王城のマリナイア

若島まつ

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四十四、少女の旅 - un viaggio di una ragazza -

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 イグリは上官の私邸から兵舎へ帰ろうとしていた。
(いやあ)
 と、頭を掻いた。
 バルカ邸へは二十日後に決行が決まった作戦の準備の中間報告へ赴いたのだが、やはり難航している。
 兵たちが商人を装って乗り込むダミーの貿易船の調達に加え、武器や弾薬を十分に隠しておけるほどの設備、現地でエマンシュナ軍との足並みを揃えるための話し合いに必要な資料や書類も必要だ。
 その上、ヒディンゲルの捕縛の後にはリストに名が載っていた他の罪人たちの捕縛も控えている。海賊団が潰れれば彼らが危険を察知して証拠隠滅を図るか逃げ出してしまう可能性が高い。そのため、海賊団討伐作戦が決行される直前或いは直後に人身売買に関わった者たちを迅速に捕らえなければならない。既に同盟諸国はそれぞれの権限でもってこの件に向けて動いている。無論、各国の軍と警察隊の連携が鍵になる。
 この連携を円滑に進めるべく、書類に関係するものはアルテミシアとハツカリが手分けして汗水たらしているが、イグリの当面の最大の問題は海賊討伐に用いる船のことだ。それほどの規模の商船を貸してくれる業者はなかなか見つけられない。とは言え、今から造らせるにも時間がない。
 最終手段は、アルテミシアのツテを頼ることだ。アルテミシアが昔乗っていた貿易船ならば手を貸してくれるかもしれないとのことだったが、残念ながらルメオの船がエマンシュナ海軍 ‘ナヴァレ’とイノイル海軍の合同作戦に参加するのは、ルメオ政府がいい顔をしないだろう。
 イグリが厩舎から馬を曳き、鐙に足を掛けようとした時、背後から強く腕を引かれて地面に引き戻された。
「うわっ…!びっくりしたなあ」
 暗がりから手燭を持って現れたのは、エラだった。既にこの日の業務を終え、簡素な室内用のドレスの上から厚手のショールを羽織っている。
「こんな時間まで、何をしてるんだ?」
 イグリがいつになく厳しい口調で言った。いかに海軍司令官の私邸の外で兵舎も近く安全な場所だと言っても、既に日が暮れて辺りは暗い。女性が一人で出歩くのに適した時間ではない。
 が、エラはイグリの憤慨した様子を気にも留めず、質問にも答えずに別のことを口にした。
「ここのところみんなが忙しくしているのは、次の任務が近いからですね?」
 これは予想外だった。イグリの知るエラという少女は、自分が責任を負う仕事や生活の範疇の外のことに口を出すタイプではない。
「それは…」
 と、イグリは言葉を詰まらせた。例え相手が司令官の屋敷で働く無害な女中であっても、軍の作戦に関する情報を漏らすわけにはいかない。それに、エラは奉公先の雇用主で任務の中心人物であるアルテミシアやサゲンに訊かずにわざわざその部下であるイグリが通るのを待ち伏せしてまで訊きに来たのだ。彼らに作戦について尋ねたところで教えてはくれないことを彼女自身も承知しているに違いない。
 察しのいいエラには、この一瞬の沈黙でイグリの考えを読み取ることができた。イグリがいかに平素陽気なお調子者でも、一隊を率いる将だ。口を割ることはないだろう。――が、他の二人よりも表情を読みやすいという利点がある。
「どんな作戦になるのか教えてください」
 エラの予想した通り、イグリはひどく困惑した。
「いくら君の頼みでも聞けないよ」
 しかし、エラはやめなかった。
「以前ミーシャやあなた方がわたしたちを助けに来てくれた時のことは、覚えています。最初は何が何だか分からなかったけど、時間を置いて冷静に状況を整理したらどういうことだったのかわたしでも理解できたわ。あれは兵士が貿易船の中に潜入していたのでしょう?ミーシャも一緒に。彼女の役職を考えると、通訳かしら。あいつら、…海賊は意思疎通に苦労するぐらい訛りが酷かったから…」
