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5.はじめての恋
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「……え?」
ふいに顔を上げて、イリーナは周りを見渡した。
空が黒く染まっていた。
どこから涌き出てくるのか、深い深い闇色の鳥の群れ。
どんどん数を増やし、青空を覆い尽くしていく。
気がつくと、イリーナは独りだった。
周りには誰もいない。
甲高い鳴き声が鋭く空を裂く。
イリーナを狙って、ハーラたちが飛来する。
夢でも見ているのだろうか。
さっきまでオルガと一緒にいたはずだったのに。
あの不思議な部屋の中にいたはずだったのに。
今はたった独りで逃げることも出来ずにその場に立ちすくんでいる。
胸の水晶がまばゆいばかりの光を放っていた。
まるでそれが目印のように、ハーラが突っ込んでくる。
イリーナは悲鳴を上げてそれから逃れた。
若草色のローブの袖が鋭いくちばしで切り裂かれていく。
黒い羽根が叩きつけるように耳元ではためいて聞こえる。
ものすごい速さでイリーナの周りを旋回するハーラたちの群れ。
前に走る事も後ろに逃げる事も出来なかった。
一歩も動けない状態では立ちつくす。
恐怖が胸を締め付けてくる。
水晶の光を隠そうとしてもまばゆいばかりの光は押さえる事もできず、闇の中でイリーナを銀色に照らし出している。
「いやっ、誰か、たすけてっ……」
どうしてこんな状況に陥っているのか、分からなかった。
夢だとしか思えない。
だってさっきまでオルガと話をしていたのだから。
オルガの表情もまだはっきりと思い浮かべる事が出来る。自信ありげに微笑むのはきっと彼女の性格なのだろう。
その彼女が言った言葉さえも覚えているのだから、夢であるはずがない。
『銀のルティナって、なんだと思う?』
そして、彼女は笑いながらこうも言ったのだ。
『口で説明するよりもっと簡単な事があるわ。あなたの……を私たちに見せてちょうだい……』
何を見せろと言うのか。
その言葉だけがかき消されたように届かなかった。
オルガの口の動きだけは鮮明に見えるのに、言葉は届かない。
あの時彼女はなんと言ったのだろうか。
銀のルティナが何かなんて一番聞きたいのはイリーナだった。
カーザを守るための存在だと聞いた。
強大な力を有するカーザがその力で自らを滅ぼしてしまわぬように守るのだと。
だけど、具体的にどうすれば良いのかなんて誰も教えてはくれなかった。
自分に何が出来るかなんて、何も分かっていない。
銀のルティナっていったい何?
銀の髪と水晶を持っているというだけで、何か特別な力なんて何も持っていない。
イサークのような魔法使いでもないのに。
どうやってカーザを……彼を守れると言うのだろう。
ハーラがイリーナめがけて突っ込んでくる。
ガラス玉のような黒いハーラの目がイリーナを見ていた。
なぜか目が離せなかった。
空虚な黒い瞳の中に見え隠れするのは恐怖なのか。小さな魂が怯えているように見えた。
黒い翼を大きく広げて襲い掛かってこようというのに、イリーナにはそれが助けを求めているように思えた。
ハーラの鋭い鳴き声も悲鳴に聞こえた。
怖い、怖いと泣いているようで、胸が占めつけられるように辛かった。
手を差し伸べて、抱きしめたいと思った。
「女神ルティニネティ……そのお力をわたしに貸してください」
闇の中で美しいルティニネティがその姿を顕す。
柔らかな銀の光は癒しの力。
その力が己のうちにもあることをイリーナは知っていた。
ゆっくりと両手を広げる。
水晶が更に眩しく、けれどとても優しい光を発していた。
ハーラの鋭いくちばしがイリーナの胸の水晶に突き刺さる直前、ハーラは動きを止めた。
一瞬の空白。
銀の光がハーラを包み込んだ。
黒い体毛が瞬時に純白に変わる。
