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第5話:不器用な誠意と貴族の矜持
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あの日から、私の心は、平穏とは程遠い状態にあった。
レオナルドの傷ついた表情が、頭から離れない。
私は、彼の純粋な好意を、傲慢な言葉で踏みにじってしまった。
貴族としての矜持。それは、今までにも増して、私の心を縛る鎖となり、私を彼から遠ざけていた。
このままではいけない。私は、彼に謝罪しなければならない。
それは貴族としてではない、一人の人間として。
そう決意した私は、父にも知らせず、一人、シュヴァルツ邸を訪れることにした。
馬車から降りた私を、男爵家の執事が驚いた顔で迎えた。
「ローゼンクランツ伯爵令嬢、本日は、いかがなされましたか」
「レオナルド様にお目にかかりたくて参りました。急な訪問で申し訳ございませんが、お取次ぎをお願いできますでしょうか」
私の言葉に、執事は、少し困ったような顔をした。
「申し訳ございませんが、旦那様は、今、お勉強中でございます」
「お勉強……?」
私は、思わず聞き返した。
執事は、私の問いに答えることなく、ただ、会釈をするだけだった。
私は、執事に案内され、書斎へと向かった。
扉の前まで来ると、中から、レオナルドの声が聞こえてくる。
「『カイロンの嘆き』……は、バレリーの、ええと……、後期に描かれた、彼の代表作。傷を受けたカイロンが、死ぬこともできず、苦しみに耐える姿を描いたもの……」
彼の声は、どこかたどたどしく、まるで、教科書を読み上げているかのようだった。
私は、扉を開けるのを躊躇した。
だが、もう後には引けない。
私は、意を決して、書斎の扉を静かに開けた。
書斎の中には、レオナルドが、一人の壮年の男性と向き合っていた。
机の上には、私が先日、話題に出したバレリーの画集が、何冊も広げられている。
彼の傍らには、何冊もの本が積み重ねられており、それは、絵画、オペラ、文学にとどまらず、私が過去に一度だけ話の中で触れただけの事柄についてなどの、あらゆる分野の専門書だった。
彼は、私の姿に気づくと、驚いた顔をした。
「リーゼロッテ様……どうして、ここに」
彼の声は、少し掠れていた。
私は、彼の顔を見て、彼の目の下のクマに気づいた。
彼は、私と最後に会ってから、寝る間も惜しんで、私が話したことを理解するために、これらの本を読み漁っていたのだろうか。
私は、彼の隣に立っていた壮年の男性に、会釈をした。
彼は、にこやかに微笑み、私に会釈を返した。
「ローゼンクランツ伯爵令嬢。私は、シュヴァルツ様から、絵画の講師を依頼された者です。シュヴァルツ様は、何度もバレリーについて、私に質問を繰り返しておられました。お嬢様との会話に、ついていけるようになりたいと、仰っておられましたよ」
「格好悪いところを見られてしまったな…」
老年の男性の言葉に、レオナルドは、少し恥ずかしそうに、顔を赤らめてそういった。
私は、自分の傲慢さを、改めて、恥じた。
レオナルドは、私を軽蔑するどころか、私のために、私が軽蔑した「無知」を、埋めようと努力していたのだ。
私は、彼の顔をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「レオナルド様、先日のわたくしの言葉は、大変に不躾でございましたわ。心より、お詫び申し上げます」
私は、深く頭を下げた。
彼は、私の言葉に、驚き、そして、少し困ったような、けれど、どこか穏やかな笑みを浮かべて言った。
「リーゼロッテ様。頭を上げてください。私は、貴女の言葉を、少しも不躾だとは思っておりませんよ。むしろ、私は、貴女の気高さと教養に、感銘を受けました。私は、ただ貴女と、並び立ち、対等に話せるようになりたいと心から願うようになったのです。あなたに認めていただけるような、あなたに相応しい人間になりたい、と。そして、これは、その思いにしたがって、私が自ら進んで行動しているだけなのですから」
彼の言葉に、私の胸は、熱くなった。
貴族社会では、人は、常に、相手の顔色を窺い、相手の言葉の裏を読む。
教養はその為の武器として磨くものであって、誰かを理解したいというような単純な理由で、わざわざこんな事をする人など、私の周囲にはいなかった。
