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無言のまま、ホテルの自動扉を抜けた。
昼の光を遮る廊下は少し冷たくて、その冷たさが、逆に心臓の熱を浮き上がらせる。
受付を通り、鍵を受け取り、二人並んでエレベーターに乗り込む。
鏡に映る自分の顔は、どこか強張って見えた。彼の横顔も同じように固い。
部屋の扉を閉めた途端、静けさが落ちる。
カーテン越しの昼の光がベッドを白く照らしている。
私はバッグを椅子に置き、彼も上着を脱いで背もたれに掛けた。
それでも、どちらもすぐには近づかない。
妙に落ち着かない沈黙が、部屋に満ちていた。
彼が、ゆっくりと息を吸い込む。
「……今さらですけど」
低く抑えた声に、私は顔を上げた。
「高瀬誠一と言います」
源氏名ではなく、本当の名前。
思っていたよりも素朴で、響きがまっすぐで、胸の奥にすとんと落ちた。
私は唇を湿らせて、うなずく。
「……三浦奈緒です」
リカではない。ここにいる“私”。
名前を名乗っただけで、裸よりも深くさらけ出したような気がして、胸がざわめいた。
「……奈緒さん」
彼がその名を呼ぶ。
たった三文字なのに、鼓動が跳ね上がる。
言葉にしたら戻れない気がして、私は小さく笑った。
「誠一さん、ですね」
彼もわずかに笑ったが、すぐ真顔に戻る。
「……さっき、カフェで言いましたけど」
少し間を置いて、彼が口を開いた。
「俺は、普通には応えられないんです。途中で止まることが多くて。……だから、あなたに聞いてみたい」
視線がまっすぐに射抜いてくる。
「奈緒さんにとって……何が足りなかったんですか」
静かな問いだった。責めではなく、知ろうとする眼差し。
私は一瞬言葉を探し、指先を絡めた。
「……今まで、一度で満たされたことがなくて。笑ってごまかして、でも本当は、いつも置いていかれてました」
声にすると、思ったよりも苦い響きになった。
「足りないまま、終わる夜ばかりで……。だから、あそこにいたんです」
誠一は静かに頷いた。
「……そう、ですか」
間を置き、目を伏せ、そしてまた私を見つめる。
「俺も、満たせないまま謝る夜ばかりでした。……だから」
小さく息を吐く。
「もしかしたら、俺たち、噛み合うのかもしれませんね」
部屋の空気が、ふっと変わった。
まだ触れていない。まだ近づいていない。
それなのに、白い昼光の下で、静けさに熱が混じっていく。
呼吸が浅くなり、視線が絡まるたびに心臓が早鐘を打った。
息が合う、という言葉が、こんなに静かな形で立ち上がるものだとは思わなかった。
私と誠一は、まだ距離を詰めていない。それでも、空気の温度が一段深くなる。
最初に近づいたのは彼の方だった。
ベッドの端に腰を下ろしながら、手を伸ばす。迷いのない速度で――でも、押しつけない。
指先が、うなじの産毛を撫でた。すっと、寒気に似た甘さが背骨を走る。
「触れても、いいですか」
「……うん」
許可の言葉を待ってから、彼は指の面を広げる。
髪を持ち上げるでも、肌を掴むでもなく、風のように軽い圧。
襟足から耳の後ろへ、そして耳輪の外を通って、頬の陰へ。
触れているのに、境界が曖昧になっていく。そこに“誰か”がいる実感だけが、じわりと増す。
呼吸の音が、自分のものとは思えないくらい近くで揺れた。
喉の奥が勝手に鳴る。
「……っ」
声を飲み込むと、今度は耳のすぐ下に唇が落ちた。キスよりも短い、空気に触れるみたいな湿り。
肩が跳ねる。
「やっ……」
思わず零れた言葉に、彼の指先が止まった。
すぐに離さない。けれど、進まない。
「やめておきますか」
問いは静かで、逃げ道をこちらに渡す形で差し出される。
首を横に振るのが先だった。
言葉にするのは遅れて、息が荒い自分に少し笑ってしまう。
