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26 不機嫌な同伴者 - l'enchère -
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「わたしの連れが世話になったようだ」
アルヴィーゼは表情と同じくらい冷たい声で言った。
当惑したのは、シルヴァンだ。
「えーと…連れ?」
イオネの腕を掴んだひどく身なりのいい男とイオネの顔を交互に見て、シルヴァンが自分の取るべき行動を考えていると、イオネは掴まれた腕を振り払ってアルヴィーゼに食ってかかった。
「ものみたいに掴まないで」
「無断で外出する方が悪い。探したぞ」
眉間の皺を深くしたアルヴィーゼの言葉で、シルヴァンにはエマンシュナ人だとわかったらしい。そして、今ルメオで最も話題のエマンシュナ人と言えば、黒髪のルドヴァン公爵だ。
「あの、失礼ですが、あなたはアルヴィーゼ・コルネール閣下では?光栄です。僕はシルヴァン・フラヴァリと言います」
シルヴァンが友好的に差し出した手を、アルヴィーゼは険しい表情のまま黙殺した。
「どういう関係だ」
このあからさまな敵意にシルヴァンは不快な表情を微塵も見せず、手を下ろして肩を竦めた。
「イオネとは古い友人なんです。偶然、久しぶりに会ったもので、つい懐かしくなって食事に誘ったんですよ。心配をかけたのなら、僕のせいだ。二人がどういう知り合いかは――」
シルヴァンは冷たい表情のアルヴィーゼから憤慨するイオネへと視線を移して、もう一度アルヴィーゼの目を見た。
「――聞いていませんが…」
アルヴィーゼは眉を寄せて、シルヴァンの少年くささの残る顔を見下ろした。
この青二才が親しげに‘アリアーヌ教授’の私的な名を呼ぶのが、堪らなく気に入らない。クレテ家とフラヴァリ家の親交が深いことは把握しているが、イオネと親密にしている同年代の男がいるとは知らなかった。
「この人とは仕事の関係で一緒に滞在しているの」
イオネが淡々と言うと、シルヴァンが表情を殺して顎を引いた。
「一緒に?」
アルヴィーゼにはその目の奥の感情が見える。不審、疑念、そして嫉妬。――間違いなくこの男はイオネを欲しがっている。
「経緯は話せば長いのよ」
「そうだな。話せば長い」
アルヴィーゼは恋人にするような仕草でイオネの腰を引き寄せ、その手から仕事用の鞄を抜き取り、追従してきたドミニクに渡した。
イオネが顔を赤くしてその手から逃れようとしたが、逃がすはずがない。先程よりも腰を強く抱いて鳩尾に近い場所を手のひらで撫でると、イオネがピクリと反応して抵抗をやめた。
どこにどう触れればイオネが抵抗をやめるか、アルヴィーゼは知っている。
「ではシルヴァン・フラヴァリどの。わたしたちはこれで失礼する」
「ああ。待ってください、公爵閣下」
シルヴァンはにっこりと笑い、上衣の内側のポケットから手のひらほどの大きさのカードを取り出した。金の箔押しの美麗な書体で、競売への招待が記されている。
「せっかくお知り合いになったので、是非今夜いらしてください。勿論、イオネも一緒に」
アルヴィーゼは冷淡な顔でそれを受け取り、一瞥してドミニクに渡した。
「予定を調整しよう」
「仮面を付けてきてください、閣下。きっと楽しいですよ」
シルヴァンの商売人らしい一面だ。イオネはなんだかおかしくなってくすくすと笑い、旧友へヒラリと手を振った。
足早に宿へ向かってイオネの手を引くアルヴィーゼの数メートル後ろを付き従いながら、ドミニクがソニアへ静かに目配せをした。
「あれ、誰」
ソニアにだけ聞こえる程度の声でドミニクが訊ねると、ソニアは渋い表情を見せた。
「おさな友達だそうです。とても気さくで善良な、フラヴァリ家の好青年です」
ドミニクは小さく息をついて何やら言い争いを始めた主人とその想い人の後ろ姿を見た。
「…荒れそうだな」
「イオネさまが寛いだ様子で笑い声を上げられるのを、初めて見ました。率直に申し上げて、強敵ですよ」
「勘弁してくれ」
ドミニクは頭を抱えた。機嫌の悪い主人のとばっちりを真っ先に受けるのは、自分なのだ。
「競売、行くんでしょうか」
ソニアがおずおずと上司の顔を見上げた。
