王城のマリナイア

若島まつ

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五十一、奪取 - les combattantes -

 犬顔の海賊はアルテミシアの襟を掴んだまま引っ張り上げた。そのせいで、アルテミシアの肩が露わになった。海賊は目を眇めるようにしてアルテミシアを観察した。
 アルテミシアは思わず後ろ手に持った剃刀の刃を外に向けたが、‘犬顔’が注目したのはアルテミシアの肌だった。
 肩に大きな紫色の痣を見つけた犬顔は「ヘッ」と鼻を鳴らして蔑むような目でアルテミシアを見ると、
「耄碌した変態じじい」
 と吐き捨てると、アルテミシアのドレスから手を放してさっさと船首に戻って行った。
「そうやってお利口にしてりゃ痣が増えることも無いだろうぜ。少なくとも、妙な客が付かなきゃな」
 そう言って再び酒瓶を取り上げてがぶがぶと酒を飲み始めた。
 ‘犬顔’がヒディンゲルの虐待の痕跡だと思ったのは、アルテミシアが昨日サゲンの鳩尾を狙った際に反撃に遭って地面に強打した場所だ。サゲンに手酷く稽古をつけられたのが予想外の形で役に立った。
(もしかして、こうなることも予想してたのかな)
 本当にそうであれば驚嘆すべき抜け目なさだ。以前、もしサゲンを出し抜くとすれば寝首を掻くしかないなどと考えたことがあるが、ますますその考えが現実味を帯びた。
 アルテミシアは肩をじりじりと動かして襟を直し、三人の海賊の様子を窺った。‘犬顔’と‘太鼓腹’が船首で何やら話し始め、操舵手の‘顎’が船尾にいる。注意深く彼らから目を離さずに手首の縄を切る作業を再開した。
「ありがと」
 波の音に掻き消されるほどの小さな声でアルテミシアが言うと、エラが動いたかどうか判別できないほど小さく頷いた。
 手首の縄を切り終えた後、縄を完全には解かず、アルテミシアはそのまま手を後ろで組んだまま動かさなかった。この次に、足枷の鍵を開けて外し、海賊の隙を突いて攻撃に転じる必要がある。
「…どうするの?」
 エラがアルテミシアと同じようにほとんど息だけの声で尋ねた。
「考え中」
 アルテミシアの返事は短い。アルテミシアは帆柱に背を預けたまま尻をエラの方へにじり寄せ、スカートの膨らみに隠すようにしてエラにも剃刀を差し出した。エラもそろそろと指を目一杯伸ばして剃刀を受け取り、慣れない手つきで刃を縄に擦り付け始めた。
「刃を上に押し上げるようにして、手を切らないように気をつけて」
 アルテミシアは口をほとんど動かさずに囁いた。
 ‘犬顔’は大きな瓶から浴びるように酒を飲み、‘太鼓腹’も女たちが身を寄せ合い大人しくしているのを満足気に眺め、気を抜いたように酒を飲み始めた。
(‘太鼓腹’は力は強そうだけど注意力散漫そう。‘顎’は近くにいるけど海を見て操舵に集中してる。‘犬顔’は、酒を飲んでるけど、この中では一番注意深そうだな…)
 慎重なカノーナスが商品と現金の取り引きを任せるだけあって、いちばん忠実そうだ。奴隷には関心がなさそうに見えるが、‘太鼓腹’と異言語で談笑しながら時折こちらの様子を伺っているのがわかる。とは言え、奴隷の反乱を危惧しているわけではなく、どちらかと言うと大事な商品が海に身を投げたりしないように注意を払っているのだろう。この場を離れて酒を飲み始めたということは、それほど強く警戒していないに違いない。
 船は予想通りよく風を掴んで速く進んでいる。職業柄当然といえば当然だが、‘顎’は巧く船を操っているようだ。以前立てた仮説が本当なら、カノーナスの船までの距離もそう長くないはずだ。
 ‘犬顔’と‘太鼓腹’のひどい訛りのマルス語で交わされる会話を左耳で聞きながら、アルテミシアは機を待った。会話の内容も彼らの訛りと同じくひどいものだった。