 エラが手燭を持っていない方の手で、何かに縋りつくように上腕を掴んだ。多分無意識だろう。手が小さく震えている。「海賊」と口にする直前、吐き気を抑えるようにエラが唾を呑み込んだことにもイグリは気付いていた。
 当然の反応だ。エラは海賊船で心にも身体にも大きな傷を負ったのだ。あの時痛々しく残っていた顔や首の痣は綺麗に消えたが、心の傷は一生消えることはない。
「エラ…」
 イグリがエラの腕にそっと触れた時、エラの身体がビクッと恐怖に震え上がった。が、イグリは触れた手を引っ込めずにエラの腕を支えた。イグリを見るエラの大きな目から徐々に恐怖が消えていく。
「…何が知りたいんだ?」
 エラは自分の腕を掴むのをやめ、今度は代わりにイグリの腕に縋りついた。
「今回もミーシャは危険な場所に行くの?前回みたいに、海賊船に潜入するなんてことは有り得る?」
「ミーシャは今回前線には出ないよ。エマンシュナなら通訳も必要ないしね」
 この程度の情報を友人を心配する少女に与えるくらいなら許されるだろうとイグリは思った。本来なら忘れたいはずの残酷な記憶や恐怖と向き合ってまで知ろうとしている彼女の頼みを、どうして無下にできるだろう。
「でも、もしケガをしたら誰が世話してくれるの?ちゃんと清潔に手当てができる場所や道具はあるのよね?医療班は?女性の医師はいる?ミーシャは女の人なのよ。万が一の時に他の男の人たちと同じ場所で服を脱いで治療を受けるなんてことになったら困るわ」
 エラが凄い勢いで捲し立てたので、イグリは思わず苦笑した。この娘もその雇い主と同じく、芯から職務に忠実だ。
「おいおい、心配性だなあ。ちゃんとオアリスから医療班が付いて行くし、前回の反省を生かしてきちんと医療用品も多く積む予定だよ。女医さんは…、まあ、今のところいないけど…医師ならミーシャは気にしないはずさ。その前に治療が必要になるようなことも起こらないだろうしね」
「…あなたは?」
「俺にも必要ないことを祈るよ」
「そうじゃないわ。あなたは前線に出るの?」
「それは内緒」
 イグリは目を細め、人差し指を立ててエラの唇に近付けた。
「はぐらかさないでください」
 エラは憤慨してイグリの指を払いのけた。気丈なエラの目が手燭の小さな炎を受けて、揺れるように輝いた。イグリは愚かにも、エラの長いまつ毛が涙で濡れていることにこの時初めて気が付いた。今まで女性の涙にはいち早く反応できたはずなのに。
「あなたのことも心配なんです。旦那様も、みんな。これ以上大事な人を失うのは、耐えられないわ」
 イグリは言葉を失った。この気丈な娘がその笑顔の裏でどれほどの孤独を抱えていたのか、まるで理解していなかった。イグリがたった今軽く一笑したことは、エラにとってはこの上なく大きなことなのだ。両親と妹を病で亡くし、愛人となった老貴族の屋敷で共に過ごした使用人たちも全員海賊に殺されてしまった彼女にとって、危険な任務に就く友人たちを黙って見送らなければならないことがどれほどのものであるか、考えも及ばなかった。
 しかし、だからと言ってイグリが特別気が利かない男だということではない。彼にとってはこういう類の任務はしばしばあることで、海賊の動きが顕著になってからというもの、常態化しているのだ。
「心配性だなんて笑って、悪かったよ。ちゃんとみんなで無事に帰ってくるから、信じて待っていてくれるかい?」
 エラは俯き、鼻をすすって小さく頷いた。
「君さえ嫌じゃなければ、抱きしめたいんだけど」
 と言って、イグリは急に不安になった。エラの頭が俯いたまま止まってしまったからだ。
「その、…友情の証に」
 拒絶される前にそう付け足すと、エラがおかしそうにくすくす笑いながら顔を上げた。
「いいわ」
 イグリの腕がそっと背に回ってきても、もうエラが震えることはなかった。
 