「行くだろうね。あの方が市場調査の好機を逃すはずがない。フラヴァリ家の催しとなれば、かなりの大物が集まるだろうから」
「ああ、荒れそうですね。…でもほら、嵐の後に虹が掛かることもあります」
ソニアが殊更に声を明るくしたが、ドミニクの憂鬱は晴れない。
「どうかな。虹が出るには太陽が必要だ、ソニア」
「あら。あると思いますよ。雲に隠れているだけで」
「嵐のあとに雲が晴れればいいが」
二人の従者は長い溜め息をつき、友人への無礼な態度に文句を言うイオネと白々と皮肉を返すアルヴィーゼの後ろ姿を眺めた。
この夜、アルヴィーゼはシルヴァン・フラヴァリが支配人を務める競売会場へ現れた。眼の周りを覆う黒の仮面を付け、隣には不機嫌なイオネを伴っている。
彼女が纏っているのはソニアが持参した中から選んだゆったりした襞の美しい黒のドレスで、胸から足元にかけて星の紋様が金の糸で縫い取られている。アルヴィーゼの見るところ少々胸が開きすぎているようだが、イオネの頼りない肩を美しく官能的に見せるには完璧な形だ。
「…わたしの知らないうちに仕立てさせたわね」
イオネが目を覆う黒いレースの下でアルヴィーゼを睨め付けた。
このドレスは、以前ソニアがイオネのために用意したいくつかのデザインの中にあったものだ。そして、イオネの予算で仕立てたものではない。
「必要経費だ。仕事として夜宴に同伴することも増えるからついでに作らせただけだ」
「勝手なことをしないで」
「気に入らないなら出て行くときに置いていけ」
「気に入らないわけじゃないわ。ソニアの仕事は確かだもの」
「なら文句はないな」
アルヴィーゼはイオネとのトゲトゲした会話を愉しみながら、それとなく周囲を観察した。
仮面で顔を隠しているものの、だいたいはどこの誰か分かってしまう。エマンシュナにせよルメオにせよ、上流社会は狭いものだ。
競売会場である劇場のメインホールでは、観劇用の椅子は全て撤去され、国内外の名の知れた商人や貴族、共和国の高官などが立食形式の気軽な宴を楽しんでいた。ドレスコードに仮面が選ばれたのは、落札者の匿名性を保つというよりも、好事家たちに非日常的な時間を堪能させることが目的であるらしい。
とは言え、会員制で身元の確かなものしか参加することは許されないから、時折暇を持て余した金持ち連中の間で開かれるいかがわしい仮面舞踏会のような風紀の乱れはなさそうだ。
「うまい手ね。多少気が緩んでいる方が金払いが良くなるもの。慈善活動への寄付にもなるから財力を見せつけるために無駄に散財したとしても大義名分が立つし箔もつく。シルヴァンにこんな才能があるなんて知らなかったわ」
「確かに、なかなかやる」
アルヴィーゼは内心で面白くないと思いながらも、この手は見事だと認めざるを得ない。その上、フラヴァリ家の名を有効活用して多くの人脈を得ていることは、一目瞭然だ。
競売にかけられる品の目録も、大層なものだ。トーレの名のある工房で作られた細密な版画で、全ての品が細かく模写されている。
イオネはアルヴィーゼがでっぷりした紳士に話しかけられている隙に、人混みをスルリと縫って壁際へ抜け、壁の上方に掛けられた大きなステンドグラスのランプの下で目録にじっくり目を通し始めた。
出会えるかもしれないと思った希少本の出品はないが、芸術にそれほど縁がない者でも知っているような絵画や壁画の一部、太古の遺跡から持ち出された宝飾品など、どれも歴史的な価値の高いものばかりだ。
そこへ、顔半分を白い仮面で隠した、いかにも遊び慣れしていそうな紳士が近づいてきて、イオネに声を掛けた。
「その首飾りがご所望でしたら、あなたのために落札しますよ、麗しい貴婦人。ラピスラズリがあなたによく似合いそうだ」
紳士が指差した先には、着色された首飾りの絵がある。
「いいえ。これは個人で所有するよりも博物館や大学で研究するべきよ」
イオネは愛想笑いもせず、大真面目に返答した。
「使われているラピスラズリは千年前にウェヌス大陸の遙か東方の鉱山から採掘されて、この大陸へやってきたものよ。でもこの細かい彫金技術はもっと後の時代のマルス大陸南東部の特徴がある。それなのに、発掘されたのは大陸西部の遺跡だったそうよ。とても興味深い旅路だわ。当時の交易経路を検証するためにも研究者がこの首飾りを分析して――」