 自分たちにはあの奴隷どもにが付いているかどうか点検する義務がある。というような不愉快極まりない内容を‘太鼓腹’が主張し、それに対してリーダー格である‘犬顔’は、それは女衒ぜげんの仕事であって、自分たちはそこらへんの出来損ないみたいな下衆な真似はしない。と、あくまでこれがカノーナスによる真っ当なビジネスであるかのように説いた。アルテミシアにすれば、どちらも馬鹿げている。人の命を金で売買している事自体がそもそも道理に合っていないのだ。しかし、こういうことばかりを生業として生きてきた彼らにはこの道理がわからない。
 仲間の辛抱強い説得も虚しく、‘太鼓腹’はあくまで当然の義務として商品を味見する心積もりらしい。双方譲らぬまま話し合いは平行線を辿り、次第に‘犬顔’の声が苛立ち始めた。
 この時、アルテミシアは行動を起こした。
「ねえ」
 と、船尾で操舵する‘顎’の方へ身体を捻り、控えめな声色で話しかけた。
「何か飲み物をもらえない?ヒディンゲルの旦那様には何日も閉じ込められていたから、喉が渇いてもう限界なの」
 ‘顎’は鬱陶しげに眉根を寄せたが、大事な商品が売り手のもとへ渡る前に弱りでもしたら困ると考えたのだろう。操舵席から離れてアルテミシアに近寄り、デッキの端に置いてあった瓶を取り上げ、アルテミシアに「ほらよ」と差し出した。
「手が使えないから、縄を外してくれないならあなたが飲ませて」
 ‘顎’はアルテミシアを面倒臭そうに見下ろしたが、その目が薄汚れた欲望に鈍く光るのをアルテミシアは見た。賭けてもいい。こいつは恩を売って後々身体を要求しようと考えている。
「いいぜ、別嬪さん」
 ‘顎’はニタニタと隙間の空いた汚い歯を見せて瓶の蓋を開け、しゃがみ込んで飲み口をアルテミシアへ差し出した。瓶の中の透明な液体は安物のワインの匂いを放ちながらアルテミシアの胸元を濡らした。
「おっといけねえ。濡れちまったな」
 と、‘顎’がわざとらしく言ってアルテミシアの胸元へと手を伸ばした瞬間だった。
 アルテミシアは目にも留まらぬ速さで掌を下から突き上げ、‘顎’の喉仏を正確に狙って強かに打撃し、強烈に圧迫した。
 一瞬で呼吸困難に陥り、声を上げることも出来ずに白目を剥いて意識を失った‘顎’の胸ぐらを掴んで前のめりに倒し、自分の身体に覆い被せた。気を失った‘顎’の身体は重く、酒と汗の混じったひどく不快な臭いがする。右側のポケットをまさぐって鍵を取り出し、‘顎’の重い身体で身を隠すように足枷の鍵穴に鍵を差し込んだ。が、鍵の錆がひどく、なかなか奥まで刺さらない。
(くそ。こりゃ、ずっと潮風に晒してたね)
 この時、船首にいる二人が異変に気付いた。
「おい!てめえ、何してやがる!」
 ‘犬顔’が怒号を飛ばしながら近付いて来る。が、まだ奴隷の女が襲撃者であることには気付いていない。‘顎’が女を襲っているように見えているはずだ。‘犬顔’の後ろでは‘太鼓腹’が座ったまま愉快そうに笑っている。
「ほら、見ろ。多数決で俺の勝ちだ」
 ‘太鼓腹’は‘犬顔’を助けてやる気はないらしい。むしろ「ざまを見ろ」とでも言いたげに酒を飲み続けた。
 ‘犬顔’が三歩ほど手前まで足を進めた時、エラかヒステリックな声で騒いだ。
「ひどいわ!やっぱり嘘だったのね!あなたたちのところにいる間は手荒なことはしないって言ったじゃない!少しでも信用したわたしが馬鹿だったわ!」
 さすがに機転が利く。アルテミシアはエラに内心で感謝した。海賊に圧し掛かられてたせいでもがいているように見せるため、わざと大きく腕を動かし、身体を捩りながら鍵を奥まで押し込むことに成功した。
「うるせえ!ごちゃごちゃ騒ぐな!」
「もういやよ、こんなところ!死んだ方がマシだわ!」