「違うの……驚いただけ。……やめないでほしい」
それから、もう一度。はっきりと。
「続けて、ほしい」
誠一はほっとしたように目を細めた。
安堵の表情を、こんなに綺麗だと思ったのは初めてだ。
「じゃあ、合言葉を決めましょう」
「合言葉?」
「本当に嫌だったら――源氏名で呼ぶ。お互いに。あなたは“リカ”、俺は“セイ”。それが出たら、すぐに止める」
おおげさではないのに、確かな提案。
私は一拍置いて、うなずいた。
「……分かった。リカって言ったら、止めて」
「はい。奈緒さんも、“セイ”って言ったら、俺はすぐに手を離します」
取り決めを交わしただけで、胸の奥が軽くなった。
逃げ道を持った人間の方が、遠くまで行ける――そんな確信が、体の芯に灯る。
再開した指先は、さっきよりもゆっくりだった。
耳たぶを避けて、耳の裏の柔らかな窪みを撫でる。
そこから、頸の左右を左右対称に往復して、鎖骨の端に呼吸を落とす。
触れられていない側まで、熱が伝播するのが分かる。片側に置かれた手のぬくもりが、反対側の皮膚まで温める。
彼は、急がない。
「ここは?」
問われて、言葉の代わりに肩の力が抜ける。
「……だいじょうぶ」
それが合図になる。
彼の手が肩甲の上で円を描き、背中の上端へ降りていく。服の上から、しかし布の存在を忘れるほど滑らかに。
背中を“撫でられる”という行為が、こんなに身体をほどくのかと、自分で驚いた。
肩甲骨と肩甲骨の間。背骨の左右。腰に向かって落ちるライン。
触れられるたび、筋の奥に溜まっていた何かが、静かに解けていく。
甘く、しかし浅い波。
さっきホテルに入ったときのぎこちなさが、背中の面に吸い取られていく。
「指の面、気に入ってくれてるみたいですね」
「……分かる?」
「呼吸で」
くすぐったいようなやり取りに、笑って、すぐにまた息が揺れる。
彼は首筋の後ろに片手を置き、もう片方の手で腕の外側をゆっくりと撫で下ろした。
肩から肘、肘から手首、手首から掌へ。
骨の形を確かめるみたいに、関節で一度留まり、そこから先へ滑る。
掌に辿り着いた指先が、何度か私の指を一緒に曲げ、開き、また曲げる。
触れているのは掌の上にある掌。
なのに、全身が応答する。
手を繋ぐという動作の、遠い奥にある意味を、初めて理解した気がした。
「や……」
また零れた声。
今度、彼は止まらない。こちらの目を見る。
「合言葉?」
「ち、違う……」
「じゃあ、続けます」
言葉で確認し、速度は変えず、圧だけを一段薄くする。
“退くことで触れ続ける”技術。
距離ができた瞬間に、身体は逆に追いかける。自分の方が前に出てしまったのが分かり、頬が熱くなる。
脚に触れられたのは、その少し後だった。
膝の外側に指先が置かれ、円を描くようにゆっくり広がっていく。
内側には入らない。外から外へ、長い弧で。
ふくらはぎを撫で上げて膝裏の少し手前で止まり、また踝へ。
脚の長さが、触れ方の長さに変換されていく。
「息、速い」
「……分かるでしょ」
「分かります」
淡々と答える声が、やさしい。
繰り返し触れられるうち、皮膚の表面だけでなく、筋肉の層がひとつずつほどけていくのがはっきりと分かる。
外から内へ、ではなく、外のまま内を溶かす手つき。
首筋に戻った指が、今度は耳の前をかすめた。
耳介の縁を避けて、その手前の皮膚の薄いところだけを、鳥の羽みたいに撫でる。
思わず肩が竦む。
「……っ、ふ」
零れた音を、自分で拾いにいく余裕がなくなってくる。
彼は、指を止めるたびに呼吸で私の状態を測っている。
“進めるか、止めるか”。
判断をこちらに委ねているのに、導いているのは彼の方だ。
徹底的に、乳首にも下にも触れない。
なのに、そこに触れられた時以上の熱が、全身の縁からじわじわとにじんでくる。
「奈緒さん」
名前を呼ばれただけで、腹の奥がきゅっと鳴る。