「わたしの連れに何かご用かな」
アルヴィーゼが紳士とイオネの間に入り、冷笑を浮かべて相手を威圧すると、紳士は興ざめしたように去って行った。
「離れるな」
アルヴィーゼの刺すように冷たい目を見て、イオネはムッとした。今夜一緒に来たのは旧友への義理立てのつもりであって、アルヴィーゼの仕事に必要だったからではない。
「人混みは嫌いなの。あそこは暗かったし。あなたと話したい人がたくさんいるんだから、付き合ってあげたらどう?今日は匿名の集まりなのだからクレテ家の顔も通詞も必要ないでしょう」
「俺は同伴者をほったらかしにするほど礼儀知らずではない。それとも本当にあの男に何かねだるつもりだったのか?」
「馬鹿なこと言わないで。本当に欲しいものは自分で手に入れるわ」
アルヴィーゼはニヤリと唇を吊り上げて、イオネの手から目録を取り上げ、パラパラとめくった。
「お前が欲しいものはこれだな。五百年前のアストロラーべ、エル・ミエルド製」
確かに、今夜の出品の中で唯一目を奪われたのが真鍮でできた球体のアストロラーベだ。短い付き合いだというのに、好みを知り尽くされている。何だか癪だ。
イオネは無言でアルヴィーゼから目録を取り返し、ツンと顎を上げた。
「そうよ。でもわたしはこういう遊びに興味はないから、落札者が博物館に寄贈してくださることを祈るわ」
「では俺が競り落とす」
アルヴィーゼの形の良い唇が悪巧みをするように吊り上がる。イオネは肩に回されたアルヴィーゼの腕に心臓の閉塞感を覚えて、それを隠すように目を逸らした。
「なら、是非ユルクス大学に寄贈して。わたしがいつでも見られるように」
仮面の下の緑色の目が、妖しく光ってイオネを射竦めた。不可思議な感覚がイオネの肌を走り、胸をざわざわとさせる。目に見えない糸が身体に絡みつくようだ。
「そうだな。アストロラーベの旅がどこで終わるかは、お前次第だ」
誘惑するような低く甘い声で、アルヴィーゼが囁いた。吐息が肌を震わせるほどに距離が近い。
(この男…)
明らかな挑発だ。イオネが身体の内側で熱を持ったことも、きっと気付かれている。恥ずかしくて、腹が立つ。この男を知るまでは、こんな面倒な現象に悩まされることもなかったというのに。
アルヴィーゼは表情と同じくらい冷たい声で言った。
当惑したのは、シルヴァンだ。
「えーと…連れ?」
イオネの腕を掴んだひどく身なりのいい男とイオネの顔を交互に見て、シルヴァンが自分の取るべき行動を考えていると、イオネは掴まれた腕を振り払ってアルヴィーゼに食ってかかった。
「ものみたいに掴まないで」
「無断で外出する方が悪い。探したぞ」
眉間の皺を深くしたアルヴィーゼの言葉で、シルヴァンにはエマンシュナ人だとわかったらしい。そして、今ルメオで最も話題のエマンシュナ人と言えば、黒髪のルドヴァン公爵だ。
「あの、失礼ですが、あなたはアルヴィーゼ・コルネール閣下では?光栄です。僕はシルヴァン・フラヴァリと言います」
シルヴァンが友好的に差し出した手を、アルヴィーゼは険しい表情のまま黙殺した。
「どういう関係だ」
このあからさまな敵意にシルヴァンは不快な表情を微塵も見せず、手を下ろして肩を竦めた。
「イオネとは古い友人なんです。偶然、久しぶりに会ったもので、つい懐かしくなって食事に誘ったんですよ。心配をかけたのなら、僕のせいだ。二人がどういう知り合いかは――」
シルヴァンは冷たい表情のアルヴィーゼから憤慨するイオネへと視線を移して、もう一度アルヴィーゼの目を見た。
「――聞いていませんが…」
アルヴィーゼは眉を寄せて、シルヴァンの少年くささの残る顔を見下ろした。
この青二才が親しげに‘アリアーヌ教授’の私的な名を呼ぶのが、堪らなく気に入らない。クレテ家とフラヴァリ家の親交が深いことは把握しているが、イオネと親密にしている同年代の男がいるとは知らなかった。
「この人とは仕事の関係で一緒に滞在しているの」
イオネが淡々と言うと、シルヴァンが表情を殺して顎を引いた。
「一緒に?」
アルヴィーゼにはその目の奥の感情が見える。不審、疑念、そして嫉妬。――間違いなくこの男はイオネを欲しがっている。