 エラは立ち上がり、足枷に付いた鉄球を引きずりながら船の縁へと近付こうとした。‘犬顔’が舌を鳴らしてエラの頬を平手で打ち、その身体をデッキに突き飛ばした。
「いい加減にしやがれ!」
 ‘犬顔’がエラに向かって吠えた。この時、既に手足の自由を取り戻したアルテミシアが自分の足元に回っていることに気付かなかった。
「てめえらには大金を払ったんだ!死にてえなら買い手がついてから死にやがれ!」
「あっ!?おい、後ろ――」
 仲間の背後に立ったアルテミシアを見てようやく事態の異常さを理解した‘太鼓腹’が叫んだが、言い終わる頃には既にアルテミシアが短剣を‘犬顔’の喉元に突きつけていた。
 ‘犬顔’は両手を上げ、エル・ミエルド語に似た異言語で悪態をつき、固まった。加勢しようと船尾へ近付いていた‘太鼓腹’も足を止め、いつの間にか帆柱の下に伸びている仲間を見つけて呆気に取られ、初めて遭遇した「奴隷」の反乱に混乱して口を間抜けにパクパクと動かした。
「動くな」
 アルテミシアが‘犬顔’と‘太鼓腹’を交互に見ながら冷たい声で命じた。
「目的は何だ。金なら、持ってた分はあんたらと引き換えにあいつらに渡しちまったぞ」
「ハッ」
 ‘犬顔’が声を絞り出すと、アルテミシアが鼻を鳴らして嘲笑した。
「じゃあ、自由だな?それなら叶えてやれる。お安い御用だ…」
 ‘犬顔’は喉の皮を刃がスルリと撫でたのを感じ、ヒッと息を呑んだ。‘太鼓腹’はこれで女が本気だと確信したらしい。今度はガラガラの猫なで声で説得を始めた。
「よお、待てよ嬢ちゃん。こんな海の上で逃げようとしても、命が無駄になるだけだぜ。俺たちの他に誰が船を操るって言うんだ?」
 アルテミシアはこの会話の間にエラになるべく遠ざかるよう、足でちょいちょいと合図をした。
「わたしたちが欲しいのは、カノーナス」
 この時、初めて海賊の顔に恐怖が浮かんだ。
「クソッ」
 アルテミシアに刃を突き付けられている‘犬顔’が再び異言語で悪態をついた。この二人を差し向けたのが誰であるか、だいたいの察しがついたらしい。一方、‘太鼓腹’はその顔付きに似つかわしく頭の回転も鈍い。まだ自分たちを狙っているのが何者であるか理解せず、いきり立った。
「何だって小娘二人が親方を狙いやがる!」
「はは」
 アルテミシアは愉快そうに笑った。
「どうしてわたしたちが二人だけだと思うの?」
「じゃあ、…じゃあ、てめえらは一体何だってんだ」
 まだよく分からないといったふうに‘太鼓腹’が狼狽え、周りを見渡した。他の船は目の届く範囲には見当たらない。
「イノイル国王付き通詞」
「と、その侍女よ」
 ‘太鼓腹’の質問にアルテミシアが淡々と答え、その後ろでエラが胸を張った。
「侍女だっけ?」
「えっ。ミーシャってわたしを何だと思ってたの?」
「サゲンの家で働いてるわたしの友達」
「ともだち…」
 とエラは口元をむずむずさせて顔を赤くした後、目の前に海賊がいることを思い出し、
「友達兼、侍女です」
 と言い直した。アルテミシアはにっこり笑って頷いた。
「そう。それ」
 顔に青筋を立てた‘太鼓腹’が「おい」と声を上げる直前、アルテミシアが短剣を持つ手の人差し指を上げ、「シッ」と口を閉じさせた。
「カノーナスのところまで連れて行って」
 短剣の刃がつるりと再び首の皮を滑り、首に薄い切り傷を残した。
 ‘犬顔’はだらだらと顔中に汗を流しながら「わかった!」とほとんど泣くように叫んだ。しかし、もう一人の態度は違った。
「冗談じゃねえぞ!」
 ‘太鼓腹’がしゃがれた怒声を発した。
「親方にそんなことしてみろ、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃねえ!」
「てめえ!俺を見殺しにする気か!」
