獅子王と海の神殿の姫

若島まつ

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九十、クロウタドリ - le merle noir -

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 アニエスは僅かに開いた扉を虚ろに眺め続けた。手の届く範囲で何か武器になるものを探してみたが、何もない。いざとなれば母の手記を投げつけるくらいしか抵抗できない。それも、腕が動けばの話だ。扉の奥で人影が動くと、心臓が破れそうなほど打った。
 ――が、扉の隙間から覗いた顔を見て、アニエスは大きく息をついた。キセだ。それも、地味な茶色い外套を着て、巣穴から外を伺うリスのように、ものすごくビクビクしながら扉を開けている。
 アニエスは力の入らない身体からもっと力が抜けたような気がした。同時に、ひどくおかしくなった。情緒が壊れたように、笑いが腹から込み上げてくる。
「アニエス!」
 キセが駆け寄ってきた。安堵した表情から、距離が近付くにつれて眉の下が曇っていく。アニエスの異常事態に気付いたのだ。
「い、一体どうしたのですか」
「…毒を飲んだみたい」
 サッとキセの顔から血の気が引いた。
「と、特定できますか?対処方法は…」
 アニエスは呼吸を浅く繰り返しながら小さく頷いた。ヴェロニクが使う毒薬であれば目星は付く。植物から採れるもののうち、摂取してから死に至るまである程度時間がかかり、麻薬中毒死にも見えるものだろう。残念ながら、解毒薬はない。
「水…」
 キセはこれだけ聞いて、解毒方法がないことを理解した。階下に向かって、普段の彼女からは想像できないほどの大声を発した。
「セレン!お水が大量に必要です!すぐに医療班を!急いでください!何かの中毒症状が出ています」
 アニエスは強い力で手を握ってきたキセの顔をチラリと見、目を閉じた。そんな泣きそうな顔をされたら、こちらが泣きたくなる。
「クロウタドリは、木の実が届くのを待つはず…」
 ひどい掠れ声でアニエスが言った。キセがここにいる理由を問うているのだ。
「クロウタドリは、自分で木の実を探しに飛ぶこともできるんですよ」
 キセはいつものようににっこりと笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。アニエスの手紙を読んでから、なんだかひどく嫌な予感がしていたのだ。だから、テオドリックとネフェリアに頼んで真夜中を待たずに決行させた。結果、後悔した。もっと早く来るべきだった。
 すぐにセレンが部屋に駆け入ってきた。瓶が六本詰め込まれた桶を両手に抱えている。アニエスの身体をキセが支えてセレンが瓶からそのまま水を飲ませていると、緋色の軍服にヘビと杖の腕章を付けた軍の医療班が三人やってきて、アニエスの苦しそうな声に耳を傾けてこくこくと頷き、彼女を抱えて運び出した。
 キセにはよく聞こえなかったが、病院と医師の名を言っていたようだった。
「わ、わたしも行きます…」
 キセがついて行こうとした時、医療班の男性に抱えられるアニエスが虚ろな視線でそれを拒絶した。
「仕事して」
 とアニエスは力無く言い残し、階下へ運び出されていった。
「彼女の言う通りです。姫さま、わたしたちの仕事をしましょう」
「…はい。セレン」
 キセは笑った。
 いつも通りの笑顔なのに、セレンには初めて見る顔のように思えた。この得体の知れなさの正体を、セレンはヴェロニク・ルコントに対峙したキセを目の当たりにして思い知った。
「あなたのしたことを許せません」
 キセは寝衣のまま捕縛され、無様にも地に膝をつけたヴェロニク・ルコントを見下ろし、そう言った。
 セレンは驚いた。キセの口から誰かを許せないなど、これまで一度も出たことがない言葉だ。しかし、キセの目はいつもと同じように慈愛に満ちている。なぜか、怖いと思った。
 手負いの獣のように敵意に満ちた目で睨め付けてくるヴェロニクに向かって、キセは微笑みかけた。
「あなたはかわいそうな方です。きっと、今この瞬間はこの地上で誰よりも哀れです。愛を知らず、ひとりぼっちですから」
 ヴェロニク・ルコントは鼻で笑った。
「それで勝ったつもりかしら、王女殿下。わたくしを叛逆罪に問うつもりらしいけれど、どこに証拠があるの?」