 使用人の宿舎の前までイグリに送ってもらった後、エラは自分の部屋へは戻らずにシオジの部屋を訪ねた。シオジは夜間の意外な訪問を訝しんだものの、エラの深刻そうな顔を見てすんなりと自室へ招き入れた。
 子供の描いた絵や妻の小さな肖像画が並べられた机を背にしてその椅子にシオジが腰掛け、エラはその向かいのオットマンにちんまりと座った。深刻な話し合いにはあまり相応しくない席だが、二人とも気にしなかった。
「しばらくいとまをいただきます」
 と、エラは開口一番にそう言った。突然の非常識とも言える申し出に、シオジは別段顔色を変えることもなく、事務的に応じた。
「期間はどうしますか」
「旦那様とミーシャ様の出発の前夜まではここで仕事をします。お二人の任務が終わる頃には必ず戻ります」
 シオジは考え込むように太い指を口に当て、エラの目を覗き込んだ。
「ああ、エラ。どうしてでしょうね。あなたが休暇の間にわたしの賛成できないことをするような気がしてなりません」
 シオジの厳しく彫りの深い顔が翳った。彼を知らない者が見たら恐ろしげな形相に見えることだろうが、エラにとっては違う。これが相手を想い、心を砕いている姿であることは分かっている。
「ごめんなさい、シオジさん。でも、どうしても必要なことなんです」
「…理由は聞かない方がよいのでしょうが、わたしの立場上そういうわけにはいきません。エラ、あなたの不在の理由を他の方にどう説明するべきですか」
 エラの胸が痛くなった。この執事はどこまでも人がいい。エラがこの屋敷を離れる理由を薄々勘付いているのだろう。それを主人たちに言えば反対されるであろうことも承知しているに違いない。その上で、エラの嘘の片棒を担ごうとしている。
「病気の知人を遠方に訪ねます」
「…わかりました」
 シオジは浅く頷いて立ち上がり、エラを戸口まで送った。
「くれぐれもお気を付けなさい。怪我などしないように」
「シオジさんったら。廊下を渡って部屋に帰るだけですよ」
 エラはわざといたずらっぽく微笑んで見せた。
 こういう顔はごく普通の若い娘に見える。と、シオジは哀しんだ。これまでの過酷な経験がエラの心を悲壮なまでに勇敢にしてしまっている。
 シオジは既に、エラの身に何があったのかを知っている。バルカ邸で働く使用人の人選が終わった後、全員と一対一で面談をした時に、エラが全てを包み隠さずに話したからだ。その時、一人の娘の父親であるシオジが受けた衝撃は大きいものだった。エラの不運に対してよりもむしろ、彼女自身がその辛い出来事を乗り越えるべく過去と向き合っていることを知ったからだった。その強面に似合わず感じやすいシオジはエラとの面談を終えて一人になった後、彼女と娘を過酷な運命から守ってやることができなかったその父親のために涙を流した。シオジの世界では、全ての娘たちには悲劇や勇壮さなんかではなく、おっとりとした呑気さと少しの臆病さが似つかわしい。彼女たちはあまねく守られるべきであると言うのに。
 本当ならエラの休暇を認めるべきではない。しかし、彼女が自分の人生を取り戻すために必要だと言うのであれば、ここでの父親代わりとして認めてやらねばなるまい。
 シオジは廊下の奥でエラが部屋に入り戸を閉めるのを見届けた後、ようやく自分も部屋へ戻った。エラが不在の間の担当の配置をいくつか替える必要がある。
 
 数日後の早朝、イグリが朗報を持ってバルカ邸を訪れた。
「船の問題は解決さ」
 コーヒーを銀の盆に載せてやって来たエラに向かって、食堂の中央の席にちゃっかり座り込んだイグリが得意げに言って見せた。一応、入り口を背にして比較的下位の席に座っているあたりが殊勝なところだ。
「あら。ずいぶん得意そうですけど、結局旦那様の一声とミーシャのツテがあったと聞いているわ」
 エラは挑発するように眉を上げ、にやりと笑った。
「なんだ。君ももう聞いてたのか」
「もちろん。お屋敷に関わることは把握していますとも」