「経緯は話せば長いのよ」
「そうだな。話せば長い」
アルヴィーゼは恋人にするような仕草でイオネの腰を引き寄せ、その手から仕事用の鞄を抜き取り、追従してきたドミニクに渡した。
イオネが顔を赤くしてその手から逃れようとしたが、逃がすはずがない。先程よりも腰を強く抱いて鳩尾に近い場所を手のひらで撫でると、イオネがピクリと反応して抵抗をやめた。
どこにどう触れればイオネが抵抗をやめるか、アルヴィーゼは知っている。
「ではシルヴァン・フラヴァリどの。わたしたちはこれで失礼する」
「ああ。待ってください、公爵閣下」
シルヴァンはにっこりと笑い、上衣の内側のポケットから手のひらほどの大きさのカードを取り出した。金の箔押しの美麗な書体で、競売への招待が記されている。
「せっかくお知り合いになったので、是非今夜いらしてください。勿論、イオネも一緒に」
アルヴィーゼは冷淡な顔でそれを受け取り、一瞥してドミニクに渡した。
「予定を調整しよう」
「仮面を付けてきてください、閣下。きっと楽しいですよ」
シルヴァンの商売人らしい一面だ。イオネはなんだかおかしくなってくすくすと笑い、旧友へヒラリと手を振った。
足早に宿へ向かってイオネの手を引くアルヴィーゼの数メートル後ろを付き従いながら、ドミニクがソニアへ静かに目配せをした。
「あれ、誰」
ソニアにだけ聞こえる程度の声でドミニクが訊ねると、ソニアは渋い表情を見せた。
「おさな友達だそうです。とても気さくで善良な、フラヴァリ家の好青年です」
ドミニクは小さく息をついて何やら言い争いを始めた主人とその想い人の後ろ姿を見た。
「…荒れそうだな」
「イオネさまが寛いだ様子で笑い声を上げられるのを、初めて見ました。率直に申し上げて、強敵ですよ」
「勘弁してくれ」
ドミニクは頭を抱えた。機嫌の悪い主人のとばっちりを真っ先に受けるのは、自分なのだ。
「競売、行くんでしょうか」
ソニアがおずおずと上司の顔を見上げた。
「行くだろうね。あの方が市場調査の好機を逃すはずがない。フラヴァリ家の催しとなれば、かなりの大物が集まるだろうから」
「ああ、荒れそうですね。…でもほら、嵐の後に虹が掛かることもあります」
ソニアが殊更に声を明るくしたが、ドミニクの憂鬱は晴れない。
「どうかな。虹が出るには太陽が必要だ、ソニア」
「あら。あると思いますよ。雲に隠れているだけで」
「嵐のあとに雲が晴れればいいが」
二人の従者は長い溜め息をつき、友人への無礼な態度に文句を言うイオネと白々と皮肉を返すアルヴィーゼの後ろ姿を眺めた。
この夜、アルヴィーゼはシルヴァン・フラヴァリが支配人を務める競売会場へ現れた。眼の周りを覆う黒の仮面を付け、隣には不機嫌なイオネを伴っている。
彼女が纏っているのはソニアが持参した中から選んだゆったりした襞の美しい黒のドレスで、胸から足元にかけて星の紋様が金の糸で縫い取られている。アルヴィーゼの見るところ少々胸が開きすぎているようだが、イオネの頼りない肩を美しく官能的に見せるには完璧な形だ。
「…わたしの知らないうちに仕立てさせたわね」
イオネが目を覆う黒いレースの下でアルヴィーゼを睨め付けた。
このドレスは、以前ソニアがイオネのために用意したいくつかのデザインの中にあったものだ。そして、イオネの予算で仕立てたものではない。
「必要経費だ。仕事として夜宴に同伴することも増えるからついでに作らせただけだ」
「勝手なことをしないで」
「気に入らないなら出て行くときに置いていけ」
「気に入らないわけじゃないわ。ソニアの仕事は確かだもの」
「なら文句はないな」
アルヴィーゼはイオネとのトゲトゲした会話を愉しみながら、それとなく周囲を観察した。
仮面で顔を隠しているものの、だいたいはどこの誰か分かってしまう。エマンシュナにせよルメオにせよ、上流社会は狭いものだ。
競売会場である劇場のメインホールでは、観劇用の椅子は全て撤去され、国内外の名の知れた商人や貴族、共和国の高官などが立食形式の気軽な宴を楽しんでいた。ドレスコードに仮面が選ばれたのは、落札者の匿名性を保つというよりも、好事家たちに非日常的な時間を堪能させることが目的であるらしい。