甲高い悲鳴は消え、甘えるようにイリーナに体を摺り寄せてくる。
優しく撫でてあげながら、イリーナは清清しい気分を味わっていた。
光に満ち溢れた世界にその白い鳥を解き放つ。
この開放感はいったい何なのだろう。
暗く一人ぼっちだった世界はすでになく、懐かしい故郷、聖ラーザに良く似た景色がはるか下に広がっていた。
「わたし……」
気がつくと、イリーナははるかな上空に佇んでいた。
優美な王宮が眼下に広がっていた。
その中心に巨大な魔方陣、六芒星が見えた。月光を反射してきらきらと輝いている。
六本の柱はこれだったのだと気がついた。
まばゆい光が溢れる六芒星の中に、イリーナはゆっくりと降下していった。
光の中に、彼がいた。
ゆっくりと舞い降りてくるイリーナを見上げながら、アル・アズは柔らかく微笑んでいた。
やはり、と思った。
彼が呼んでいたのだ。
「やあ、君か」
まっすぐに見つめてくるまなざしを受けとめて、イリーナはアル・アズに歩み寄った。
胸がしめつけられるように痛む。
けれどそれはどこか甘い疼きだ。
もう一度彼に会いたいと思っていた。
ただ会いたいと願って、王宮に留まった。
そうして、今ここにいる。
彼を守りたいと、今まで以上に強く願う自分がいる。
「どうしたんだい、君はいつも泣きそうな顔をしているね」
「わたし……わたしにも、あなたを守らせてください」
アル・アズは静かに微笑んだ。
「ありがとう、イリーナ」
名前を呼ばれただけで心が震える。
涙が溢れて、零れ落ちた。
アル・アズがそっとイリーナを抱き寄せ、胸の水晶に口付ける。
「……あっ」
太陽の祝福を受けて、水晶が歓喜で震えていた。
その様子を見ていたオルガが吐息とともにつぶやく。
「…太陽に恋したら辛いだけよ、イリーナ」
それでも惹かれてしまうのは因果なのだろうか。
月のかけらたる銀のルティナが太陽のかけらに恋するのは必然。
「あなたも…おばかさんね」
オルガは同じように様子を見ているルーリアをそっと視線だけで眺めやる。
王女はどこまでも静かだった。
澄み渡る空には満天の星。
柔らかな光を投げかける銀の月が真円を描き、美しい姿をおしみなく見せつけている静かな夜。
「アル・アズさま、ルティニネティがほら、あんなに綺麗」
夜の庭園を踊るように抜けて、イリーナは美しい月を見上げる。
巨大な六芒星の内側に佇んでいたアル・アズもその声に誘われるように空を見上げた。
月光に浮かび上がる真白の六本の柱。
それが六芒星を描く支柱。
六芒星は結界の印。
天と地を結び付け、固定するもの。
アル・アズの本当の世界、神界とこの世界『ファルダイム』とを結ぶゲートの役割をしているのだという。
「ここから神界にも行けちゃうってことですか?」
イリーナは興味津々と六芒星を眺める。身を乗り出して、今にも異界へと飛び込んでいきそうだ。
アル・アズは微笑を浮かべながら、その様子を見つめている。
「そうだね、でもやめておいた方が良い。こことでは空気が違いすぎる」
びっくりしたようにイリーナは振り返る。
「そうなんですか?」
「魔法でかなり近付けてはあるけれど、内包する力の純度が違うんだ。慣れてないとキツイだろうね」
それはアル・アズにとっても同じことが言えるのではないだろうかとイリーナは思った。
微笑みながら、なんでもないことのように話してはいるけれど、本当はどこかで無理をしているのかもしれない。
その変調に気付く事が出来れば、少しでも助けになるだろうか。
今はまだ銀のルティナがどんな風にカーザの助けになっているのかイリーナは分かっていなかった。
どうすれば彼に近付けるだろう。どうすれば彼を助ける事ができるだろう。
頭にあるのはそれだけだ。
「君は僕が怖くないの?」
そう問いかけるのはアル・アズ。
毎日毎日、時間があればイリーナはアル・アズに会いにこの庭園に顔を出していた。
アル・アズはイリーナを嫌な顔一つせずに、柔らかな微笑を浮かべて光の中へと招き入れてくれる。