「知るか!お上に捕まるより裏切って親方に仕返しされる方がよっぽど怖いってもんだ!第一、こいつらのお味方とやらはどこにいるってんだ!?どこにもいねえじゃねえか!」
「ここからは見えないだけかもよ」
 アルテミシアは冷笑を浮かべて言った。事実、この小船からは味方の船は見えないが、一隻の軍船に高い櫓を立て、海と空の色に溶け込むように青い塗料を塗って小船の方向がギリギリ分かるくらいの距離を航行している。
 が、‘太鼓腹’は自分の目で見たものしか信じない性質らしい。「へっ」と鼻で笑い飛ばし、唾をデッキに吐いて見せた。これに慌てたのは、‘犬顔’だ。
「おい、よせ!」
(おっと)
 アルテミシアは冷めた目で二人のやり取りを聞きながら、内心でヒヤヒヤし始めた。どうも雲行きが怪しい。
(当てが外れたかな)
 予想したよりも海賊たちの仲間意識は希薄なようだ。二人の口論を聞いた時も思ったことだが、特にこの二人は互いに助け合うタイプではない。海賊にそんなことを求めたのが間違いだった、などと言えば偏見に聞こえるかもしれないが、この二人において言えば、間違いなくそうだ。
「前から思っていたがよ、俺たちゃ意見が合わねえな」
 ‘太鼓腹’はその図体に似合わずひどく俊敏な動きでベルトに挟んでいた手刀をビュッとアルテミシアの顔を狙って投げた。エラが叫ぶと同時にアルテミシアが機敏に‘犬顔’を盾にして身を低くしたため、手刀は‘犬顔’の鎖骨の下に刺さってひどい激痛を与え、醜い悲鳴をあげさせた。
「やっぱりな。おめえさんはハナから人を殺す気がねえのさ」
 ――読まれていた。
 アルテミシアは臍を噛んだ。相手が動いた瞬間に人質の喉を切ろうと思えばできたはずだが、アルテミシアはそうしなかった。サゲンには生け捕りが大前提だとは言われていない。ただ、怒りと憎しみに自我を失って海賊の局部に剣を突き立てた残忍な自分を二度と表に出したくなかったのだ。自分への恐怖が、アルテミシアの手を止めた。
 アルテミシアはエラを守るように船首の方へ跳び退き、短剣を構えた。デッキに伸びている操舵手を人質に取っても無意味だろう。もはや有利な状況ではない。相手がもう少し利口であればもっと簡単に済んだであろう戦略が、‘太鼓腹’の短慮さと自らの甘さ故に、こちらにとって不利になっている。
 ‘犬顔’はデッキを作ったの上でのたうち回りながら‘太鼓腹’に向かって罵声を浴びせたが、‘太鼓腹’はニタニタ笑って仲間を見下ろした。
「そう怖い顔をするなよ。きっと俺に感謝するぜ。イノイルの売女・・・・・・・の通詞が人質なら、普通に売るよりいい金になるだろうからな」
 この言葉が、血が凍るほどにアルテミシアを怒らせた。
(あいつ、イサ・アンナ様を、売女と呼んだ――)
 それだけで万死に値する。
 アルテミシアはギラリと目を光らせ、素足で床を蹴り、‘太鼓腹’の喉を狙って下方から迷いなく短剣を振った。
 ‘太鼓腹’は予想よりも愚鈍ではなかった。俊敏に一歩後ろへ跳び退いてアルテミシアの刃を避けた。が、切っ先は分厚い首の皮を切り、僅かに血が飛んだ。アルテミシアはこれに相手が狼狽してよろけた隙を突いて足を払い、その巨体をデッキに倒した。
「口には気をつけなよ」
 と喉に剣を突き立てようとした瞬間、エラの叫びが聞こえたのと同時に腕が後ろから首に巻きつき、アルテミシアの喉を強い力で絞めた。
 アルテミシアが‘犬顔’の腕を引き剥がそうとした時に手から剣が落ち、‘太鼓腹’が怒りの形相でそれを手に取った。
「クソ!はやくこの女を殺せ!」
 もがくアルテミシアの背後で‘犬顔’が叫んだ。片方の肩を仲間にやられたはずなのに、‘犬顔’に片腕でも人を絞め殺せるほどの膂力があるとは、誤算だった。
「まあ待てよ。その前に俺たちで遊んでやろうぜ」