とは言え、会員制で身元の確かなものしか参加することは許されないから、時折暇を持て余した金持ち連中の間で開かれるいかがわしい仮面舞踏会のような風紀の乱れはなさそうだ。
「うまい手ね。多少気が緩んでいる方が金払いが良くなるもの。慈善活動への寄付にもなるから財力を見せつけるために無駄に散財したとしても大義名分が立つし箔もつく。シルヴァンにこんな才能があるなんて知らなかったわ」
「確かに、なかなかやる」
アルヴィーゼは内心で面白くないと思いながらも、この手は見事だと認めざるを得ない。その上、フラヴァリ家の名を有効活用して多くの人脈を得ていることは、一目瞭然だ。
競売にかけられる品の目録も、大層なものだ。トーレの名のある工房で作られた細密な版画で、全ての品が細かく模写されている。
イオネはアルヴィーゼがでっぷりした紳士に話しかけられている隙に、人混みをスルリと縫って壁際へ抜け、壁の上方に掛けられた大きなステンドグラスのランプの下で目録にじっくり目を通し始めた。
出会えるかもしれないと思った希少本の出品はないが、芸術にそれほど縁がない者でも知っているような絵画や壁画の一部、太古の遺跡から持ち出された宝飾品など、どれも歴史的な価値の高いものばかりだ。
そこへ、顔半分を白い仮面で隠した、いかにも遊び慣れしていそうな紳士が近づいてきて、イオネに声を掛けた。
「その首飾りがご所望でしたら、あなたのために落札しますよ、麗しい貴婦人。ラピスラズリがあなたによく似合いそうだ」
紳士が指差した先には、着色された首飾りの絵がある。
「いいえ。これは個人で所有するよりも博物館や大学で研究するべきよ」
イオネは愛想笑いもせず、大真面目に返答した。
「使われているラピスラズリは千年前にウェヌス大陸の遙か東方の鉱山から採掘されて、この大陸へやってきたものよ。でもこの細かい彫金技術はもっと後の時代のマルス大陸南東部の特徴がある。それなのに、発掘されたのは大陸西部の遺跡だったそうよ。とても興味深い旅路だわ。当時の交易経路を検証するためにも研究者がこの首飾りを分析して――」
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アルヴィーゼが紳士とイオネの間に入り、冷笑を浮かべて相手を威圧すると、紳士は興ざめしたように去って行った。
「離れるな」
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「人混みは嫌いなの。あそこは暗かったし。あなたと話したい人がたくさんいるんだから、付き合ってあげたらどう?今日は匿名の集まりなのだからクレテ家の顔も通詞も必要ないでしょう」
「俺は同伴者をほったらかしにするほど礼儀知らずではない。それとも本当にあの男に何かねだるつもりだったのか?」
「馬鹿なこと言わないで。本当に欲しいものは自分で手に入れるわ」
アルヴィーゼはニヤリと唇を吊り上げて、イオネの手から目録を取り上げ、パラパラとめくった。
「お前が欲しいものはこれだな。五百年前のアストロラーべ、エル・ミエルド製」
確かに、今夜の出品の中で唯一目を奪われたのが真鍮でできた球体のアストロラーベだ。短い付き合いだというのに、好みを知り尽くされている。何だか癪だ。
イオネは無言でアルヴィーゼから目録を取り返し、ツンと顎を上げた。
「そうよ。でもわたしはこういう遊びに興味はないから、落札者が博物館に寄贈してくださることを祈るわ」
「では俺が競り落とす」
アルヴィーゼの形の良い唇が悪巧みをするように吊り上がる。イオネは肩に回されたアルヴィーゼの腕に心臓の閉塞感を覚えて、それを隠すように目を逸らした。
「なら、是非ユルクス大学に寄贈して。わたしがいつでも見られるように」
仮面の下の緑色の目が、妖しく光ってイオネを射竦めた。不可思議な感覚がイオネの肌を走り、胸をざわざわとさせる。目に見えない糸が身体に絡みつくようだ。
「そうだな。アストロラーベの旅がどこで終わるかは、お前次第だ」
誘惑するような低く甘い声で、アルヴィーゼが囁いた。吐息が肌を震わせるほどに距離が近い。
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