「……うん」
「嫌だったら、すぐ“リカ”って言ってください」
「言わない……と思う」
正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。
安堵と、少しの緊張が混ざった音。
それから、うなじにもう一度だけ、短い湿りを落とす。
今度は逃げない。首の角度が自分から自然に傾く。
背中に沿って、掌が大きく滑る。
肩甲骨の縁に沿うラインで、わずかに圧が深くなる。
呼吸が止まり、次の瞬間、肺の奥から大きく息が抜けた。
軽い眩暈。甘い。怖い。気持ちいい。
「こわい?」
「……こわいの、好きかも」
自分で言って、自分で笑ってしまう。
彼の喉がかすかに鳴った。
笑いではない、音。
それに呼応して、首筋のどこかがまた熱くなる。
時間の感覚が、溶けた飴みたいに伸びていく。
壁の時計の秒針は確かに進んでいるのに、皮膚の下では別の時間が流れている。
触れられていないところが、触れられているところ以上に、敏感になる。
首筋の後ろ、耳の下、肩の内側、上腕の裏、肘の少し上、手首の脈、掌の中心、背中の真ん中、腰骨の外、太腿の外側、膝の少し外、ふくらはぎ、踝――。
ひとつひとつの地点が、灯りで点されていく。
部屋には昼の光しかないのに、皮膚の中では夜の星が増えていく。
「奈緒さん」
「……うん」
「ここまで、どうですか」
「ずるい」
「ずるい?」
「そんな聞き方……。……ずっと、足りなかったところが、埋まってく気がする」
言葉が出た瞬間、胸がすっと軽くなった。
彼は何も言わず、ただ頷く。
それから、指先の面を、もう一度うなじに広げた。
境目が、分からなくなる。
どこからが首で、どこからが背中で、どこまでが私で、どこからが彼の手なのか。
ただ、呼吸の行き来だけが確かだ。
吸うと、彼の指が少し退き、吐くと、指がわずかに深く乗る。
海。
浅瀬の波打ち際を、行ったり来たりしているみたいだ。
足が濡れて、砂が沈んで、次の波がすぐに追いついてくる。
「……やっ」
また短い悲鳴が零れた。
合言葉か――と問う目が来る前に、私は小さく首を振る。
「違う。……もっと」
口から出た自分の声に、頬が熱くなる。
彼は目を閉じて、短く息を吐いた。
緊張がほどける音と、火が強まる音が同時に重なって、部屋の空気がさらに一段、深くなる。
それでも彼は、まだ触れない。
乳首にも、下にも。
触れないこと自体が、一番遠くまで連れていく方法だと知っているみたいに。
私は、自分の手を自分で握っていた。
“リカ”と言えば止まるのに、言いたくない。
止まってほしくない。
名乗り合った名前のままで、ここまで行きたい。
「奈緒さん」
彼が、まるで合図のように呼ぶ。
「……誠一さん」
応える。
名前のやりとりだけで、皮膚の内側の温度が一度上がる。
手は、首へ。耳へ。肩へ。腕へ。背中へ。脚へ。
焦らし続けるための、最短距離のない旅路。
呼吸が荒くなりすぎないよう、彼が時々空白を置く。
空白が、甘い。
触れられていない時間が、触れている時間の延長線上で続いていく。
体の内側のどこかで、小さな波が何度も何度も立っては消え、立っては消え――。
数えられない。
浅いのに、重なるほどに深いところを溶かしていく。
「……まだ、触れないでいてくれる?」
自分でも驚くほど落ち着いた声で、私は頼んだ。
彼は目を細める。
「はい」
ただ一言。
それから、彼の手はまたゆっくりと、私の世界の縁をなぞり始めた。
外側から、内側がほどけていく。
仕事ではない。
けれど、礼儀と合図と合意の上に、慎重に積まれていく熱。
昼の光が白いまま、部屋の温度だけが、確かに上がっていく。
合言葉は、まだ要らなかった。
名前だけで、十分だった。
――この夜の続きが、どこまで行けるのか。
怖くて、楽しみで、どうしようもなく欲しい。