 キセはセレンに目配せした。セレンは押収したトランクを兵士から受け取って中を開け、内側の革をナイフで引き裂いた。
 そこに、ヴェロニクとデヴェスキのサインが書かれた紙が隠されていた。ドーリッシュとデヴェスキの業務提携や王都の南を共同所有すること、その一部を反乱軍の駐屯地とする計画までが記されている。
「あなたがどこに大切なものを隠すのか、アニエスが教えてくれました」
 ヴェロニクの顔色がみるみる変わっていく。目は殺意に満ち、あれほど優美で洗練されていた貴婦人の面影は、今やどこにもない。
「あの、小娘…!もっと早く殺しておくんだったわ!」
 セレンはチラリとキセの顔を見た。表情は気味が悪いほどに変わらない。
「…あなたは勝ち負けを気にしているようですが、一体何と戦っていらっしゃるのでしょうか」
 キセは膝をついてヴェロニクの顔を覗き込んだ。キセの目には敵意も、憎しみも、一切映されていない。
「わたしは勝ったとは思いません。たくさんの人が傷ついて、亡くなったのですよ。今あなたの計画を止められたからと言って、それを勝利とすることは有り得ません。あなたはどうですか?罪を暴き、裁いたらそれは勝利ですか?罪を隠して生き長らえれば、あなたの勝利なのですか?」
 ヴェロニクの唇は動かない。キセは続けた。
「それでも、罪を定めるのは法律です。わたしは裁く立場にありません。あなたの罪が裁かれたとしても、それは法の勝利でしかありません。ですが、あなたは法と戦っているわけではないですよね。あなたは何を求めてこの道を選んだのですか?たくさんの命を犠牲にして、自分を貶めて、人の道に外れてまで、欲しかったものは手に入りましたか?」
 夜闇の中、キセの新月の空のような瞳がきらりと光った。この時、ヴェロニク・ルコントは初めてキセの激しい怒りに気付いた。心臓が凍り付くような感覚だ。穏やかで弱々しいこの小娘のどこにそんな威力があるのか、全くもって理解ができない。それだけに、恐ろしかった。
「…答えられないのなら、これからあなたに残された時間で、どうぞじっくり自問なさってください。あなたは、誰からも許されることはありません。ですからせめて、最後の日までご自分を大切になさってください。わたしは、あなたの魂が永遠の暗い海の中で、いつか救いを見出すことを祈っています」
 何か言おうとしたヴェロニク・ルコントに構うことなく、キセはすっと立ち上がって背を向けた。背中に向かってヴェロニクが投げつけてくる言葉は、もうキセの耳には届かない。キセは一度も振り返ることなく、その場を後にした。
 セレンはキセに追従しようとする兵たちを制し、無言でその後についた。
 キセが向かった愛馬トルノの前に、凜々しい軍装のネフェリアがいる。
「立派だったな、キセ・ルルー。姉として誇りに思う」
 キセは複雑そうに目を細めた。
「ネフェリアさまの采配もお見事でした。あっという間でしたね」
「そなたの機転のおかげだ。予定通りに進めていたらこうはいかなかっただろう」
 ネフェリアがくしゃっとキセの髪を撫でた。キセは目の奥が熱くなるのを我慢するように奥歯を噛み締め、ネフェリアににっこりと笑って見せた。

「しかし、あれですねぇ」
 と、キセの様子を見守っている最中に突然話しかけられたセレンは、危うく声をあげそうになるほど驚いた。いつの間にか、背後に御者姿のヴィゴがいる。なぜか、何度見てもこの男の顔を覚えることができない。
「ああ、驚かせてすみません。足音を立てないのがつい癖になっちまいました」
 ヴィゴは人の良さそうな顔で笑った。セレンは無表情で首を振った。
「別に、驚いてないです。それで、何?」
「フフ、いや。キセ殿下はもっとお怒りになるかと思いましたよ。散々な目に遭わされて、今度はアニエス嬢が殺されかけてる。‘地獄へ堕ちろ’ぐらいはおっしゃってもよさそうなものですが」
「おっしゃいましたよ」
 セレンは溜め息をついた。
「今日の姫さま、ものすごく怖いです。あんなふうに怒り狂うの、初めて見た…」
 キセが最後にヴェロニクに告げた言葉は、情け深い言葉のようでいて、実は残酷だ。‘永遠の暗い海’は、オスタ教での‘地獄’を指す。乱暴な言い方をすれば、「永遠に地獄で悔いろ」と同義なのだ。
 セレンは、キセが背を向けた後のヴェロニク・ルコントの顔を見ていた。あの傲岸な女の顔に映っていたのは、恐怖だった。正しく女神の怒りを買った気分だったろう。キセの詰問は、呪いの言葉にも聞こえたはずだ。少なくとも、セレンにはそう聞こえた。