「でも、俺が調整に立ったのだって役に立ったんだぜ。エマンシュナで独立したって言うミーシャの元仕事仲間の気が変わらないうちにいい酒飲ませたり、良家の子女が集まる夜会に連れて行ったりさ」
 エラはイグリの前にコーヒーと青磁のミルクポットと砂糖入れを置くと、冷ややかにイグリの陽気な顔を見下ろした。
「それって本当に任務のためかしら。わたしには、イグリ・ソノ様の趣味のように思えるんですけど」
「なんだよ。ひどいな」
 そこへ、コーヒーの香りに誘われたアルテミシアが鼻をくんくんさせながら現れた。まだ髪は起きたままでところどころ跳ねているが、服装だけはきちんと登城用の濃紺のドレス姿だ。
「んー、いい匂い」
「おはよう、ミーシャ。朝食を用意するわね」
 エラはアルテミシアにはいつもと同じ朗らかな声色で言ったが、厨房の方へ下がるついでにイグリを氷のような視線で一瞥して行った。アルテミシアは目を丸くし、屋敷の主人よりも早くテーブルの中央に陣取っているイグリをちらりと見た。目の前のコーヒーから立ち上がる湯気がイグリの整った顔を尚更困惑顔に見せている。
 アルテミシアはイグリの向かいに腰を下ろすと、小声でイグリに話しかけた。
「珍しい。エラの機嫌を損ねるなんて、イグリ何したの?」
「何もしてないよ。君の元同僚をもてなしたって話をしただけさ」
「ああ、レミね」
 アルテミシアは懐かしそうに目を細めた。
 船の調達が難航していた時、アルテミシアの元にユリオラ号で六年間を共に過ごしたレミから手紙が届いたのだ。内容は、バルバリーゴ船長の元から独立して故郷のエマンシュナで船を持ったという内容だった。
 アルテミシアがユリオラ号に押しかけた後、船での料理や帆の張り方を最初に教えてくれたのがレミだった。父親役がバルバリーゴなら、レミは謂わば兄役だ。
 彼の船を借りることができたのは、サゲンがバスケ元帥の名代としてオアリスに駐在しているイアサント・アストルにエマンシュナの貿易船を使う旨を申し入れ、アルテミシアがレミに一筆したためたことが大きく功を奏したからだが、この具体的な調整をするために、イグリがレミの真新しい船が停泊するティグラ港へ赴いたのだった。
 事業を始めたばかりで大きな仕事もまだ請け負っていないレミにとっては、悪くない話だ。国から報奨金も出るし、海賊討伐に一役買ったとなれば、船長としても箔がつく。それがその後のビジネスにも役立つはずだ。
「レミ元気だった?本当ならわたしも会いに行きたかったんだけど」
 アルテミシアが尋ねると、イグリはエラが淹れてくれたコーヒーにミルクをたっぷり注ぎながら苦笑まじりに言った。
「君のことを気にしていたよ。あの人すごい飲むんだな。夜会に連れて行ったらワインを一人で軽く十本は空けちゃったよ。それで酔ったら今度は‘オイ、俺の妹に悪い虫はついてねえだろうな’って、しつこいんだ」
 イグリがレミのちょっと高い声と眉を高く上げた表情を真似ると、アルテミシアが「似てる!」と弾けるように笑い出した。
「それにしてもレミのやつ、妹だなんてよく言うよ。あの人には初日から手加減なしで散々しごかれたんだから。絶対、弟の間違い。――それで、イグリはなんて答えたの?」
「悪い虫はついてないって答えたよ。さすがに上官のことを虫扱いできないだろ?」
「くっ」
 とアルテミシアがいかにも可笑しそうに白い歯を見せて笑ったので、イグリも可笑しくなってきた。ここが当の上官の屋敷だということも忘れ、自然といつもの調子で饒舌になる。
「そうさ、上官は虫なんて可愛らしいものじゃないからな。強いて例えるなら、熊とかライオンとかだろ。いや、待てよ。海軍司令官だからな…オルカシャチの方がいいか」
「あー、イグリ、イグリ」
 途中までケラケラと笑っていたアルテミシアがいつの間にか笑いを噛み殺すように口の端をひくつかせながら自分を通り越して後ろを見ていることに気付き、イグリは口を閉じた。
「もしかして」
「ウン」
「…いるのか?」
 アルテミシアは顎をしゃくってイグリに後ろを振り返るよう促した。が、
「誰がオルカだって?」