昼の光を遮る廊下は少し冷たくて、その冷たさが、逆に心臓の熱を浮き上がらせる。
受付を通り、鍵を受け取り、二人並んでエレベーターに乗り込む。
鏡に映る自分の顔は、どこか強張って見えた。彼の横顔も同じように固い。
部屋の扉を閉めた途端、静けさが落ちる。
カーテン越しの昼の光がベッドを白く照らしている。
私はバッグを椅子に置き、彼も上着を脱いで背もたれに掛けた。
それでも、どちらもすぐには近づかない。
妙に落ち着かない沈黙が、部屋に満ちていた。
彼が、ゆっくりと息を吸い込む。
「……今さらですけど」
低く抑えた声に、私は顔を上げた。
「高瀬誠一と言います」
源氏名ではなく、本当の名前。
思っていたよりも素朴で、響きがまっすぐで、胸の奥にすとんと落ちた。
私は唇を湿らせて、うなずく。
「……三浦奈緒です」
リカではない。ここにいる“私”。
名前を名乗っただけで、裸よりも深くさらけ出したような気がして、胸がざわめいた。
「……奈緒さん」
彼がその名を呼ぶ。
たった三文字なのに、鼓動が跳ね上がる。
言葉にしたら戻れない気がして、私は小さく笑った。
「誠一さん、ですね」
彼もわずかに笑ったが、すぐ真顔に戻る。
「……さっき、カフェで言いましたけど」
少し間を置いて、彼が口を開いた。
「俺は、普通には応えられないんです。途中で止まることが多くて。……だから、あなたに聞いてみたい」
視線がまっすぐに射抜いてくる。
「奈緒さんにとって……何が足りなかったんですか」
静かな問いだった。責めではなく、知ろうとする眼差し。
私は一瞬言葉を探し、指先を絡めた。
「……今まで、一度で満たされたことがなくて。笑ってごまかして、でも本当は、いつも置いていかれてました」
声にすると、思ったよりも苦い響きになった。
「足りないまま、終わる夜ばかりで……。だから、あそこにいたんです」
誠一は静かに頷いた。
「……そう、ですか」
間を置き、目を伏せ、そしてまた私を見つめる。
「俺も、満たせないまま謝る夜ばかりでした。……だから」
小さく息を吐く。
「もしかしたら、俺たち、噛み合うのかもしれませんね」
部屋の空気が、ふっと変わった。
まだ触れていない。まだ近づいていない。
それなのに、白い昼光の下で、静けさに熱が混じっていく。
呼吸が浅くなり、視線が絡まるたびに心臓が早鐘を打った。
息が合う、という言葉が、こんなに静かな形で立ち上がるものだとは思わなかった。
私と誠一は、まだ距離を詰めていない。それでも、空気の温度が一段深くなる。
最初に近づいたのは彼の方だった。
ベッドの端に腰を下ろしながら、手を伸ばす。迷いのない速度で――でも、押しつけない。
指先が、うなじの産毛を撫でた。すっと、寒気に似た甘さが背骨を走る。
「触れても、いいですか」
「……うん」
許可の言葉を待ってから、彼は指の面を広げる。
髪を持ち上げるでも、肌を掴むでもなく、風のように軽い圧。
襟足から耳の後ろへ、そして耳輪の外を通って、頬の陰へ。
触れているのに、境界が曖昧になっていく。そこに“誰か”がいる実感だけが、じわりと増す。
呼吸の音が、自分のものとは思えないくらい近くで揺れた。
喉の奥が勝手に鳴る。
「……っ」
声を飲み込むと、今度は耳のすぐ下に唇が落ちた。キスよりも短い、空気に触れるみたいな湿り。
肩が跳ねる。
「やっ……」
思わず零れた言葉に、彼の指先が止まった。
すぐに離さない。けれど、進まない。
「やめておきますか」
問いは静かで、逃げ道をこちらに渡す形で差し出される。
首を横に振るのが先だった。
言葉にするのは遅れて、息が荒い自分に少し笑ってしまう。
「違うの……驚いただけ。……やめないでほしい」
それから、もう一度。はっきりと。
「続けて、ほしい」
誠一はほっとしたように目を細めた。