六芒星はどこまでも清らかで聖性に満ち、彼を包む空気はとても澄んでいる。
この空気はやはりラーザととても似ている。
楽園と呼ばれるこの庭園も。
だからなのか。イリーナがアル・アズから感じるのは懐かしさ、なのだ。
「怖くなんかないです。だってアル・アズさまはとってもお優しいじゃあないですか。みんながどうしてそんなことを言うのか私にはわかりません」
イリーナは首を振る。
こうして会って、話して、それでどうして怖いと思うことが出来るのか。
自分たちとなんら変わらない感情を持っているのに。
「それはね、僕が死を招く存在だからだよ」
静かに淡々とした口調で紡がれる言葉。その言葉の本当の意味を咄嗟に捉える事が出来ないくらいに、当たり前のようにアル・アズは言う。
強大過ぎる力は魔王への牽制にもなるけれど、力なき人間にとっても毒に等しいものであるのだと、フルクは言った。
それは分かる。分かるけれど……。
「近付けば焼かれる。だれも自分から近付こうとは思わないさ。君も、あまり僕に近付きすぎない方が良い」
「嫌です! だってそれはあなたが望んでることじゃないでしょう? ただ持ってるお力が大きいだけじゃないですか! 誰かを傷つけようとかそんなことを望んではいないはずでしょう?」
「それでも、近付けば傷つけられるとわかっていて、あえてそうしようとする人間はいない」
「私は……」
「―――君はまだ、僕がどんな存在か何も知らない」
どうしてそんな悲しい事を微笑んだままで口にするのだろう。
あきらめているのか、全てを受け入れているのか、イリーナには分からない。
「それでもっ……」
それはきっとおこがましい願い。
彼の言う通り、何も知らない自分が彼の力になれるなんて思ったらそれは驕りだ。
だけど、 側にいたいと。力になりたいと願うのは自由のはず。
閉ざされた楽園の内側でたった一人、世界を守るために佇んでいる彼。
その瞳を見た瞬間に捕われてしまった。
「わたしは……あなたの側にいて……あなたの力になりたいんです」
泣くつもりなんてなかったのに、涙があふれてきてとまらなくなってしまった。
「ご、ごめんなさい、私……」
慌てて涙をぬぐったが、涙はあとからあとからあふれてきて、イリーナは恥ずかしくなって俯いた。
ふいに頭を抱え込むように引き寄せられた。驚きのあまり、涙も止まった。
頭上から小さく吐息が届く。
「アル・アズさま……?」
「ありがとう」
暖かなぬくもりと伝わってくる鼓動。それが生きていることの証。
神々のようにあがめられていても、生身の体をもっているのだ。傷つけられれば痛いと思う心だって当然ある。
どうしたら守れるだろう。
どんなことで癒されるのだろう、この人は。
そんなふうに思っている人間がここにいるということをいつか気付いてくれるだろうか。
「僕はね、待っているんだ……時を」
「……時?」
アル・アズは頷く。
「そう、僕は僕を望む声によってこの世界へと召還された。それは僕自身が待ち望んでいた声でもあった。僕はもう一度あの声が僕の名を呼んでくれることを待っているんだ」
そう言ってアル・アズは微笑み、空を見上げた。
「だから、大丈夫だよ」
イリーナに言っているのか、それとも自身に言い聞かせているのか、分からない。
いとおしむ瞳の先にあるのは月。
アル・アズは穏やかに、冴え渡る月を見つめている。
何を思って見つめているのか。
その儚いまでに美しい横顔を、イリーナはじっと見つめていた。
イサークは月明かりの庭園を一人散策していた。
空には晧晧とした月が輝いている。
癒しの銀の月ルティニネティが、その優美な姿をおしみなく見せている。
その月を見上げながら、脳裏に浮かぶのは一人の少女のことばかりだ。
くるくると良く変わる表情。自由奔放に軽やかに飛びまわっては明るい笑顔で笑う。