だが、彼は、ただ、私のことを理解しようと、ただ、私のために、努力していた。
それは、貴族社会にはない、不器用で、しかし、純粋な誠意だった。
私は、貴族としての矜持という、見えない鎖に囚われ、彼の心を見ようとしなかった。
だが、彼は、その鎖を、不器用な誠意によって、意図せずに、一つずつ解き解そうとしていた。
私は、彼が、私を喜ばせるために集めたという、バレリーの画集を手に取った。
画集のページをめくる。
そこには、カイロンの嘆きだけでなく、バレリーが描いた、様々なテーマの作品があった。
レオナルドは、そこに描かれている、それぞれの絵について静かに語り始めた。
バレリーの生涯と、彼の作品に込められている、画家自身としての思いについて。
私は、彼の努力の結果と、時折見え隠れする、瑞々しい感性のきらめきに驚いた。
「随分、努力なさったのですね…」
彼は一瞬驚いたような表情を見せたのち、破顔した。
「新しい知識を学ぶこと自体も楽しい時間でした。けれど、それよりも、私は、あなたにその言葉をいただけたことを嬉しく感じます。もっとも、あなたには、そんなことで、いちいち一喜一憂するなど、子供じみていると、軽蔑されるかもしれませんが…」
喜びと興奮に満ちているように聞こえた彼の言葉は、先へ進むにつれて、段々と自信なさげになっていった。
彼にその卑屈な悲しみをもたらしたのは、以前、私がかけた、心無い言葉の所為に違いない、ということは明らかに感じられた。
私は、彼の顔を、そっと見つめた。
私は、彼の横顔に、「金糸を纏った下等な鳥」ではない、別の「何か」を見出した気がした。
それは、彼の不器用な誠実さが生み出す、真実の輝きかもしれない。
私はこの輝きを絶やしてはいけない。
そんな思いがどこからか湧き出してくるような気がした。
「あなたは、誇って良いのです。あなたのなさった努力はあなたを決して裏切ったりしないのですから。そして、わたくしも、あなたのその努力を誇りに思います」
それから、私とレオナルドは、時間を忘れて語り過ごした。
私と彼は、生まれながらの貴族と元平民という壁を越え、ただ、一人の人間として、心を通わせ始めていたように思えた。
そして私の胸には、新たな希望が芽生え始めていた。
この婚約は、我が家を救う光だけでなく、私自身を救う光となるのかもしれない、と。
私は、ほんのわずかに、感じ始めていたのだった。
レオナルドの傷ついた表情が、頭から離れない。
私は、彼の純粋な好意を、傲慢な言葉で踏みにじってしまった。
貴族としての矜持。それは、今までにも増して、私の心を縛る鎖となり、私を彼から遠ざけていた。
このままではいけない。私は、彼に謝罪しなければならない。
それは貴族としてではない、一人の人間として。
そう決意した私は、父にも知らせず、一人、シュヴァルツ邸を訪れることにした。
馬車から降りた私を、男爵家の執事が驚いた顔で迎えた。
「ローゼンクランツ伯爵令嬢、本日は、いかがなされましたか」
「レオナルド様にお目にかかりたくて参りました。急な訪問で申し訳ございませんが、お取次ぎをお願いできますでしょうか」
私の言葉に、執事は、少し困ったような顔をした。
「申し訳ございませんが、旦那様は、今、お勉強中でございます」
「お勉強……?」
私は、思わず聞き返した。
執事は、私の問いに答えることなく、ただ、会釈をするだけだった。
私は、執事に案内され、書斎へと向かった。
扉の前まで来ると、中から、レオナルドの声が聞こえてくる。
「『カイロンの嘆き』……は、バレリーの、ええと……、後期に描かれた、彼の代表作。傷を受けたカイロンが、死ぬこともできず、苦しみに耐える姿を描いたもの……」
彼の声は、どこかたどたどしく、まるで、教科書を読み上げているかのようだった。
私は、扉を開けるのを躊躇した。
だが、もう後には引けない。
私は、意を決して、書斎の扉を静かに開けた。
書斎の中には、レオナルドが、一人の壮年の男性と向き合っていた。
机の上には、私が先日、話題に出したバレリーの画集が、何冊も広げられている。
彼の傍らには、何冊もの本が積み重ねられており、それは、絵画、オペラ、文学にとどまらず、私が過去に一度だけ話の中で触れただけの事柄についてなどの、あらゆる分野の専門書だった。
彼は、私の姿に気づくと、驚いた顔をした。
「リーゼロッテ様……どうして、ここに」
彼の声は、少し掠れていた。
私は、彼の顔を見て、彼の目の下のクマに気づいた。