安堵の表情を、こんなに綺麗だと思ったのは初めてだ。
「じゃあ、合言葉を決めましょう」
「合言葉?」
「本当に嫌だったら――源氏名で呼ぶ。お互いに。あなたは“リカ”、俺は“セイ”。それが出たら、すぐに止める」
おおげさではないのに、確かな提案。
私は一拍置いて、うなずいた。
「……分かった。リカって言ったら、止めて」
「はい。奈緒さんも、“セイ”って言ったら、俺はすぐに手を離します」
取り決めを交わしただけで、胸の奥が軽くなった。
逃げ道を持った人間の方が、遠くまで行ける――そんな確信が、体の芯に灯る。
再開した指先は、さっきよりもゆっくりだった。
耳たぶを避けて、耳の裏の柔らかな窪みを撫でる。
そこから、頸の左右を左右対称に往復して、鎖骨の端に呼吸を落とす。
触れられていない側まで、熱が伝播するのが分かる。片側に置かれた手のぬくもりが、反対側の皮膚まで温める。
彼は、急がない。
「ここは?」
問われて、言葉の代わりに肩の力が抜ける。
「……だいじょうぶ」
それが合図になる。
彼の手が肩甲の上で円を描き、背中の上端へ降りていく。服の上から、しかし布の存在を忘れるほど滑らかに。
背中を“撫でられる”という行為が、こんなに身体をほどくのかと、自分で驚いた。
肩甲骨と肩甲骨の間。背骨の左右。腰に向かって落ちるライン。
触れられるたび、筋の奥に溜まっていた何かが、静かに解けていく。
甘く、しかし浅い波。
さっきホテルに入ったときのぎこちなさが、背中の面に吸い取られていく。
「指の面、気に入ってくれてるみたいですね」
「……分かる?」
「呼吸で」
くすぐったいようなやり取りに、笑って、すぐにまた息が揺れる。
彼は首筋の後ろに片手を置き、もう片方の手で腕の外側をゆっくりと撫で下ろした。
肩から肘、肘から手首、手首から掌へ。
骨の形を確かめるみたいに、関節で一度留まり、そこから先へ滑る。
掌に辿り着いた指先が、何度か私の指を一緒に曲げ、開き、また曲げる。
触れているのは掌の上にある掌。
なのに、全身が応答する。
手を繋ぐという動作の、遠い奥にある意味を、初めて理解した気がした。
「や……」
また零れた声。
今度、彼は止まらない。こちらの目を見る。
「合言葉?」
「ち、違う……」
「じゃあ、続けます」
言葉で確認し、速度は変えず、圧だけを一段薄くする。
“退くことで触れ続ける”技術。
距離ができた瞬間に、身体は逆に追いかける。自分の方が前に出てしまったのが分かり、頬が熱くなる。
脚に触れられたのは、その少し後だった。
膝の外側に指先が置かれ、円を描くようにゆっくり広がっていく。
内側には入らない。外から外へ、長い弧で。
ふくらはぎを撫で上げて膝裏の少し手前で止まり、また踝へ。
脚の長さが、触れ方の長さに変換されていく。
「息、速い」
「……分かるでしょ」
「分かります」
淡々と答える声が、やさしい。
繰り返し触れられるうち、皮膚の表面だけでなく、筋肉の層がひとつずつほどけていくのがはっきりと分かる。
外から内へ、ではなく、外のまま内を溶かす手つき。
首筋に戻った指が、今度は耳の前をかすめた。
耳介の縁を避けて、その手前の皮膚の薄いところだけを、鳥の羽みたいに撫でる。
思わず肩が竦む。
「……っ、ふ」
零れた音を、自分で拾いにいく余裕がなくなってくる。
彼は、指を止めるたびに呼吸で私の状態を測っている。
“進めるか、止めるか”。
判断をこちらに委ねているのに、導いているのは彼の方だ。
徹底的に、乳首にも下にも触れない。
なのに、そこに触れられた時以上の熱が、全身の縁からじわじわとにじんでくる。
「奈緒さん」
名前を呼ばれただけで、腹の奥がきゅっと鳴る。
「……うん」
「嫌だったら、すぐ“リカ”って言ってください」
「言わない……と思う」