艶やかな銀の髪と紫の瞳はイサークの実の姉と同じなのに、まるで印象が違う。
手元においておきたい気持ちと王宮から遠く離れた平和な田舎で静かに暮らしてほしいと言う気持ちが混ざり合っている。こんなことは初めてだった。
銀のルティナを探して王宮に保護する。これは自分が陛下に頼んでそうさせてもらっていることだ。
魔物に狙われやすい彼女たちを守るために。
そしてそれはアル・アズを守るための力にもなるから、と。
なんの迷いもなくしてきたことなのに、イリーナに出会ってからは迷ってばかりいる。
イリーナが聖ラーザの娘だからだろうか。
いずれ帰さなくてはならない娘のはずなのに、王宮に保護したい気持ちが捨てきれなかった。
彼女自身が残ると決めてくれた時、喜んだ自分がいる。
ルティナの勤めを果たしたいと望んでくれるとは思ってもみなかったことだった。
手放したくないと思う自分がいることが信じられなかった。
彼女には聖ラーザの自然の中で笑っている方が幸せだと分かっているのに。
それはやはり血の繋がった姉の寂しげな笑顔が、イサークの胸の奥に小さな刺となってずっと刺さっているからだ。
対のかけらを手にしていながら、決して幸せそうに見えない姉の姿が、未来のイリーナの姿と繋がっていきそうで怖い。
いつかイリーナもあんな風に笑うようになってしまうのだろうか。
銀のルティナとして生きることが少女にとって辛い事でないように祈るばかりだ。
月明かりの下、銀色の光を纏って、イリーナが六芒星の輝きの中へ舞い降りていくのを、イサークはただずっと見つめていた。
ふいに顔を上げて、イリーナは周りを見渡した。
空が黒く染まっていた。
どこから涌き出てくるのか、深い深い闇色の鳥の群れ。
どんどん数を増やし、青空を覆い尽くしていく。
気がつくと、イリーナは独りだった。
周りには誰もいない。
甲高い鳴き声が鋭く空を裂く。
イリーナを狙って、ハーラたちが飛来する。
夢でも見ているのだろうか。
さっきまでオルガと一緒にいたはずだったのに。
あの不思議な部屋の中にいたはずだったのに。
今はたった独りで逃げることも出来ずにその場に立ちすくんでいる。
胸の水晶がまばゆいばかりの光を放っていた。
まるでそれが目印のように、ハーラが突っ込んでくる。
イリーナは悲鳴を上げてそれから逃れた。
若草色のローブの袖が鋭いくちばしで切り裂かれていく。
黒い羽根が叩きつけるように耳元ではためいて聞こえる。
ものすごい速さでイリーナの周りを旋回するハーラたちの群れ。
前に走る事も後ろに逃げる事も出来なかった。
一歩も動けない状態では立ちつくす。
恐怖が胸を締め付けてくる。
水晶の光を隠そうとしてもまばゆいばかりの光は押さえる事もできず、闇の中でイリーナを銀色に照らし出している。
「いやっ、誰か、たすけてっ……」
どうしてこんな状況に陥っているのか、分からなかった。
夢だとしか思えない。
だってさっきまでオルガと話をしていたのだから。
オルガの表情もまだはっきりと思い浮かべる事が出来る。自信ありげに微笑むのはきっと彼女の性格なのだろう。
その彼女が言った言葉さえも覚えているのだから、夢であるはずがない。
『銀のルティナって、なんだと思う?』
そして、彼女は笑いながらこうも言ったのだ。
『口で説明するよりもっと簡単な事があるわ。あなたの……を私たちに見せてちょうだい……』
何を見せろと言うのか。
その言葉だけがかき消されたように届かなかった。
オルガの口の動きだけは鮮明に見えるのに、言葉は届かない。
あの時彼女はなんと言ったのだろうか。
銀のルティナが何かなんて一番聞きたいのはイリーナだった。
カーザを守るための存在だと聞いた。
強大な力を有するカーザがその力で自らを滅ぼしてしまわぬように守るのだと。
だけど、具体的にどうすれば良いのかなんて誰も教えてはくれなかった。
自分に何が出来るかなんて、何も分かっていない。
銀のルティナっていったい何?
