございます」
礼儀正しい挨拶。なのに、視線がぶつかった瞬間、互いにすぐ逸らしてしまう。
向かい合って座り、店員がメニューを持ってくる。
「コーヒーをお願いします」
「じゃあ、同じので」
注文のやりとりですら、ぎこちない。
沈黙を避けるように、私が口を開いた。
「……まさか、あんなところで会うとは思いませんでした」
彼が苦笑する。
「本当に。……正直、気恥ずかしかったです」
その一言に、胸がきゅっと縮む。私も笑いながら、頬が熱くなるのを隠した。
カップが運ばれてくる。
湯気の向こうで、彼の指先がカップを持ち上げる仕草を目で追ってしまう。
仕事のときと同じ手。私を翻弄した手。
慌てて視線を戻し、無理に会話を繋ぐ。
「普段は……会社員なんですか?」
「はい。営業職です。副業、っていうと聞こえは悪いですけど」
「そうなんですね」
私は頷き、ストローを回す。
「私も……普段はごく普通に過ごしてます。誰も気づかない。……でも」
言葉が詰まる。けれど、ここで黙ったら同じだ。
「……普通じゃ、満足できなくて。だから、ああいう場所にいるんです」
彼の目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、低い声が落ちた。
「……俺もです。普通には応えられなくて。ずっと失敗ばかりで」
「失敗?」
「……途中で止まる。最後まで行けない。相手に迷惑ばかりかけて……」
店のざわめきが遠くなる。
彼の声が、真っすぐに耳へ届く。
「……だから、あの夜、正直驚きました」
「私もです。あんなに合うなんて……思ってもみなかった」
言葉が重なる。互いに口を閉ざし、気恥ずかしくて目を逸らす。
カップに口をつける。冷めかけたコーヒーの苦みが舌に広がった。
沈黙の隙間に、鼓動だけがうるさく響く。
「……似たようなものですね」
私が笑うと、彼も小さく笑った。
その笑みが、仕事の顔でも営業の顔でもない、ただの素の表情に見えて、胸が痛くなる。
沈黙が長引く。
でも、その沈黙は苦しくなかった。
むしろ、言葉にできない思いが満ちていくのを隠すための沈黙だった。
――このまま、ホテルに行けたら。
心の奥で声がする。
だけど、大人としての節度が口を閉ざす。
始まり方が特殊だからこそ、軽率に踏み出したくない。
彼も同じことを考えている。視線の揺れで、それが分かる。
「……この後、少し歩きませんか」
彼がふいに言った。
心臓が強く跳ねる。
歩く――そんなの、口実だと分かっている。
でも、否定する理由もない。
「……はい」
店を出ると、初夏の光がアスファルトを照らしていた。
並んで歩く。肩が触れるほど近くはないのに、体温が伝わる気がする。
駅前の通りを抜ける先に、ホテル街の看板がちらちらと見え始めた。
口には出さない。
でも、お互いの沈黙がすでに答えになっていた。
いつもならあと数分の二度寝をむさぼるのに、今朝は胸の奥がざわついて眠れない。
枕元のスマホを手探りで掴み、スリープを外す。
通知の欄に、見慣れない名前――いや、昨日登録したばかりの名前があった。
心臓が一拍、跳ねる。
寝起きのぼんやりが一瞬で吹き飛び、指先が震えた。
――返信が、来てる。
既読だけで終わっていたあのLINE。
その下に、新しい文字列が並んでいる。
『こちらこそ、ありがとうございました。〇日の午前なら大丈夫です』
たったそれだけ。
短い、丁寧な、そっけないくらいの文章。
でも、私は画面を見つめたまま、声が漏れそうになった。
「……合意、してる?」
誰に問うでもなく、呟いてしまう。
まさか本当に返信が来るとは思っていなかった。
既読になっただけで舞い上がっていたのに、その先にさらに文字がある。
胸の奥から、ぞわぞわと甘い痺れが広がる。
浮かれるな。
相手はセラピスト。私は客。しかも性的なサービスを通じて繋がった関係。
真剣とか、恋とか、そんな言葉を口にしていい場所じゃない。
頭では分かっている。
それでも、指先は返事を打ち始めていた。
『次の休みに伺えます。駅前のカフェで、午前10時にどうですか』
打ち終えて、何度も見直す。
色気のない提案。あえてそうした。
ラブホテルでもバーでもなく、朝のカフェ。
“やましいことなんてありません”とでも言うような文章。
送信するだけで、喉が渇くほど緊張する。
ピコン。
また軽い音。送ってしまった。
もう取り消せない。
目を閉じて深呼吸を繰り返す。
不安と浮かれが交互に波のように押し寄せる。
「もしかしたら遊びかもしれない」
「いや、あの夜の感覚は本物だった」
「でも私だけが舞い上がってる?」
「でも既読だけで満たされるくらい惹かれてる」
たった二度、客とセラピストとして会っただけ。
それなのに、もう私は抜け出せない。
***
化粧を整え、髪をまとめ、制服に袖を通す。