 と眉間の皺を深く刻んでイグリの後ろに立つサゲンが口を開く方が早かった。イグリがびくっと背筋を伸ばして跳び上がるように立ち上がり後ろを振り返る様があまりにおかしくて、アルテミシアは堪えきれずにブハッと噴き出した。
「いいじゃない、あなたに似合うよ。‘オルカ’将軍」
 サゲンは涙目になって笑うアルテミシアに向かって目を細めたが、口元は苦々しげに引き結んでいる。
 そこへ、エラが三人分の朝食をワゴンに載せて運んできた。オーブンから出したばかりのマキべ手製のバゲットとバター、よく焼けたベーコンと卵の匂いが漂ってくる。
 サゲンはごく自然な動作でアルテミシアの隣に腰を下ろした。
「イグリ・ソノ、次そいつに会ったらアルテミシアにはオルカの婚約者がついていると言っておけ」
 この威嚇とも思える言葉にドキッとしたのは、エラだ。給仕をしながらそれとなくイグリの様子を伺った。が、イグリはエラの心配をよそに、
「おっと、上官。自分がオルカだって認めるんですか?」
 とニヤニヤしながら軽口を叩いて見せた。
「まあ、オルカは嫌いじゃない」
 サゲンが優しく目を細め、唇を吊り上げた。こんなふうに部下に対して笑みを見せるのは極めて珍しいことだ。イグリは驚いて思わずエラの顔を見た。この驚きに共感する仲間が欲しかったのだ。
 ところが、エラはニコリともせずにちょっと肩を竦めただけだった。「何をそんなに驚いているの?」とでも言いたげに見える。
 サゲン・バルカ将軍は、変わった。
 イグリはこの時初めてそれを意識した。アルテミシアは氷河のように冷厳な堅物からその温かく柔らかい水脈をすっかり掘り起こしてしまった。
(俺の恋は終わった)
 今になって痛烈に思い知った。心のどこかでまだアルテミシアの心に入り込む隙があるのではないかと期待していたが、たった一瞬でそんな考えは霧消した。婚約したことをこの場で聞かされたことなど、些細なことだ。イグリがサゲンの下についてから五年余り、士官学校で師弟だった時期も入れれば十一年の付き合いの中で、これほど武装を解いた上官の姿は一度も見なかった。
 多分、――イグリにとってはあまり考えたくないことだが、アルテミシアの愛がオルカに牙を自ら差し出させたのだろう。
 イグリはアルテミシアとサゲンが向かい側で今まで釣った魚の大きさがどうだとか船の上で美味しく食べるにはどう調理するといいとかいう他愛もない会話を交わすのをぼんやり耳に入れて時折相槌を打ちながら、特に何を食べているという意識もなくバゲットの切れ端をのろのろ口に運んでいたが、目の前に細い灰色の袖が見えてようやく我に返った。
 エラが遠慮がちに微笑み、たった今置いた新しいコーヒーの皿の隅にそっと小さな四角いチョコレートを置いた。
「怒ってたんじゃないの?」
 イグリが小声で言うと、エラも小さな声で返した。
怪我人・・・には優しくしないと」
「言ってくれるね」
 イグリは苦笑してチョコレートを口に放り込んだ。エラは弱っている誰かに甘いものをあげるのが好きらしい。
 皿の上のものが少なくなり、エラがコーヒーのおかわりを三人分運んで来ると、それまで柔らかな微笑を見せていたサゲンの顔は厳しい司令官のそれに変わっていた。皿は食卓の端へまとめられ、代わりに三人の前には地図が広げられている。アルテミシアは髪を後ろでひっつめて険しい顔をし、イグリも顔からすっかり貴公子のような笑みを消している。
「エラ、ご苦労だった。下がっていい」
 サゲンが低い声で命じた。
「片付けはわたしたちがやっておくから。朝食とコーヒーをありがとう」
 アルテミシアが親友への微笑を見せ、イグリは手をひらりと振ってエラだけにわかるようにウインクをして見せた。
 エラは一礼していつもは開け放たれている食堂の分厚い扉を閉め、目を閉じて細く長い息を吐いた。
 作戦の決行が、近付いている。
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