銀の髪と水晶を持っているというだけで、何か特別な力なんて何も持っていない。
イサークのような魔法使いでもないのに。
どうやってカーザを……彼を守れると言うのだろう。
ハーラがイリーナめがけて突っ込んでくる。
ガラス玉のような黒いハーラの目がイリーナを見ていた。
なぜか目が離せなかった。
空虚な黒い瞳の中に見え隠れするのは恐怖なのか。小さな魂が怯えているように見えた。
黒い翼を大きく広げて襲い掛かってこようというのに、イリーナにはそれが助けを求めているように思えた。
ハーラの鋭い鳴き声も悲鳴に聞こえた。
怖い、怖いと泣いているようで、胸が占めつけられるように辛かった。
手を差し伸べて、抱きしめたいと思った。
「女神ルティニネティ……そのお力をわたしに貸してください」
闇の中で美しいルティニネティがその姿を顕す。
柔らかな銀の光は癒しの力。
その力が己のうちにもあることをイリーナは知っていた。
ゆっくりと両手を広げる。
水晶が更に眩しく、けれどとても優しい光を発していた。
ハーラの鋭いくちばしがイリーナの胸の水晶に突き刺さる直前、ハーラは動きを止めた。
一瞬の空白。
銀の光がハーラを包み込んだ。
黒い体毛が瞬時に純白に変わる。
甲高い悲鳴は消え、甘えるようにイリーナに体を摺り寄せてくる。
優しく撫でてあげながら、イリーナは清清しい気分を味わっていた。
光に満ち溢れた世界にその白い鳥を解き放つ。
この開放感はいったい何なのだろう。
暗く一人ぼっちだった世界はすでになく、懐かしい故郷、聖ラーザに良く似た景色がはるか下に広がっていた。
「わたし……」
気がつくと、イリーナははるかな上空に佇んでいた。
優美な王宮が眼下に広がっていた。
その中心に巨大な魔方陣、六芒星が見えた。月光を反射してきらきらと輝いている。
六本の柱はこれだったのだと気がついた。
まばゆい光が溢れる六芒星の中に、イリーナはゆっくりと降下していった。
光の中に、彼がいた。
ゆっくりと舞い降りてくるイリーナを見上げながら、アル・アズは柔らかく微笑んでいた。
やはり、と思った。
彼が呼んでいたのだ。
「やあ、君か」
まっすぐに見つめてくるまなざしを受けとめて、イリーナはアル・アズに歩み寄った。
胸がしめつけられるように痛む。
けれどそれはどこか甘い疼きだ。
もう一度彼に会いたいと思っていた。
ただ会いたいと願って、王宮に留まった。
そうして、今ここにいる。
彼を守りたいと、今まで以上に強く願う自分がいる。
「どうしたんだい、君はいつも泣きそうな顔をしているね」
「わたし……わたしにも、あなたを守らせてください」
アル・アズは静かに微笑んだ。
「ありがとう、イリーナ」
名前を呼ばれただけで心が震える。
涙が溢れて、零れ落ちた。
アル・アズがそっとイリーナを抱き寄せ、胸の水晶に口付ける。
「……あっ」
太陽の祝福を受けて、水晶が歓喜で震えていた。
その様子を見ていたオルガが吐息とともにつぶやく。
「…太陽に恋したら辛いだけよ、イリーナ」
それでも惹かれてしまうのは因果なのだろうか。
月のかけらたる銀のルティナが太陽のかけらに恋するのは必然。
「あなたも…おばかさんね」
オルガは同じように様子を見ているルーリアをそっと視線だけで眺めやる。
王女はどこまでも静かだった。
澄み渡る空には満天の星。
柔らかな光を投げかける銀の月が真円を描き、美しい姿をおしみなく見せつけている静かな夜。
「アル・アズさま、ルティニネティがほら、あんなに綺麗」
夜の庭園を踊るように抜けて、イリーナは美しい月を見上げる。