正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。
安堵と、少しの緊張が混ざった音。
それから、うなじにもう一度だけ、短い湿りを落とす。
今度は逃げない。首の角度が自分から自然に傾く。
背中に沿って、掌が大きく滑る。
肩甲骨の縁に沿うラインで、わずかに圧が深くなる。
呼吸が止まり、次の瞬間、肺の奥から大きく息が抜けた。
軽い眩暈。甘い。怖い。気持ちいい。
「こわい?」
「……こわいの、好きかも」
自分で言って、自分で笑ってしまう。
彼の喉がかすかに鳴った。
笑いではない、音。
それに呼応して、首筋のどこかがまた熱くなる。
時間の感覚が、溶けた飴みたいに伸びていく。
壁の時計の秒針は確かに進んでいるのに、皮膚の下では別の時間が流れている。
触れられていないところが、触れられているところ以上に、敏感になる。
首筋の後ろ、耳の下、肩の内側、上腕の裏、肘の少し上、手首の脈、掌の中心、背中の真ん中、腰骨の外、太腿の外側、膝の少し外、ふくらはぎ、踝――。
ひとつひとつの地点が、灯りで点されていく。
部屋には昼の光しかないのに、皮膚の中では夜の星が増えていく。
「奈緒さん」
「……うん」
「ここまで、どうですか」
「ずるい」
「ずるい?」
「そんな聞き方……。……ずっと、足りなかったところが、埋まってく気がする」
言葉が出た瞬間、胸がすっと軽くなった。
彼は何も言わず、ただ頷く。
それから、指先の面を、もう一度うなじに広げた。
境目が、分からなくなる。
どこからが首で、どこからが背中で、どこまでが私で、どこからが彼の手なのか。
ただ、呼吸の行き来だけが確かだ。
吸うと、彼の指が少し退き、吐くと、指がわずかに深く乗る。
海。
浅瀬の波打ち際を、行ったり来たりしているみたいだ。
足が濡れて、砂が沈んで、次の波がすぐに追いついてくる。
「……やっ」
また短い悲鳴が零れた。
合言葉か――と問う目が来る前に、私は小さく首を振る。
「違う。……もっと」
口から出た自分の声に、頬が熱くなる。
彼は目を閉じて、短く息を吐いた。
緊張がほどける音と、火が強まる音が同時に重なって、部屋の空気がさらに一段、深くなる。
それでも彼は、まだ触れない。
乳首にも、下にも。
触れないこと自体が、一番遠くまで連れていく方法だと知っているみたいに。
私は、自分の手を自分で握っていた。
“リカ”と言えば止まるのに、言いたくない。
止まってほしくない。
名乗り合った名前のままで、ここまで行きたい。
「奈緒さん」
彼が、まるで合図のように呼ぶ。
「……誠一さん」
応える。
名前のやりとりだけで、皮膚の内側の温度が一度上がる。
手は、首へ。耳へ。肩へ。腕へ。背中へ。脚へ。
焦らし続けるための、最短距離のない旅路。
呼吸が荒くなりすぎないよう、彼が時々空白を置く。
空白が、甘い。
触れられていない時間が、触れている時間の延長線上で続いていく。
体の内側のどこかで、小さな波が何度も何度も立っては消え、立っては消え――。
数えられない。
浅いのに、重なるほどに深いところを溶かしていく。
「……まだ、触れないでいてくれる?」
自分でも驚くほど落ち着いた声で、私は頼んだ。
彼は目を細める。
「はい」
ただ一言。
それから、彼の手はまたゆっくりと、私の世界の縁をなぞり始めた。
外側から、内側がほどけていく。
仕事ではない。
けれど、礼儀と合図と合意の上に、慎重に積まれていく熱。
昼の光が白いまま、部屋の温度だけが、確かに上がっていく。
合言葉は、まだ要らなかった。
名前だけで、十分だった。
――この夜の続きが、どこまで行けるのか。
怖くて、楽しみで、どうしようもなく欲しい。
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