鏡に映るのは、どこにでもいる風俗嬢の顔。
仕事の顔。プロの顔。
けれど頬がわずかに紅潮していて、それをファンデーションで隠す。
心を悟らせてはいけない。
出勤すると、待機室にはいつもの空気。
愚痴と笑い声、タバコの煙。
私はバッグを置き、番号が呼ばれるのを待つ。
最初の客は、常連の会社員風。
「今日も頼むよ」と軽い調子で迎えられる。
私は笑顔を作り、仕事をこなす。
――不思議だった。
今までなら「早く満たして」と焦る気持ちが滲んでいたのに、今日はただ淡々と。
適度な距離で、適度な優しさで。
結果、客の反応はいつも以上に良かった。
「やっぱり君が一番楽だな」
その言葉が、妙に素直に胸に響いた。
次の客も、その次の客も。
無理をしないで流れるように応じているのに、皆が満足して帰っていく。
待機室に戻るたび、胸の奥がひそかに弾んでいた。
――あの人のせいだ。
彼を思い出すだけで、私の中の「もっと欲しい」という焦燥が不思議と薄れていた。
だから逆に、客には程よい距離感で接することができたのかもしれない。
でも。
個人的な連絡先を交換してしまった罪悪感が、背後からじっと見張っている。
誰かに知られたら終わりだ。
規約違反。バレれば店を辞めるしかない。
それでも――。
控室で一息つきながら、スマホをそっと取り出す。
LINEの画面には、今朝のやり取りが並んでいる。
短い、丁寧な文字列。
そこに確かに繋がりがある。
それだけで、胸の奥が甘く痺れる。
「後悔するかもしれない。でも……」
小さく笑って、画面を伏せる。
今は、後悔すら甘い。
休日の午前十時。
駅前のカフェのガラス扉に手をかける前、私は何度も深呼吸を繰り返した。
「普通の待ち合わせ」――そう何度も頭に言い聞かせる。
けれど胸の鼓動は、理屈をすり抜けて暴れていた。
店内はまだ混み合っていなかった。窓際の席に、見慣れた横顔があった。
彼もこちらに気づき、立ち上がる。
「……おはようございます」
「おはようございます」
礼儀正しい挨拶。なのに、視線がぶつかった瞬間、互いにすぐ逸らしてしまう。
向かい合って座り、店員がメニューを持ってくる。
「コーヒーをお願いします」
「じゃあ、同じので」
注文のやりとりですら、ぎこちない。
沈黙を避けるように、私が口を開いた。
「……まさか、あんなところで会うとは思いませんでした」
彼が苦笑する。
「本当に。……正直、気恥ずかしかったです」
その一言に、胸がきゅっと縮む。私も笑いながら、頬が熱くなるのを隠した。
カップが運ばれてくる。
湯気の向こうで、彼の指先がカップを持ち上げる仕草を目で追ってしまう。
仕事のときと同じ手。私を翻弄した手。
慌てて視線を戻し、無理に会話を繋ぐ。
「普段は……会社員なんですか?」
「はい。営業職です。副業、っていうと聞こえは悪いですけど」
「そうなんですね」
私は頷き、ストローを回す。
「私も……普段はごく普通に過ごしてます。誰も気づかない。……でも」
言葉が詰まる。けれど、ここで黙ったら同じだ。
「……普通じゃ、満足できなくて。だから、ああいう場所にいるんです」
彼の目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、低い声が落ちた。
「……俺もです。普通には応えられなくて。ずっと失敗ばかりで」
「失敗?」
「……途中で止まる。最後まで行けない。相手に迷惑ばかりかけて……」
店のざわめきが遠くなる。
彼の声が、真っすぐに耳へ届く。
「……だから、あの夜、正直驚きました」
「私もです。あんなに合うなんて……思ってもみなかった」
言葉が重なる。互いに口を閉ざし、気恥ずかしくて目を逸らす。
カップに口をつける。冷めかけたコーヒーの苦みが舌に広がった。
沈黙の隙間に、鼓動だけがうるさく響く。
「……似たようなものですね」
私が笑うと、彼も小さく笑った。
その笑みが、仕事の顔でも営業の顔でもない、ただの素の表情に見えて、胸が痛くなる。
沈黙が長引く。
でも、その沈黙は苦しくなかった。
むしろ、言葉にできない思いが満ちていくのを隠すための沈黙だった。
――このまま、ホテルに行けたら。
心の奥で声がする。
だけど、大人としての節度が口を閉ざす。
始まり方が特殊だからこそ、軽率に踏み出したくない。
彼も同じことを考えている。視線の揺れで、それが分かる。
「……この後、少し歩きませんか」
彼がふいに言った。
心臓が強く跳ねる。
歩く――そんなの、口実だと分かっている。
でも、否定する理由もない。
「……はい」
店を出ると、初夏の光がアスファルトを照らしていた。
並んで歩く。肩が触れるほど近くはないのに、体温が伝わる気がする。
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