巨大な六芒星の内側に佇んでいたアル・アズもその声に誘われるように空を見上げた。
月光に浮かび上がる真白の六本の柱。
それが六芒星を描く支柱。
六芒星は結界の印。
天と地を結び付け、固定するもの。
アル・アズの本当の世界、神界とこの世界『ファルダイム』とを結ぶゲートの役割をしているのだという。
「ここから神界にも行けちゃうってことですか?」
イリーナは興味津々と六芒星を眺める。身を乗り出して、今にも異界へと飛び込んでいきそうだ。
アル・アズは微笑を浮かべながら、その様子を見つめている。
「そうだね、でもやめておいた方が良い。こことでは空気が違いすぎる」
びっくりしたようにイリーナは振り返る。
「そうなんですか?」
「魔法でかなり近付けてはあるけれど、内包する力の純度が違うんだ。慣れてないとキツイだろうね」
それはアル・アズにとっても同じことが言えるのではないだろうかとイリーナは思った。
微笑みながら、なんでもないことのように話してはいるけれど、本当はどこかで無理をしているのかもしれない。
その変調に気付く事が出来れば、少しでも助けになるだろうか。
今はまだ銀のルティナがどんな風にカーザの助けになっているのかイリーナは分かっていなかった。
どうすれば彼に近付けるだろう。どうすれば彼を助ける事ができるだろう。
頭にあるのはそれだけだ。
「君は僕が怖くないの?」
そう問いかけるのはアル・アズ。
毎日毎日、時間があればイリーナはアル・アズに会いにこの庭園に顔を出していた。
アル・アズはイリーナを嫌な顔一つせずに、柔らかな微笑を浮かべて光の中へと招き入れてくれる。
六芒星はどこまでも清らかで聖性に満ち、彼を包む空気はとても澄んでいる。
この空気はやはりラーザととても似ている。
楽園と呼ばれるこの庭園も。
だからなのか。イリーナがアル・アズから感じるのは懐かしさ、なのだ。
「怖くなんかないです。だってアル・アズさまはとってもお優しいじゃあないですか。みんながどうしてそんなことを言うのか私にはわかりません」
イリーナは首を振る。
こうして会って、話して、それでどうして怖いと思うことが出来るのか。
自分たちとなんら変わらない感情を持っているのに。
「それはね、僕が死を招く存在だからだよ」
静かに淡々とした口調で紡がれる言葉。その言葉の本当の意味を咄嗟に捉える事が出来ないくらいに、当たり前のようにアル・アズは言う。
強大過ぎる力は魔王への牽制にもなるけれど、力なき人間にとっても毒に等しいものであるのだと、フルクは言った。
それは分かる。分かるけれど……。
「近付けば焼かれる。だれも自分から近付こうとは思わないさ。君も、あまり僕に近付きすぎない方が良い」
「嫌です! だってそれはあなたが望んでることじゃないでしょう? ただ持ってるお力が大きいだけじゃないですか! 誰かを傷つけようとかそんなことを望んではいないはずでしょう?」
「それでも、近付けば傷つけられるとわかっていて、あえてそうしようとする人間はいない」
「私は……」
「―――君はまだ、僕がどんな存在か何も知らない」
どうしてそんな悲しい事を微笑んだままで口にするのだろう。
あきらめているのか、全てを受け入れているのか、イリーナには分からない。
「それでもっ……」
それはきっとおこがましい願い。
彼の言う通り、何も知らない自分が彼の力になれるなんて思ったらそれは驕りだ。
だけど、 側にいたいと。力になりたいと願うのは自由のはず。
閉ざされた楽園の内側でたった一人、世界を守るために佇んでいる彼。
その瞳を見た瞬間に捕われてしまった。
