その愛は毒だから~或る令嬢の日記~

天海月

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13.孔雀と毒薬

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今夜も、夫は社交界の華であった。

ゲオルク・ヴァレンシュタイン伯爵は、類まれな美貌の持ち主だ。
輝くような金色の髪、深い海の色を映したかのような澄んだ瞳、彫刻のように整った顔立ち。
彼は、舞踏会の中心に立つだけで、人々の視線と称賛を一身に集める。私もその一人であった。
いや、私は、彼に最も近い場所で、彼の美しさを間近に見つめることができる、唯一の存在というだけであった。

「伯爵様は、本当に美しい方ですね」

私の隣にいた老婦人が、うっとりとした表情でそう言った。私は完璧な微笑みを浮かべ、同意する。

「ええ、まるで、羽を広げた孔雀のようですわ」

私がそう答えると、老婦人は感嘆の声を上げた。しかし、私の瞳は、夫の視線の先にいた、一人の若い女性を捉えていた。クリスティアーナ・グラーフ子爵令嬢。彼女は、若く、無邪気で、感情を素直に表に出す、まさに私の対極ともいえる女性だった。


***


『私の夫、ゲオルクは、まさに孔雀です。その美しさは、多くの人間を惹きつけ、その羽を広げては、華やかな虚栄心を満足させる。しかし、孔雀は、自分の羽が、他人の心をどれほど傷つけているかを知らない。彼は、私という完璧な鳥籠の中にいながら、他の籠にいる鳥たちに、自分の羽を見せびらかしているのです。』

私は、日記に言葉を綴った。
私は、彼の不貞を、もう幾度となく知っている。否、知りすぎている。
しかし、私は伯爵夫人。人前で感情を表に出すことは許されない。私は、日記という名の、私の心の墓に、彼の不貞の歴史を一つ一つ丹念に刻んでいく。

翌日、ゲオルクは私に、高価なサファイアのネックレスを贈った。それは、彼の瞳の色を思わせる、深く、美しい青色をしていた。

「エレオノーラ。君に、これを」

彼は、そう言って、私にネックレスを差し出した。私は、彼の瞳を見た。そこに、私への愛はあるように見えた。
しかし、それは彼が星の数ほど持っている、どれも安っぽく軽薄な愛の中の一つでしかないのだろう。
その奥には、昨夜の不貞の罪悪感と、それを償おうとする、無神経な自己満足が見えた。


***


『ゲオルクから、サファイアのネックレスが贈られてきました。彼の瞳の色をした、深く、美しい宝石です。それは、彼が私の心を傷つけたことの、最も高価な贖罪の印。彼にとっては、宝石は、彼の罪を清算する、魔法の薬なのでしょう。しかし、この宝石は、私にとっては毒薬です。彼の罪の重さを、私の胸に、永遠に刻み込むための、毒薬です。』

私は日記に、彼の贈り物を「毒薬」と呼んだ。彼の善意は、私を傷つけるための刃に他ならない。私は、この宝石を身につけるたびに、彼の不貞を思い出すのだろう。

数日後、私は、街中のカフェで、ゲオルクとクリスティアーナが親しげに談笑している姿を目撃した。彼らは、お互いの手を握り、楽しそうに笑っていた。彼らの周りには、他人の視線など存在しないかのようだった。

私は、その場を静かに立ち去った。私の心は、もはや怒りも、悲しみも感じなかった。ただ、冷たい湖のように、静まり返っていた。


***


『私は、夫が愛人と戯れる姿を目撃しました。彼らは、まるで恋人のように、手を取り、微笑み合っていました。私は、もう嫉妬もしません。ただ、彼の美しさが、どれほど多くの人間を欺き、どれほど多くの人間を傷つけてきたのか、それを思い知らされただけです。彼の孔雀の羽は、多くの人間を魅了する一方で、多くの毒を撒き散らしているのです。』

私は、もはや彼の不貞に傷つくことすら、できなくなっていた。私の心は、毒に侵され尽くし、何も感じない、虚空となり果てていた。

その夜、ゲオルクは私に、何も言わずに寝室へと入ってきた。彼は、私の隣に座り、私の手を取った。彼の瞳は、一見すると、私への薄っぺらい愛と、そして、彼自身の深い孤独と、その孤独に対しての憐憫を映しているように見えた。

けれど詰まるところ、誰も映してはいなかった。
相手という鏡に映る自分自身だけを映していた。

嗚呼、この人は何よりも『自分』が愛おしい人だったのだ。
完璧に見える妻も、さまざまな噂話も、若く可愛らしい愛人さえも、ただ彼を美しく飾り立てるための宝飾品でしかなかったのだ。
何故、こんなに長い間、気が付かなかったのだろう。
私はハッとさせられる思いだった。


「エレオノーラ。君は、何も言わないんだな」

彼は、私にそう言った。私は、何も答えなかった。私の心の中には、もう彼への言葉は残っていなかった。


***


『愛も憎しみも、もはや私の心にはありません。私の心は、彼の毒によって、全てが焼き尽くされたようです。しかし、この虚無の先に、私は、新しい自分を見つけました。私は、もはや彼の不貞に翻弄される、哀れな妻ではありません。私は、伯爵夫人エレオノーラ。そして、私の物語は、ここから始まるのです。』

私は、日記を閉じた。
私の孔雀は、これからも、多くの毒を撒き散らすだろう。しかし、私は、もうその毒に翻弄されることはない。


***


それから、私という『唯一自分に無関心で自分を映さなくなった鏡』に対して、何とかして美しく映ろうと、彼は努力を始めた。
無駄なことを全力で行おうとする彼は、私の目からはひどく滑稽で哀れに見えた。

彼は不貞をぱったりと止め、外に出る事もなくなり、ただひたすら私の機嫌をおもねる為だけに、全ての金銭と労力をつぎ込んだ。
愛人だったはずのクリスティアーナからは、何度も手紙が届いたが、開けられることも無く、彼は一切無関心だった。

社交界では噂が立った。
「あんなにお美しくて、蝶のように花から花へと飛び回っておられた伯爵が一番に愛しておられたのは、やはり奥様だった」のだと。

やはり噂など、何の真実も表してはいないものだと、私はつくづく感じたのだった。


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