彼は、私と最後に会ってから、寝る間も惜しんで、私が話したことを理解するために、これらの本を読み漁っていたのだろうか。
私は、彼の隣に立っていた壮年の男性に、会釈をした。
彼は、にこやかに微笑み、私に会釈を返した。
「ローゼンクランツ伯爵令嬢。私は、シュヴァルツ様から、絵画の講師を依頼された者です。シュヴァルツ様は、何度もバレリーについて、私に質問を繰り返しておられました。お嬢様との会話に、ついていけるようになりたいと、仰っておられましたよ」
「格好悪いところを見られてしまったな…」
老年の男性の言葉に、レオナルドは、少し恥ずかしそうに、顔を赤らめてそういった。
私は、自分の傲慢さを、改めて、恥じた。
レオナルドは、私を軽蔑するどころか、私のために、私が軽蔑した「無知」を、埋めようと努力していたのだ。
私は、彼の顔をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「レオナルド様、先日のわたくしの言葉は、大変に不躾でございましたわ。心より、お詫び申し上げます」
私は、深く頭を下げた。
彼は、私の言葉に、驚き、そして、少し困ったような、けれど、どこか穏やかな笑みを浮かべて言った。
「リーゼロッテ様。頭を上げてください。私は、貴女の言葉を、少しも不躾だとは思っておりませんよ。むしろ、私は、貴女の気高さと教養に、感銘を受けました。私は、ただ貴女と、並び立ち、対等に話せるようになりたいと心から願うようになったのです。あなたに認めていただけるような、あなたに相応しい人間になりたい、と。そして、これは、その思いにしたがって、私が自ら進んで行動しているだけなのですから」
彼の言葉に、私の胸は、熱くなった。
貴族社会では、人は、常に、相手の顔色を窺い、相手の言葉の裏を読む。
教養はその為の武器として磨くものであって、誰かを理解したいというような単純な理由で、わざわざこんな事をする人など、私の周囲にはいなかった。
だが、彼は、ただ、私のことを理解しようと、ただ、私のために、努力していた。
それは、貴族社会にはない、不器用で、しかし、純粋な誠意だった。
私は、貴族としての矜持という、見えない鎖に囚われ、彼の心を見ようとしなかった。
だが、彼は、その鎖を、不器用な誠意によって、意図せずに、一つずつ解き解そうとしていた。
私は、彼が、私を喜ばせるために集めたという、バレリーの画集を手に取った。
画集のページをめくる。
そこには、カイロンの嘆きだけでなく、バレリーが描いた、様々なテーマの作品があった。
レオナルドは、そこに描かれている、それぞれの絵について静かに語り始めた。
バレリーの生涯と、彼の作品に込められている、画家自身としての思いについて。
私は、彼の努力の結果と、時折見え隠れする、瑞々しい感性のきらめきに驚いた。
「随分、努力なさったのですね…」
彼は一瞬驚いたような表情を見せたのち、破顔した。
「新しい知識を学ぶこと自体も楽しい時間でした。けれど、それよりも、私は、あなたにその言葉をいただけたことを嬉しく感じます。もっとも、あなたには、そんなことで、いちいち一喜一憂するなど、子供じみていると、軽蔑されるかもしれませんが…」
喜びと興奮に満ちているように聞こえた彼の言葉は、先へ進むにつれて、段々と自信なさげになっていった。
彼にその卑屈な悲しみをもたらしたのは、以前、私がかけた、心無い言葉の所為に違いない、ということは明らかに感じられた。
私は、彼の顔を、そっと見つめた。
私は、彼の横顔に、「金糸を纏った下等な鳥」ではない、別の「何か」を見出した気がした。
それは、彼の不器用な誠実さが生み出す、真実の輝きかもしれない。
私はこの輝きを絶やしてはいけない。
そんな思いがどこからか湧き出してくるような気がした。
「あなたは、誇って良いのです。あなたのなさった努力はあなたを決して裏切ったりしないのですから。そして、わたくしも、あなたのその努力を誇りに思います」
それから、私とレオナルドは、時間を忘れて語り過ごした。
私と彼は、生まれながらの貴族と元平民という壁を越え、ただ、一人の人間として、心を通わせ始めていたように思えた。
そして私の胸には、新たな希望が芽生え始めていた。
この婚約は、我が家を救う光だけでなく、私自身を救う光となるのかもしれない、と。
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