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第44話 手紙 その1【妻】

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 おじさんの一件があり、私は表に出せないショックを抱えていたが、それを特に夫には悟らせてはいけないと、努めて明るく振る舞っていた。
 すると、夫にこんなことを言われた。

「最近調子いいみたいだね」
「え、そうかな」
「つわりも収まってきたみたいだし」
「あ、そういえば最近はあんまり、だな」

 確かに、朝は吐き気から始まると言っても過言ではなかったふしがある。
 しかし、ここ2、3日は全くそういった様子がなかった。
 妊娠週数が進むと収まる人もいると聞くし、そういうことなんだろうか。

「次の検診いつだっけ?」
「あさって予約してある」
「たまには俺も付き添った方がいいかな?」
「大丈夫だよ」
「いや、休みとれそうだし」
「じゃ、甘えちゃおうかな」

◇◇◇

 あまり大きな病院ではないので、待合ロビーのいすも限られている。
 だから 夫は私を病院まで送り届けると、「近くで時間つぶしているから、終わってから電話ちょうだい」と言った。
 パチンコ・パチスロ系の趣味のある人ではない。
 近くに大きなショッピングセンターがあるので、そこでいろいろ見たり、お茶を飲んだりして待っているという。

 妊婦さんが座れずにいるのも構わず、でんと陣取っている男性も割と目にする中、心がけのいいダンナさまではないか。

 名前を呼ばれ、問診と検査を受けたが、エコーを見た医師せんせいが、何とも言えない顔をして言った。

「あの――最近つわりは?」
「ああ、この頃はあまり吐かなくなりました」

 私はあくまでポジティブ要素としてそれを告げたが、医師はさらに顔を曇らせるようにして言った。

「大変申し上げにくいんですが――赤ちゃんの心臓が止まっているようです…」

◇◇◇

 私はしばらく、何を言われているのか理解できなかった。
 
「こんな言い方もなんですが、原因はよく分かりません。ただ、珍しいことでもないのです」
「どうかお気を落とさずに…」
「処置が必要になりますので、入院の手続を…」

 何を言われても、どこか遠くで、自分とは関係のない話をしているようにしか聞こえない。
 少し遠くなった意識を手繰り寄せるように戻し、夫に電話して、すぐ来てもらうことにした。

「最近ちょっとショックなことがあったので、そういうのも影響しているんでしょうか」
「それは私からは断言しかねますが…。精神的なことやストレスは関係しているかもしれませんね」

 医師と夫がそんな話をしている。
 ショックなこと――ああ、誘拐未遂か。そうよね。もちろん心配で仕方なかった。
 でも結果的には無事だったわけで。

 一番の心当たりは夫には言えない。言える内容コトであっても、言っても仕方がないことだ。
 私たちの2人目の子供――確実に夫の子であると言える子が、もう生まれてきてはくれないという事実は変わらない。

 結婚してすぐに妊娠が流れたときは、かなり初期だったけれど、今回は妊娠週数の関係で「死産」扱いになり、役所への届けも必要になるが、そういったことは全部夫が引き受けてくれた。

「君のせいじゃないんだ。今はゆっくり休んで」

 病院のベッドで、夫は私の上半身を抱きしめながら静かに泣いた。

 平凡だけれど、穏やかで幸せな毎日。でも、たまにはこんなこともある。
 これから先だって、いろいろあるのだろう。

 結婚する前、私はいろいろと性的なことを経験したが、結婚後はおとなしいものだった。
 夫だけを愛し、貞淑な自慢の妻でいたかったのだ。

 そんな結婚生活の中で、そうすることが自然であるように唯一セックスした「おじさん」のことは、どう頑張っても忘れられそうもない。
 おじさんのことも、おじさんとのセックスも、味わったら忘れられる女なんていないだろう。

 お腹の子がいなくなってしまった大きなショックとは別なところで、私は往生際悪く、おじさんのことを思い出していた。
 ――夫の優しい腕の中で、だ。
 私、ろくな死に方しなそう。というか天国には行けないね。

 ということは、おじさんとは地獄でまた会えるのだろうか。
 れっきとした不倫だから衆合しゅうごう地獄かな?

◇◇◇

 少し仕事を休んで復帰すると、上司からも同僚からも後輩からも、申しわけなくなるほど気を使われた。

 皆さんいろいろと思うところはあるだろうが、それでも親切にしてもらえるのは、今まで真面目に業務をこなし、人間関係にも気を配ってきた結果だと思う。
 年齢的に、また次の子をと考えるのは微妙だし、今はまだ考えたくない。

 夫も何かと気を使い、家事を手伝ったり、遊びに行こうと誘ったりしてくれる。
 私の入院中、娘にもかみ砕いて話したようで、「ママ、元気出してね」と、小さいながらも私を気遣ってくれる。

 現世いまがこんなに幸せなら、地獄に落ちても本望かも。

◇◇◇

 束の間の第2子が「亡くなって」から、何週間か経った土曜日、一通の長封筒が届いた。
 ぎりぎり定型内郵便の大きさではあるけれど、中にもう一通入っていたので結構重い。
 基本より10円高い額面の切手が貼られていた。

 それは全く知らない人からのものだが、女性らしい筆跡と、差出人(名前だけ書かれていた)の姓を見て、それが「誰」であるかはすぐに分かった。
 「おじさん」の奥様だった人だろう。

 郵便受けを確認したので、夫に「何が来ていたの?」と聞かれた。

「あ、これ。お客様ありがとうデーの案内かな」

 私は一緒に来ていたショッピングモールのはがきだけを夫に渡した。
 それはモールで発行しているクレジットカード所有者に送られてきたもので、夫宛だったのだ。

「へえ、このはがきで全品1割引きだってさ」
「すごいね」
「今月末まで使えるから、買い物行こうか」
「うん、いいね」
「郵便これだけ?」
「え?うん」
「そうか。結構でっかい音がしたから、何が届いたのかと思ったけど」
「気のせいじゃない?」

 確かに郵便受けに入れられたときの、何となく質感のある音は私も確認した。
 それでいて、反射的に例の封筒を、エプロンの内側に隠したので、夫には「はがきが来た」としか見えていないのだ。
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