「わたしは……あなたの側にいて……あなたの力になりたいんです」
泣くつもりなんてなかったのに、涙があふれてきてとまらなくなってしまった。
「ご、ごめんなさい、私……」
慌てて涙をぬぐったが、涙はあとからあとからあふれてきて、イリーナは恥ずかしくなって俯いた。
ふいに頭を抱え込むように引き寄せられた。驚きのあまり、涙も止まった。
頭上から小さく吐息が届く。
「アル・アズさま……?」
「ありがとう」
暖かなぬくもりと伝わってくる鼓動。それが生きていることの証。
神々のようにあがめられていても、生身の体をもっているのだ。傷つけられれば痛いと思う心だって当然ある。
どうしたら守れるだろう。
どんなことで癒されるのだろう、この人は。
そんなふうに思っている人間がここにいるということをいつか気付いてくれるだろうか。
「僕はね、待っているんだ……時を」
「……時?」
アル・アズは頷く。
「そう、僕は僕を望む声によってこの世界へと召還された。それは僕自身が待ち望んでいた声でもあった。僕はもう一度あの声が僕の名を呼んでくれることを待っているんだ」
そう言ってアル・アズは微笑み、空を見上げた。
「だから、大丈夫だよ」
イリーナに言っているのか、それとも自身に言い聞かせているのか、分からない。
いとおしむ瞳の先にあるのは月。
アル・アズは穏やかに、冴え渡る月を見つめている。
何を思って見つめているのか。
その儚いまでに美しい横顔を、イリーナはじっと見つめていた。
イサークは月明かりの庭園を一人散策していた。
空には晧晧とした月が輝いている。
癒しの銀の月ルティニネティが、その優美な姿をおしみなく見せている。
その月を見上げながら、脳裏に浮かぶのは一人の少女のことばかりだ。
くるくると良く変わる表情。自由奔放に軽やかに飛びまわっては明るい笑顔で笑う。
艶やかな銀の髪と紫の瞳はイサークの実の姉と同じなのに、まるで印象が違う。
手元においておきたい気持ちと王宮から遠く離れた平和な田舎で静かに暮らしてほしいと言う気持ちが混ざり合っている。こんなことは初めてだった。
銀のルティナを探して王宮に保護する。これは自分が陛下に頼んでそうさせてもらっていることだ。
魔物に狙われやすい彼女たちを守るために。
そしてそれはアル・アズを守るための力にもなるから、と。
なんの迷いもなくしてきたことなのに、イリーナに出会ってからは迷ってばかりいる。
イリーナが聖ラーザの娘だからだろうか。
いずれ帰さなくてはならない娘のはずなのに、王宮に保護したい気持ちが捨てきれなかった。
彼女自身が残ると決めてくれた時、喜んだ自分がいる。
ルティナの勤めを果たしたいと望んでくれるとは思ってもみなかったことだった。
手放したくないと思う自分がいることが信じられなかった。
彼女には聖ラーザの自然の中で笑っている方が幸せだと分かっているのに。
それはやはり血の繋がった姉の寂しげな笑顔が、イサークの胸の奥に小さな刺となってずっと刺さっているからだ。
対のかけらを手にしていながら、決して幸せそうに見えない姉の姿が、未来のイリーナの姿と繋がっていきそうで怖い。
いつかイリーナもあんな風に笑うようになってしまうのだろうか。
銀のルティナとして生きることが少女にとって辛い事でないように祈るばかりだ。
月明かりの下、銀色の光を纏って、イリーナが六芒星の輝きの中へ舞い降りていくのを、イサークはただずっと見つめていた。
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