 ぜえぜえと息をしながら‘太鼓腹’が笑った。この期に及んでまだ下劣な欲望を抑えることができないらしい。
(またそれか)
 首さえ絞められていなければ呆れて目をぎょろつかせているところだ。
「そのまま締めてろよ。一分もすりゃ気絶すんだろ」
「クソッ、てめえ…!早く済ませろ!」
 ‘太鼓腹’がドレスのスカートを捲り上げるのを、アルテミシアは脚をバタバタさせて防ごうとした。
 目がチカチカし始めた時、後ろの方で重い打撃音が聞こえ、フと身体が自由になった。同時にデッキの上を転がって‘太鼓腹’の手から逃れたつもりだったが、敵は悪態をつきながらペチコートごとスカートの裾を掴んでいる。アルテミシアはスカートの上部を引いて裾を切り離し、同時にペチコートから足を抜いた。間抜けにもドレスの裾とペチコートを掴んだままもんどり打った‘太鼓腹’に向かってアルテミシアは跳躍し、もう片方の腿のベルトに差した短剣を瞬時に抜いて相手の胴に突き刺した。
 悍ましい叫び声をあげて‘太鼓腹’はデッキに倒れ、腹に刺さった短剣を抜こうと足掻いた。
「気をつけなよ。抜いたら血が吹き出るから」
 ‘太鼓腹’は恐怖の形相でアルテミシアを見た。激痛に声も出ないらしい。口から泡のようになった涎を垂らして呻いている。
「きちんと手当てを受ければ死にはしないと思うよ。一応急所は外したもの」
 自分で聞いても驚くほど慈悲のない声色だった。アルテミシアはしゃがみ込み、鼻に皺を寄せて敵の顔を覗き込んだ。
「あんたは一番にわたしたちに協力した。減刑を見返りに。看守にはそう言っておく。このあと捕まるあんたの仲間たちと同じ牢獄で、裏切り者として生きながらえなよ。お友達が許してくれる限り」
 海賊が裏切りを許すなど、有り得ない。この男が牢獄に送られた後に待っているのは、地獄だろう。‘太鼓腹’は慄いたように目を血走らせてアルテミシアを見た後、腹に剣が刺さったまま意識を失った。
 アルテミシアはほっと肩の力を抜き、ようやく息を大きくついて後ろを振り返った。
 デッキに大の字になって俯せに倒れている‘犬顔’の後ろで、重い鉄球の付いた足枷の鎖をぶるぶる震えながら握りしめ、呆然と立ち尽くしたエラがいる。
「こっ、このひと、死んじゃったかな?わたし、ミーシャが殺されるかもしれないって怖くて、夢中で振ったから…」
 アルテミシアはエラに近寄り、張り倒されて赤く腫れた頬を労わるように撫でると、力いっぱい抱擁した。
「ありがとう。命の恩人だよ。ほんとうに、エラが一緒に来てくれてよかった」
「よ、よかった…。ミーシャ」
 エラは泣き出しそうな声色で言って安堵すると、脚の力が急に抜けたようにへたりと膝をついた。
「それにエラのお蔭で、ほら」
 と、アルテミシアは膝まで短くなったスカートを見せた。白くしなやかな脚がその下に伸び、所々に痣や赤い擦り傷がある。
「まさかこんなふうに役に立つとは思ってなかったけど」
 気絶した‘太鼓腹’の手の近くに落ちているスカートとぺチコートの残骸をちらりと見ながら、アルテミシアが笑った。こういう使い方はエラも予想外だった。本当は敵に対峙した英雄がマントを颯爽と取り外して風に靡かせるような光景を想像していたのだが、実際はもっと泥臭いものだった。力任せに引きちぎったために、裁断した通りには切り離されず、所々で切れた糸が伸びてボロ切れのようになっている。
「さっ、こいつら縛り上げて、なんだっけ?あの…‘遠くでパンパン鳴るやつ’?」
「‘遠くにピューンと飛んでポンポン鳴るやつ’」
「それ。それを打ち上げなきゃね」
 アルテミシアは気軽に言って縄を拾い上げた。
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