 この後、キセは馬上から、両手足を縛られ、荷馬車に乗せられた惨めな姿のアントワーヌ・デヴェスキに声をかけた。
「アニエスのお父さまですか」
 デヴェスキは眉を寄せてなんだか妙な表情をして見せ、「その通り」と答えた。そんな呼ばれ方は初めてだった。
「あなたには誤解して欲しくないので申し上げますが、アニエスはあなたを裏切っていません。最初からわたしたちに協力してくださっていただけです」
 デヴェスキは感情の薄い表情でキセを一瞥した。
「わたしもアニエスの計画の一部だったと、そう言いたいのですかな」
「はい」
 キセが微笑すると、デヴェスキは闇を裂くような声で笑い出した。
「まさか、あの小さなアニエスにしてやられるとは!なんとまあ、さすがはわたしの娘だ」
「…あなたは、あなたなりにアニエスを大切に思っていらっしゃるのですね」
「当然だ。血を分けた娘だぞ」
「では、牢獄から祈っていてください。アニエスが助かるように」
 デヴェスキの目が剣呑に光った。
「あのアバズレか。わたしの娘に何をした」
「すぐにわかります。どうぞ、お体に気を付けて」
 それきり、キセは一言も発しないまま馬を駆けさせた。後を追うセレンが苦労するほどに、速い。向かった先は、アストレンヌ城だ。門前では、既にテオドリックがイサクを伴って待っていた。
 キセは差し出されたテオドリックの手をキュッと握り、馬を降りた。
「…少し、お母さまの礼拝堂をお借りしてよろしいですか」
 テオドリックはいつもより暗いキセの目を探るようにじっと見つめ、頷いた。
 二人はセレンとイサクを門前に待機させ、庭園の小さな礼拝堂へ向かった。
 キセは入り口の燭台を取って小さな祭壇の蝋燭に火を灯し、倒れ込むように膝をついて両手を組み、祈り始めた。鬼気迫る勢いだ。いつものさやさやと耳を撫でるような祈りの声ではなく、叫びのようにも聞こえる。これは女神に捧げる祈りではなく、自分の中で渦巻く暗黒のような怒りを鎮めるためのまじないなのだ。
 テオドリックは礼拝堂の扉に背を預け、一言も発さずその姿を見守った。
 四半刻ほど経ってキセが祈りを終えた。微動だにしないその肩にテオドリックがそっと触れると、キセは振り向き、強い力でテオドリックを抱き締めた。
「大丈夫だ、キセ。大丈夫」
 背中にテオドリックの手のひらの熱が伝わり、キセは初めて自分の身体がひどく冷えていたことを知った。
「もう少しだけ、こうしていてください」
 テオドリックはキセをきつく抱き締め返した。
「好きなだけ」
「きゃっ!」
 不意に身体を持ち上げられ、キセが悲鳴を上げた。
 テオドリックは瞳に光が戻ったキセの顔を見上げて優しく微笑み、その身体をタペストリーの掛けられた壁に押し付けて、唇を塞いだ。
 テオドリックの口付けは、命の灯火のようだ。
 氷壁を叩くようだったキセの鼓動が変質し、心臓が、全身が熱を持ち始める。
「ん」
 キセは唇を割って入ってくるテオドリックの温かい舌を受け入れ、首の後ろに腕を回して、その甘やかな口付けと体温に身を委ねた。
「はっ…、ん…」
 苦しそうなキセの吐息がテオドリックの肌を湿らせ、再び唇が重なる。いつもより激しく、貪欲なキスだ。キセの奥深くに眠っていた動物的な衝動が、怒りに触発されて放出されたようだった。そういう自儘な欲求をまっすぐにぶつけてくるキセが可愛くて、切なくて、愛おしくて堪らない。
 キセの唇を解放してその足を礼拝堂の石の床に下ろしたとき、テオドリックは密かに自分の我慢強さを称賛した。これ以上続けていたら、不謹慎にもここで身体を開いていたかも知れない。なんだかおかしくなってくる。この礼拝堂で自分の忍耐が試されるのは、これで三度目だ。
 赤くなったキセの唇を指でふにふにと撫で、生気の戻ったキセの頬に羽が触れるようなキスをした。
「もう、…大丈夫です」
 キセの恍惚とした瞳にじりじりと羞恥が滲み、目蓋を伏せて黒い睫毛をその目元に落とした。いつものキセだ。
「アニエス嬢には信頼できる医師と、ガイウスもついているから、心配するな」
「はい」
 キセの目が潤む。テオドリックは髪を撫で、もう一度キスしたい衝動を抑えつけながら、その細い両肩に手を置いた。
「片を付けよう」
 テオドリックのエメラルドグリーンの瞳に燭台の炎が踊った。
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